7-2.罪人
走り去ったコクフウを追って分け入った森は予想以上に深い。だがかつての霧の森のような不気味さはなかった。ただ静かに呼吸するのみだ。あのとき悩まされた腐臭はしない。
スフィンクスの足から人間が逃げきれるはずがない。カロンはにおいを頼りにあっさりコクフウに追いつくと、彼の頭上を飛び越し先回りをして行く手をさえぎった。
「コクフウ君、いきなり走りだしてどういうつもり?」
「逃げるつもりはなかったんです。ちょっと動揺しちゃって……すみませんでした」
コクフウは目を伏せ、それから頭を下げた。彼にしては珍しくルリと目をあわせようとしない。
「気に障ることを言ったなら謝るわ。どうして急に」
ルリはカロンの背から降りて俯いたままの彼に近づく。
「あの国に何度も行ったことがあるとか、どういう意味か聞かせてくれる? 嫌ならいいんだけど」
逃げ道を用意して尋ねるとコクフウはやっと顔を上げた。木漏れ日が彼の両眼を金色に輝かせている。
「……僕が罪人だからです。ずっと昔、僕が僕でなかったときの話になります。僕はある人を裏切った」
「でも、それはコクフウ君がしたことじゃないでしょう?」
「未来永劫、死んでも続く呪いみたいなものですよ。それほどの大罪を犯したというわけです。ゴーストランドを出国すると今までのすべてを失い別の姿になって再び生まれ落ちるといいますけど、僕の場合はその呪いのせいで記憶を保ったまま生まれてきた。だから僕は習ったことのない文字を読めて、ゴーストランドのことも知っていたんです。前の人が文字を知っていたから。ゴーストランドのことを覚えていたから」
「それじゃ、コクフウ君はコクフウ君じゃないの? その、罪人がそう名乗っているだけの?」
「いえ、僕は僕ですよ。僕には僕の感じかたがあります。記憶を共有しているだけの別人と考えてください」
そうは言われても理解できなかった。同情できない話だ。そのまま信じることも難しい。ルリの不信を読み取ったのだろう、コクフウは続ける。
「ルリさんの小さいころの遊び相手にナクマって子がいたでしょう。あれ、僕です。危ないとはわかっていたのについ夢中になって、こっちこっちと誘ってルリさんを危険な目に遭わせてしまいましたね。そのときの埋めあわせがしたくて今一緒にいるのもあるんですが……覚えてますか?」
この場にいる中では誰も知らないはずのかつての友人。城内でも話題にのぼることはめったになかったというのに、コクフウはルリの過去を手掛かり一つなしに言い当ててみせた。
あのころの小さな友人は、口さがない者たちの言葉を借りればルリを殺そうとした。彼は潜んでいた魔物に襲われて絶命した。その場に大人たちがいたのが幸いしてルリだけは無事だったのだ。誘われた場所に偶然魔物がいただけなのに、その報いを受けて彼は死んだのだとされていた。
「そんな……あの子が、コクフウ君?」
「はい。厳密に言えば僕ではないんですけれども」
二、三ほど歳の離れた友人だった。彼がゴーストランドへ向かってすぐ出国を許されたとしても、現在のルリとコクフウの年齢差では計算があわない。
「おかしいわ。だってコクフウ君はもう十歳をすぎてるでしょう?」
「そのときすでにゴーストランドは時間が狂っていたんです。あのときの領主様は今のお二人ではありませんでしたから、けっこうな混乱期にあったのだと思います」
「ナクマだったときの記憶があるから、あたしに申しわけなくて一緒にいるの?」
「違います。言ったはずです、僕には僕の考えかたがあると。これは僕の意思です。記憶がなくても僕はルリさんたちと一緒だったでしょう」
コクフウは強い口調で否定した。彼に罪悪感があったり恨まれていたりということはないようでルリは安堵した。強い感情を向けられることによる気分の悪さを忘れかけているところだ。
次々にルリの疑問点を解消していくコクフウは、僕は、と強調する。それは自分はナクマではないのだと言い聞かせているようにも思える。
「もう隠す必要もないので言いますが、ゴーストランドで少し話したイレシアという女の子、彼女も罪人です。街から弾かれていた子ですよ。挨拶していたのを見て、ルリさん、知りあいなのかと訊きましたよね。彼女は昔の仲間でした」
