7-1.茂みから
身じろぎ一つできないルリは薄目を開けることしかできなかった。目蓋が重い。はたから見れば目を閉じたままといえるほどの薄目だ。視覚からの情報はあまりにも少ない。どうにか目を開けようとしていると、身体の感覚が戻ってきた。しかしまだ指一本動かせない。
誰かに抱えられている。胸や腹部が圧迫されていることから、どうやら肩に担がれているらしい。
「せっかく成功したんだ、早くずらかるぞ!」
「待てよ、こっちは二人も連れていかなきゃならないんだ」
男の声が二つ。クロウとコクフウがルリと同じ状態ならば、彼らはもう一人の男に抱えられているのだろう。
気がついたらこの状況だった。ゴーストランドの馬車がしかるべきところへ送ってくれる、とかの国の領主アルドラは言っていた。これがしかるべきところか。馬車を降りた記憶はない。途中で眠ってしまい、見えない御者が降ろしておいてくれたのかもしれない。
ルリを担ぐ男が歩きはじめた。足音は草を踏みしめる音。
よく覚えている、ゴーストランドの前はアイスランドに滞在していた。アイスランド領主が転移術を施してくれた。ゴーストランドへ行く手段は死しかないから、そこへ送られたわけではあるまい。ではどこへ、と自問してルリはここがフォレストランドではないかという答えに行きついた。
フォレストランド。その答えにたどりついた途端、青い草のにおいが胸を満たした。やわらかな風、葉のこすれる音、すべてが今まで以上に鮮やかだった。自然の気を吸うにつれて指先から温まっていく感覚があり、目も開くようになってくる。
男の窪んだ目がまっすぐにこちらを見つめている。
「おい、こいつ、生きてる!」
「急かしといてそれかよ。さっさと殺して魔王のところに持っていこうぜ?」
男は震える手で腰のあたりをまさぐった。帯剣している。
抵抗したがルリをしっかり抱える腕はびくともしなかった。このままでは本当に殺される。再びゴーストランドへ行ってもアルドラは助けてくれないだろう。二度目はないに決まっている。
そこに、ざ、という不審な音が響いた。茂みの揺れる音だ。生き物が近くにいる。
「気にすんな、ただの動物だ。頼むから早くしてくれよ。腐りでもしたら確認できなくなるだろ」
それはルリにとって希望の音だった。もしや、カロンではないだろうか。ゴーストランドでは病気だったというからアイスランドを出て以来ずっと会っていない。カロンならば、呼べば必ず来てくれる。
「カロン!」
がさりと茂みが揺れた。やはりカロンに違いない。逡巡したようで、少しの間があってから一頭の獣がそこから躍り出た。額の文様と黄金色に輝く身体はまさしくカロンだ。だが、腕を広げてもまだ足りないほどの翼や人を二人は乗せられるだろう体躯には見覚えがない。
「……カロン?」
戸惑いを含みながらの呼名に、その獣は鋭い牙を見せつけた。茶色というには明るい色をしたたてがみが波打っている。このような姿に見覚えはないが、白い翼に額の模様は白羽黒紋という珍しい種類、おそらくカロンだ。
「なんなんだよ、こいつ……」
「背中を見せないように逃げるんだ。まずは女を地面に置け」
「どうしてこんなのがまだ森にいるんだよ……」
「女を手放せって言ってるだろう!」
その言葉を皮切りに、男はルリを投げ捨てるように解放して一目散に逃げ出す。背中を見せないようにという忠告を無視した彼はすぐさま獣の前足に押さえつけられた。じりじりと後退していたもう一方はすでにクロウとコクフウを地面に横たえた後で、仲間が捕らえられたのを見るやいなや背を向けて走り出す。が、転倒して動かなくなった。
強く打った背面をさすりながらルリは身を起こす。一人の男を捕らえた獣を見やると、知性をたたえた海色の瞳がこちらを見つめ返してきた。ややもしないうちに視線はルリの背後に移る。
誰かが走ってこちらへやってくる。目の前のしっかりした体格の獣が警戒していないのだから危険はないのだろう。女が男の手を取って先導している。
「ガルディン様、こちらです、彼女のスフィンクスが」
「お待ちを、イシズミア殿。まだ敵がいるかもしれない。危険だ」
「あなたが彼を転ばせたのではなくて? 敵は二人だけのようですからご安心を」
緊迫が去り、そこでざわついたせいだろうか、少し行ったところで倒れている男の横たえたクロウがゆっくりと身体を起こした。きょろきょろとあたりを見回して状況を判断したのだろうクロウは緩慢な動作でルリに近づいてくる。コクフウが目覚めないのは彼が人間だからだろうか。
