8-3.決着
残りは歩いて二日だという坑道は、逃げ出したオサードを追うことによって一日に短縮された。一日中走っていたわけではなく、ときどき足を休めながらの道のりだ。あちらも背後に気を配りつつ休みを入れているだろうし、なにより相手は人間なのだからそう急ぐこともない、とミカラゼルは焦らなかった。
坑道を抜けるとルリたちが来た西側入り口のように塚があった。拝んでいく者は後を絶たない。誰だったかが死んだのをありがたく思っているようにしか見えなかった。ミカラゼルは加護などあるわけがないとばかりにそれを苦々しく見やる。西側にあった塚を目にしたときも不愉快そうだった。
晴天の空をミカラゼルは眩しそうに、そして懐かしむように見上げた。ゴーストランドに太陽は戻ったのだろうか。すべてが解決する前にこちらへ戻ってきてしまったからわからない。
「どこかの街に入る前に決着をつけなきゃならない。宿とか人の住んでる家に逃げこまれたら最悪だ。死んでるだのゴーストランドだの、おおっぴらには言えないからね」
ルリたちは傾斜を小走りで下った。岩石だらけでまっすぐに進めないのがもどかしい。走りにくいのは同じ条件であるはずのオサードの姿は近辺には見あたらなかった。坑道は一本道だったので追い越したという可能性は皆無だ。
ルリはミカラゼルの横について口を開く。今まで疑問に思っていたことを尋ねるためだ。
「あの、どうやってゴーストランドに連れ戻すんですか?」
「……それはルリちゃんがよく知ってるはずだ。船で見ただろう」
船で、と言われてルリは記憶をたどる。思い当たることは一つしかなかった。クロウを人質に取って無理やり船の乗りこんできた、あの男。
「まさか、もう一度……?」
「普通の人がゴーストランドに行く方法はそれしかない。あのときは仕事について詳しく話すつもりはなくて」
だからか、とルリは妙に納得した。表情をまったく変えずに男を海に突き落としたのは、それが仕事だったからだ。探す手間が省けたというくらいにしか思わなかったに違いない。
「泣かせる話じゃないか。自分が死んでるってことも忘れて、残してきた娘のところに戻って。まぁ死んだことを忘れるのは脱走者に共通してることだけど」
慌てず騒がず、いらだちを抑えてなおミカラゼルは冷静だった。その余裕の根源はなんなのだろう。むしろ追いかけるのを楽しんでいるようにも見える。
「北に追いつめるよ。浜辺まで行けばもう逃げられない。ルリちゃんたちには空から行って北に追いこんでほしい。できるかい?」
「やってみます」
「オサードの特徴はわかるね?」
はっきりうなずき、ルリはカロンを呼び寄せた。クロウとコクフウにもオサードを北へ誘導することを伝える。久々の空だ、目的はさておきカロンも飛ぶことができて嬉しいだろう。
一度立ち止まり、ミカラゼルと別行動を取ることになったルリたちはカロンの背にまたがった。カロンは二、三度翼を上下させてから助走をつけて足を浮かせる。見えない階段を駆け上がるかのように軽やかな上昇だ。ミカラゼルが遠くなる。
地上のミカラゼルはこちらに顔を向けて飛翔したことを確認すると、今までにない速さで走りだした。落ち着いているようだったがあれで案外焦っていたのかもしれない。道の半分を塞ぐ大岩を避けることもせずそのまま飛び越えてしまうほどだ。
彼があれだけ走っているのだからルリたちものんびりしていられない。カロンもそう思ったかどうかはわからないが足が少し速くなった。ミカラゼルを追い越し、帽子をかぶった大柄な男を探す。火山の出入り口付近ならともかく、ここまでくれば人もまばらで探しやすい。
先を行くにしたがって岩や地面の色がどんどん薄くなっていく。坑道に入ったときの道を逆走しているかのようだ。踏みしめられて固くなっていた地面はサンドランドを思い起こさせるほど砂っぽくなり、黒々としていた岩石も今や水気を失った砂の塊でしかない。
「ルリさん、あそこ、影がおかしくありませんか?」
右側を集中して探していたコクフウが指差す。一瞬ではあったが細長く伸びた影が動いているように見えた。
「カロン、このまま止まれる?」