「そんなことだったら、そのとき答えてくれればよかったのに」
「周りの目もありましたし、このことは極力隠しておきたかったんです。本当に、すみませんでした」
コクフウは再び頭を下げた。今回の謝罪は先ほどのものより若干軽く感じられる。嘘や隠しごとを好かない彼はすべてを話して心に余裕ができたようだ。
成獣となったカロンに乗ったまま話を聞いていたクロウが地に降り、カロンを連れてコクフウに歩み寄る。これまでの話に納得できていない様子だ。
「なぜ今まで」
静かにそう問われるとコクフウは黙りこくった。青い空を見上げ、草の茂った地面に視線を落とす。普段隠しごとのない彼が秘密を持ったとなればクロウの疑問ももっともだが、それほどまでに話したくないことだったということにクロウは気づかないのだろうか。
「クロウ、別にそんなことはいいじゃない。もうなにも訊かないから、距離を置いたりしないでくれるとありがたいんだけど……」
ルリはクロウの言葉をなかったことにしてコクフウに向き直った。問い詰めればすべて話すだろうコクフウはあからさまにほっとした顔をしていた。
「取り乱してしまってすみません。では、行きましょうか」
カロンのたてがみを撫でたコクフウはカロンに鼻先を押しつけられてしりもちをついた。
茂る森をコクフウは生き生きとして先頭を歩いた。森の住人のような足取りだ。秘密を明かし、心だけでなく身体のほうも軽くなったと見える。
「ここには以前来たことがあるんです。いえ、僕ではないんですけど」
「どこに向かってるの?」
先ほど王の手の者でもない男たちに死んだと判断され、王城へ連れていかれるところだったことをルリは思い出す。彼らは農夫とも知識人とも見て取れ、その行動は雇われてというより自主的なものだった。おそらく手配書かなにかが出回っているのだろう。普通の街には行けない。
「人がいるところですよ。堂々と表を歩くことはできませんから、たぶん、ルリさんは見たことがない場所だと思います。ほんの少しだけ覚悟してください」
行くのに覚悟の必要な場所などあるのだろうか、と思いつつルリはクロウにちらと目をやった。
カロンの背中はクロウに独占されている。きれいにたたまれた純白の翼はこの森を進むには邪魔そうだ。カロンは枝の突き出たところを避けて通り、跨るクロウは垂れ下がっている蔓を払う。
「このあたりなんです。エズという長老がいるので、彼と話ができれば全部うまくいくんですが」
歩き続けるうちに密集して立ち並ぶ大木の数が減り、徐々に空から赤く色づいた日光が差しこんでくる。そろそろ森を抜ける。
一歩踏み出すと視界が開けた。待っていたのは荒れた街だった。露出した地面は乾燥していてサンドランドを思い起こさせる。きちんと建っている家はなくすべてが半壊状態だ。足元を見れば境界線が明らかだった。街の領域を示すかのように、こちら側には地を覆っていた草が一本も生えていない。壁で仕切られたように空気も違う。
「ほんの少しの覚悟って、この様子に対して?」
「はい。予想ほどじゃありませんでしたけどね。前はもっと酷かったんです。それこそ霧の森みたいな感じで」
西からの日差しを浴びるコクフウは急いでいるようだった。らしくなく先走る彼にクロウは待て、と声をかける。クロウを乗せたカロンはといえば草木の茂る森の領域で足をすくませていた。
「カロンが嫌がってる」
「魔物だからでしょうか。カロンは特に敏感そうですしね。ルリさんは大丈夫ですか?」
「ええ、あたしは平気。半分は人間だから、これといってなにも」
言葉を交わすあいだにも斜陽の光を恐れるかのようにカロンは森の中へじりじりと後退した。気遣わしげにクロウが毛並みを撫でる。彼らを引き離すのは無理だろう。
「では、クロウさんとカロンはここで待っていてくれますか? 夜までに話をつけないとその後が大変ですから」
普段より早口でそれだけ言うとコクフウは急ぎ足で街の奥へ向かった。境界線の向こう側にいるクロウがうなずくのを確認し、ルリはコクフウの横に並んで同じく早足で歩く。
