9-2.母
ルリたちは正面から入城した。自分の家に入るのに遠慮する必要はない。しかし主の居住となると話は別で、ルリたちをここまで導いてくれた赤い髪の男は城に足を踏み入れることを拒み、炎馬を使って南に行った。彼は入城の許可を得ていないと言い、ではルリがそれを与えると言っても聞かなかった。
出迎えてくれると言っていた父はいなかった。
ひんやりした灰色の石壁、花瓶の置かれた場所、絨毯の青。ルリが国を出たときとなにも変わっていない懐かしい城だ。だが城内は閑散としていて肌寒かった。いつもならせわしなく行き交っていた使用人たちも姿を消している。
ルリは回廊を通って庭へ出る。母は、セリナはこの庭を好んでいた。庭も以前と変わらないとは到底言えず、記憶にあるものよりさらに荒れていた。雑草すら生えず地面がむき出しになっているところがある。
「母様、どこにいるの? 帰ってきたのよ」
向こうに石造りの椅子があったはず、とルリは枯れた木のあいだを通る。すっかり細くなり中身のなくなった木はもう花をつけることはないだろう。この様子では庭師は逃げ出したのだろうか。
もちろんここにはコクフウたちも一緒だが、彼らはあちこちに足を向けるルリの後を追うことしかできなかった。広いウィンドランド城でぼうっとしていては二度と外には出られない。なにも考えずルリを追いかけていただけというのも理由の一つだが、今どこにいるのかさえわからないのだ。
「母様? 答えてくれなきゃわからないわ、どこにいるの?」
あてにしていた椅子には誰も座っていなかった。椅子というよりこれはいびつな石の台だ。ゴーストランドで見た、原形を留めていない石像そっくりだった。
「なにかに襲われたんでしょうか」
「でも……ウィンドランド城よ、ここ。庭だからってそんなこと」
「空を飛ぶことができれば門番も城壁も役に立ちませんし」
七大国の城はそんなに簡単に落ちたりしない、と開きかけた口をルリはつぐむ。回廊を男が歩いていた。城内で見かける初めての人だ。ルリが彼に声をかけると小走りでこちらにやってきた。
ぱっと見た感じでは老人だ。若くないから逃げる場所もなく城に残っているのかもしれない。彼はルリに対して深く頭を下げる。クロウたちは眼中にない。
「このようなところでいかがしました? お帰りになられたとは聞きましたが」
「母様がどこにいるか知ってたら教えてちょうだい」
「奥方様なら自室に。ただ、その」
歯切れの悪い言いかたにルリは眉をひそめた。急かしたくはなかったのだが、なに、と続きを促すとまるで他の者に聞かれるのを恐れているように耳打ちでもするかのような低い声で返ってくる。
「お騒ぎになりませんように。思わしくありません」
「いつから?」
「領主様が七席盟約のためにフォレストランドへ赴かれたときにはすでに」
七席盟約とルリがフォレストランドにいた時期は重なっていた。父がここからフォレストランドに行くのにかかる時間を考えても、少なくとも六十日以上前から臥せっていたということになる。
「わかったわ、ありがとう」
一礼して男は去る。その後姿でルリは彼が使用人をまとめる立場にあったものだと思い出した。それにしては記憶にあるものと比べてずいぶんとみずぼらしい格好だ。清潔だけは決して譲らなかったのに、彼らしくもない。ここまで思い出せずにいたことにルリは驚いた。
「行きましょう。はぐれないでね」
「一緒でいいのか」
「だって、今まで一緒だったじゃない」
クロウの言った意味が理解できず、ルリは思ったままを口にした。遅れてようやく、親子の再会に水を差すことになると言いたいらしいことがわかる。けれども言葉を変えるつもりはない。
十年も前にはすでに遊び場にしていた迷路のような城をルリは自由にめぐる。最初のころはコクフウもきょろきょろして道を覚えようとしていたが諦めたようだ。外観に個性のあるというわけではないウィンドランド城はとにかく入り組んだ造りになっていた。