指示を受けてカロンの足はたしかに遅くなったものの、空中で完全に静止するのは難しいらしい。翼による上下運動が増す。
「いいわ、少し降りましょう」
カロンの背中を軽く叩いてやると徐々に高度が下がっていく。あの影がオサードかもしれないということも考えて、東に向かう彼の真正面から現れるように方向を変える。
影が動いた。顔ははっきりしないが帽子のつばが影の正体を表している。
こちらを認識したオサードは逆走をはじめた。ルリたちは追いつきそうで追いつかない距離を維持してカロンを飛ばし、進路を北に取らせるよう少しずつ曲がる。目論見どおり、最終的にオサードは北の浜辺に向かって走ることになった。
彼がつまづいたときにはカロンの足を緩め、決して追いつかないよう調節する。ここで押さえつけることは可能だが、おそらくミカラゼルは浜辺で待っている。疲れきったところで彼がとどめをさすのだ。
ずっと走るうちにオサードはこれ以上逃げ場のない海に出てしまったことに気づき、そして人間がスフィンクスから逃れることなどできないだろうことに気づき、海水に浸った足を止めた。ぜいぜいと荒い息のあいだに声を絞る。
「どうして追ってくるんだ……。リューズエニアでの借りを返せとは言わないが、あんたたちには関係ないことだろう!?」
「ぼくがお願いしたんだよ。ゴーストランドとウィンドランドでは、ゴーストランドのほうが格上だ」
オサードの肩に手が置かれた。その手の主は笑みを無理やり貼りつけていた。
「ミカラゼル……いったいどこから」
「どうでもいいだろう、そんなこと。ルリちゃんたち、協力ありがとう。もう行っていいよ」
もう用はないとばかりに妙にとげとげしく言葉を吐いたミカラゼルはこちらに向かって手を振る。友人とするようにオサードと組んだ肩は彼を逃がさないよう力が入っている。オサードは身体を捻って抜け出そうともがくが、走った後で体力が底を尽いているのだろう、抵抗は無意味だった。
ルリは最後まで見届けるつもりでいたのだから、もういいと言われてもそれに従う気はなかった。クロウも目をそらすことなくオサードを見つめていた。
しかしミカラゼルはそれを許さなかった。一歩も引かずにいると背筋が凍りついたのだ。
「もう行っていいから。仕事の邪魔はしないでもらいたい」
毛を逆立てたカロンは背中にルリたちを乗せているということも忘れ、本能のままに飛翔した。乗る側は振り落とされないようつかまるのに必死でオサードとミカラゼルがどうなったのか振り返る余裕もない。羽音のあいだにかろうじて声が聞こえる程度だ。
「待ってくれ! おれはただ人に会いたいだけなんだ!」
「大丈夫。元に戻るだけだ」
「やめろ、おい……友達だろう?」
「友達だからこそ、だよ」
遠く離れた地上の声はそれ以上は聞こえなかった。下を見る余裕ができて振り返っても、舞い上がった砂のせいでなにが起こったのかすらわからない。オサードがゴーストランドから逃げ出した理由も、ミカラゼルがぴりぴりしている理由も、わからないことだらけだった。
血塗れた短剣をすばやく袖で拭き、鞘に収めて懐にしまいこむ。担当分は終わった。これでミカラゼルはゴーストランドに帰ることができるのだ。
スフィンクスが空へ駆けていくのを目で追う。土煙のせいで彼女たちにはなにも見えなかったはずだ。予想外に暴れてくれたものだから手間取ったものの、おかげでその場面はうまく砂塵に隠された。
事を成し遂げて気を抜いていたミカラゼルは、そのとき、真横からの衝撃に突き飛ばされた。吹き飛ばされたといっても過言ではない身体が砂地に直線の跡をつける。
堅い岩盤でなくてよかった、と安心したのはつかの間だった。今のはなんだったのだと身体を起こすと、目の前には黒い体毛で覆われた獣の姿がある。かつてゴーストランドを悩ませていた獣ほど巨体ではないが、持っている武器は小さな短剣だけという状況では震えあがるには十分だった。
ただの獣ではない。羽毛の生え揃った上半身は鳥そのもの、前足は鱗に覆われている。背中には身体の大きさにふさわしい翼が生えている。しかしその下半身は先のスフィンクスと同様、跳躍に優れていそうな太い足。グリフォンは、魔王の象徴ではなかったか。