じきに夜が来る。これほどまでにコクフウを焦らせるものはなんなのだろう。
街に足を踏み入れてから初めて見つけた雑草は枯れていた。フォレストランドに草木のない死んだ土地があるとは思ってもみなかったルリはついあちこちに視線をやってしまう。
「あまりきょろきょろしないでくださいね。見られてますよ」
え、とルリが小さく声をあげて後ろを振り返ると、家の残骸から姿をのぞかせていた影が次々に引っこんでいった。通りを歩くうちに何人か住人を見かけたものの、人の気配が薄かった。今もそれは同じだ。だというのに十を超える人数が背後にいたとは。
得体の知れない恐怖にルリは身震いした。遺跡と称しても問題のないような建物は上部がごっそりなくなっている。赤く照らし出された屋根のない建物の隅のほうに人々がかたまっていたが覇気がなかった。ここの住人は生きている気配がしない。
「昔の戦で地面に滲みこんだ毒がまだ残っているみたいです。ここがこんな様子なのもそのせいかと」
ルリの恐れを読み取ったかのようにコクフウは教えてくれた。カロンがこの土地を嫌がった一因はきっとそれだ。
「長老のところに行って、それからどうするの?」
「滞在権をもらいます。夜までに得られなければここにはいられないので……」
人がいては話せない内容なのか、コクフウは周囲を警戒して言葉を切った。人の気配は薄すぎてうまくつかめない。ルリには誰もいないように感じられる。
「どうかした?」
「あの廃墟です、急ぎましょう。もうすぐ夜です」
突然コクフウが走りだした。わけのわからないままルリはそれに従う。夜はたしかに近いが、ただ赤いだけの夕空を見るかぎりではもう少し余裕があるはずだ。
通りを歩く者は少なく、前方に注意する必要は特にない。進むにつれて赤い光に照らされた廃墟が迫ってくる。しかし、一瞬のうちに荒廃した街は闇を背景にしてぼんやりと白く光りはじめる。夜だ。
視界が暗くなった途端、足は前に出ているはずなのにそれは急に遠ざかった。コクフウは遅れるルリに気づかず先へ進んでいく。急がなければならないのは理解しているが、一度くらい振り返ってくれてもいいのではないか。
足を出しても地面を踏みしめる感覚がなくなって、そこでようやくルリは何者かに抱えられているせいで目的の場所から離れていっているのだと気づいた。気づいたときには意識を保つことが難しくなっていた。
夜になってしまった。もう間に合わない。
コクフウは己が急かした彼女にどう説明したものかと肩を落として振り返った。が、そこにいるはずのルリがいない。まさか追いつけなかったということはあるまい。
「ルリさん、どこにいるんです?」
呼びかけたみたもののやはり彼女からの返答はない。その代わり、今までどこに隠れていたのかというほどの巨体を持った毛むくじゃらの魔物がコクフウの前に現れた。ぼろをまとった住人たちも一緒になって近づいてくる。だから夜までに約束を取りつけたかったのだ。
領主に見捨てられた街とでもいおうか、ここは罪人の掃き溜めだ。罪人といってもコクフウの負うような特別なものではなく、盗みや殺しをしたなど普通の意味で使われる罪人だ。城の地下牢では足りなくなったためにこの廃墟を転用したという話を聞く。
この状態では街の支配者に会うのは無理だ。人間の身でまともに彼らの相手が務まるわけがない。コクフウは逃げ出した。
暗くて周りがよく見えない。クロウとカロンを残した場所に戻ることすら困難だった。彼らを振り切って、ルリがいなくなったことを伝えて、と考えると気が重くなる。
「コクフウ、上だ」
静かな子供の声。息を切らせながら声のしたほうを見上げると大きな影があった。純白の翼が闇を弾き、黄金色の毛並みが輝いている。カロンがクロウを乗せて飛んでいる。
獣はコクフウの横を地面すれすれに飛んで彼が騎乗するのを待った。コクフウは片手をその広い背にかけ、クロウの手を借りてしがみつくように飛び乗る。コクフウが体勢を整えると、追いすがる魔物たちから逃れるためカロンは大きく羽ばたいて一気に上昇した。