この庭を好む母の部屋はここから近い西塔にある。階段を上ってまっすぐな廊下を歩いたところの少し奥まった場所だ。城に仕える者たちはいつから消えてしまったのだろう、隅には埃がたまっていた。
鳥の紋が彫られた立派な木の扉を前にして、ルリは怖気づいた。
母に会えばどうしたってルリは己の素性を明らかにしたくなる。だがクロウたちがそれを知るのはまだずっと先でいい。彼らがルリを領主の娘と知ってつきあっていることはわかっている。いまさら王女だと判明したところでなにか変わるものではないかもしれないが、それでも怖かった。
「……ねぇ、みんな」
「どこで待てばいい?」
ルリが口にすることを予想していたのか、それをクロウが遮った。
「一つ下に客間があるの。案内するわ」
本人には自覚がないかもしれないものの、クロウからそう言い出してくれたことにルリは感謝した。今まで一緒だったのだからと言った手前、こちらからやっぱり来ないでと言うのは難しかった。
再びルリは母がいる部屋の前に立ち、扉を叩いて返事を待った。今度は周りには誰もいない。いくらか時間がたって弱い声での入室許可が出る。人を安心させる懐かしい声だ。
母、セリナはルリが来るのを待っていたかのように寝台に腰掛けていた。細い糸のような金髪は若干色が抜けている。化粧をしていてもわかるほど顔は疲弊の色が濃い。親に使うべき言葉ではない、けれどもかわいそうと言うほかになかった。
座る母に近づくとセリナはルリの背中に手を回した。ルリも母の首筋に顔を埋める。
「お帰りなさい」
「ただいま、母様」
「陛下のご命令のほうはどう?」
「うまくいってるわ。秘宝は七つだから、あと二つよ」
腕が解かれ、ルリは手にした母の隣に座って秘宝を寝台に並べてみせた。
赤、青、緑、金、黒。秘宝にはそれぞれの国での思い出が詰まっている。いい思い出でなくても失うことのできないものだ。石の中心では光が渦を巻くような、あるいは太陽、木漏れ日、気泡、炎のような輝きを留めている。
「きれい……これ、全部がそうなの? さすが神獣の涙と言われるだけあるわね」
手に入れることができたのは数にしてみればたった五つだ。全部で七つしかないとはいえ、これだけ集めるのにずいぶんと時間がかかってしまった。秘宝を探していた時間よりも移動に費やした時間のほうが多い。
しばし見入ったセリナはそれに手を触れようとして、その直前で見えない壁に弾かれたかのように手を引っこめた。やっと彼女は顔を上げる。
「いいことを教えてあげましょう。青の混血児が奪った秘宝は偽物で、そもそもセントラルランドに秘宝は存在しない、そう陛下からお言葉があったわ」
「でも、陛下は奪われたって、領主たちに」
「それが予想以上の混乱が生じたようで、しばらくしてそれは撤回なされたの」
秘宝を青の混血児に奪われたとティーナの口から聞いたのはリューズエニアでのことだ。それより後のことだろう。あのころはまだ、領主が表面に出さなかっただけかもしれないが、目立った混乱もなかったように思える。
「つまり、秘宝は全部で六つってこと?」
「そう。わたしも調べたのだけれど、七つめの秘宝は神獣自身だそうですよ。神獣は六つの秘宝を持つ者をセントラルランドで待っているのですって」
「じゃ、あと一つ見つけられればいいのね」
セリナはうなずいた。あと一つだけでいいとなると心が軽くなってくる。今までたった一つ手に入れるのに時間がかかりすぎてきた。
「それに関しては、ルリが行ってからずっと国内を探させています。なにか報告があってもいいころなのだけれど」
「どんなものなのか知ってるの?」
尋ねてすぐ、知っているわけがないとルリは思った。秘宝とはどのような色で、形は、大きさは、と知っていたらルリが国を出るとき教えてくれたはずだ。やはり母は首を振って否定した。
「だからまだ見つかっていないの。役に立てなくて申し訳ないわ」
「そんなこと……探してくれただけでも」
並べた秘宝をしまうように言われてルリは丁寧に袋の中へ戻した。いつも全部一緒にしまっているが、石を囲む装飾にはとがったところがあるにもかかわらずどこか欠けたことなど一度もない。