ミカラゼルが指一本動かせずにいると、グリフォンの背から誰かが降りた。その影は細身で、魔王でないことは明らかだった。王ならばもっと着飾っていて大きく見えるはずだ。
「……なんだ、トーリュウくんか」
見知った人物にミカラゼルは肩の力を抜く。名を呼ばれた銀髪の青年はひどく驚いた顔をした。実のところミカラゼルには彼と面識がある。例の獣の件で力を貸してもらったのだ。それと引き換えにアルドラはルリたちに出した出国許可と同じものを書いた。
「どうして名前を」
「ゴーストランドのこと、忘れた? アルドラが文字を間違えたかな。記憶はそのままのはずなのに」
親しげに話しかけたつもりなのだが相手の反応は芳しくない。一方的に忘れられるというのは寂しいものだ。
「おれは死んでない」
「じゃあ、君の持ってる黒い秘宝はどこで手に入れたんだい?」
やはりトーリュウは言葉に詰まった。言葉の出ない口のかわりに青い目がなぜそのことを、と告げている。おそらくは気がついたら持っていたという状況だったのだろう。
気まずそうにそらされた彼の目は、身体の大部分を海水に浸す男の死体を見た。
胸を剣で一突き、それですべてが終わった。胸の傷からは血の一滴も流れていないため眠っていると判ずる者もいるだろう。死人の顔はまだ未練がありそうだったが、安らかといえなくもない。詳しいことは帰国してから聞き出せばいい。
「なにをしたんだ……?」
「誤解のないよう言っておくけど、トーリュウ君、彼はゴーストランドを抜け出した。今さっき連れ戻したところだよ」
困惑の目がミカラゼルに向けられる。瞳の色を取って青の混血児と呼ばれる彼の目はなによりも雄弁だ。
「もしかして、オサードとは知り合いだった?」
「……リューズエニアで世話になった」
ミカラゼルは目を丸くした。リューズエニアが独立したとオサードから手紙をもらって、それ以降のことは知らない。ここ数年のあいだにまさか子供の面倒を見ていたとは思わなかった。人のいいオサードのことだ、預かったか拾ったかしたのだろう。
「でも、少し遅かったね。あとほんの少しでも早かったらちょっとは話ができたかもしれないのに」
トーリュウから殺気を感じたのはわずか一瞬のことだった。それもそうだ、一時とはいえオサードは彼の親だったのだろうから。挑発したつもりはないがこちらの言いかたも悪かったかもしれない。ゴーストランドにいると心情についてどこか鈍くなる。
混血の青年はうつむいて感情を殺し、次に顔を上げたときには目からはなにも読み取れない。
「残った身体はどうなる?」
「一日もすれば崩れて顔もわからなくなるよ。死んだのはけっこう前になるから」
教えると同時に引き波がオサードの身体をさらった。着込んだ服は水を吸って色を濃くし、水面に浮かぶ彼を海底に引きこもうとする。これならば半日かからずにオサードの存在はなくなる。
「オサードはゴーストランドで裁かれる。ぼくも立ち会うことになるはずだ。……なにか、伝えてほしいことはあるかい?」
尋ねてすぐに無意味なことだと気づいた。ゴーストランドに行ってしまえばこちらでのできごとは忘れてしまう。脱走して後にミカラゼルと会ったことも、以前は友人関係にあったことも、自分が面倒を見ていた子供がいることさえ忘れるのだ。伝言などなんの意味がある。
しかし訊かずにはいられなかった。色鮮やかなこちらの世界に来て、ようやく人らしくなったような気がする。
「……忘れない、と」
はっきりした声だった。それだけ言って、トーリュウはグリフォンにまたがる。
「どこへ行くんだい?」
「ファイアーランド城。宝石の国の城なら秘宝もありそうだ」
言葉の最後を聞いたときにはトーリュウは空の人となっていた。黒いグリフォンはすばらしい速さで上昇し、青空のしみとなる。騎影は城のある東へ向かった。
ここはファイアーランドだったのだ、とミカラゼルは青空を目にして改めて思った。仕事は終わったが、せっかくファイアーランドに来たのだから気にかけていたことを確認したい。
帰国を先に延ばし、ミカラゼルはルリやトーリュウたちと同じ東へ歩きはじめた。