母の薄い手がルリの手を包んだ。
「それにしても、よかったわ……。ルリ、あなただけでも帰ってきてくれて」
「あたしだけでもって、どういう意味? 父様は?」
消えそうな微笑をこぼすセリナにルリは思わず立ち上がって問う。元より再会はルリの予想していたものではなかった。門の前に父がいなかったことから悪い想像はしていたが、案の定だ。セリナの顔は陰りを帯びた。
「ファイアーランドで地割れが起こったのですって。それきり父様とは連絡が取れなくなって」
「地割れ? それがどうして父様とつながるの?」
「ファイアーランド領主を討ち取った以上、あの国はウィンドランドの一部よ。あの人は動かずにはいられない」
ルリはそこで動きを止めた。いや、まさか。
「ちょっと待ってよ、今なにが起きてるっていうの? あたし、三十日も船の上で」
つかみかかりそうになってルリは動揺を抑える。母は人間で、元々身体が弱い。今だってこれほどにも弱っているのに、娘のすべきことではない。
「大丈夫、まだ亡くなったという報告はないわ」
娘の手を握り、セリナは胸をそれとなく押さえながら記憶をたどるようにゆっくりと話し出した。
「ルリがウィンドランドを出てすぐ、リューズエニアが災害に見舞われたわ。続いてサンドランドが大飢饉、かと思うと大洪水に襲われて。七席盟約が終わるとフォレストランド領主が亡くなられて、アイスランド領主は病に倒れたと聞きます。ファイアーランド領主もお亡くなりになって、あなたの父様はまだファイアーランドに……」
そしてその父の統べるウィンドランドはこのとおりだ。凶作や天災に襲われているわけではないが、国全体が暗い。ゴーストランドには国から逃げる者がいると聞いた。セントラルランドを除く国々にこうも災いが降りかかっているのは信じられない。
王はいったいなにをしているのだ。そう思うと同時に、偽りの王がなにかしてくれるわけがないと思った。母はそのことを知っているのだろうか。
「それで、あたしはなにをすればいいの? ウィンドランド領主に?」
系図で考えれば、他の誰でもなくルリが真っ先に領主になる。ウィンドランド領主ヴェリオンの子供は公にはルリ一人しかいない。だがセリナはまたも否定した。
「ルリはルリのままでいいの」
「だって父様の子供はあたししかいないわ。女だからだめって言うなら、サンドランド領主だって」
領主の地位は重い。きっとセリナは親心からルリを領主にしたくないのだ。
「……ルリ、聞いてくれる? 父様と母様は隠し事をしていたの」
セリナはことさらゆっくり言い聞かせるように言葉を発した。幼子にものを教える口調であっても、母は常にルリを自身の上に置いていた。己の娘とはいえ領主の子供だという考えがあったからだと思っていた。
ルリは耳を塞ぎたくなった。真実が判明する。両親の隠し事など一つしかないではないか。
「今まで黙っていてごめんね。あなたは、本当は」
セリナは言葉を詰まらせ、だんだん視線が下がりうつむいていった。母に握られていた手はついにはなされた。彼女にそれを言わせるのは酷なことだ。しおれていく花のような姿をルリは見たくなかった。
「……知ってる」
先ほどクロウがルリに続きを言わせなかったように、ルリも母にそれを言わせなかった。言わせたくなかった。ここまで来たら自ら認めてしまったほうがいい。
「知ってる。あたしは本当の娘じゃないんでしょ?」
虚をつかれたような顔をしてセリナはルリを見上げた。
「ちゃんと言ってくれてありがとう。これでけじめがついたわ」
「違うのルリ、わたしは、母様は」
母の顔もまともに見ずにルリは無言で部屋を出て、逃げるように走った。セリナは走れない。一つ角を曲がってしまえばどこへ行ったかはわからなくなる。
最低だ。そうであることは知っていたのに受け入れられなかった。母を目の前にすると心が揺れた。彼女の気持ちも考えず、ルリは自分の感情を優先して母を置き去りにした。これが一人娘のすることか。
いや、娘ではなかった。彼女もまた母ではなかった。