女と男が目で確認できるほどすぐそこまで近づいて、ルリは言葉に詰まった。小走りで向かってくるのは先日まで兄に幽閉されていたサンドランド領主イシズミア、彼女に手を引かれているのはこの地に送り出してくれた盲目のアイスランド領主ガルディンだ。フォレストランドにいるはずがない領主の二人である。
イシズミアはガルディンの手を離すとまずカロンだろう獣のそばにしゃがみこみ、恐怖に引きつった顔をしている男の自由を改めて奪った。男の手足と地面を土でつないで拘束したのだ。これでは獣の前足がどかされても立つことができない。
「もう押さえていなくても平気ですよ。ご主人のところへ行って差しあげて」
許しを得た獣はルリに、クロウに頬擦りした。やはりカロンで間違いない。一人足りないことに気づいたカロンは気を失ったままのコクフウをくわえて戻ってくると、褒めてと言いたげに鼻を鳴らした。
最後に目覚めたコクフウは案の定驚きの声を発した。まずカロンの姿に、そして普通の生活をしていればまず会うことのできない二人に。蒼白な顔にだんだんと生気が戻ってくる。
「カロンは成長したと言われればまだ納得できますが……ど、どうして領主様がこんな場所にいらっしゃるんです? お二人とも領地を離れて」
彼の言葉はルリに向けられたものだった。コクフウはサンドランド出身だ、自国の領主がなぜ国を空けているのかという思いが強い。それはこちらが聞きたいくらいだったルリは、目を白黒させるコクフウの視線を領主の二人に流す。
話してもいいだろうかとイシズミアはガルディンの顔色を見た。しかし彼の反応がないことから盲目であることを思い出したのだろう、緩く頭を振って口を開く。
「フォレストランドで七席盟約が開かれるのです。領主たちは全員この国に向かっているわ。大戦とリューズエニアの処遇についてが主な内容でしょうね」
「陛下や父様も?」
これにはガルディンが答える。ルリのほうを向いてはいるものの、黒い瞳はなにを映しているのかわからない。
「こちらへ来られないゴーストランド領主は例外として、全員。戦場にいようと呼び出される」
「領主たちは仲が悪くて戦っているわけじゃないもの」
「一部は私情が混じっているようだが」
「それは、フシトウナ様は戦好きでいらっしゃるから」
笑って言うイシズミアにガルディンはあきれたような顔をした。
そのような話には興味がないとばかりに離れた場所でカロンのたてがみに顔を埋めるクロウを横目にして、ルリは自分の疑問に思った点を口にする。
「その七席盟約ってセントラルランドで開かれるわけじゃないんですか?」
「場所は特に決まっていませんね。陛下の気まぐれで開かれるようなものですから。ウィンドランド城でも行われたのですよ、覚えていませんか?」
薄っすらとなら、とルリは答えた。幼少のころの記憶に、使用人でも村人でもない風体の大人たちが何人か城を訪れてきたというものがある。ルリが挨拶するとこぞって褒めてくれた。それかもしれない。年に一度開かれる七席盟約。おまえもいつか出席するのだと父に言われて育った。
「イシズミア殿、そろそろ行かねばまずいのでは?」
ガルディンが口を挟んだ。呼びかけられたイシズミアは空の具合をさっと見る。
晴天、日は高い。フォレストランドに到着して、おそらくすぐゴーストランドへ行くことになってしまったためルリには時間の経過が実感できない。あちらへ行っていた分進んでいるのか、それとも一瞬でしかなかったという扱いなのか。ここまでの転移術を施してくれたガルディンが同じ場所にいるということは、少しは進んでいるようだが。
「そうですね、馬車を待たせたままでした。さ、ガルディン様、こちらへ」
申しわけなさそうな顔をしながら彼女はガルディンの手を取る。察するに彼の伴侶は連れてくることができなかったのだろう。
「機会があればまたサンドランドに遊びにいらしてください。あなたがたが無事で本当によかった」
小石や木の根に注意を促して二人は森の奥へ消えていった。
一国を統べる領主の二人が遠ざかるとクロウが歩み寄ってくる。
国の頂点であるのに領主という呼びかたはおかしいが、ずいぶん昔に王より領地を賜った領主たちが反旗を翻した結果、国が七分され七大国が形成されたという話だ。領主という呼称はその名残でしかない。
「ルリさん、よかったんですか?あのお二人と同行させてもらえば城下大都に行けたかもしれないのに」
「それも考えたけどね、陛下に敵視されてる以上やめたほうがいいわ。コクフウ君は気絶しててわからなかったかもしれないけど、そこに倒れてる人、あたしたちを殺して王のところへ持って行くんだって言ってたし」
イシズミアによって拘束されたままの男を指差す。彼らのような者が魔王とつながっているわけがない。となると、ゴーストランドにいるあいだに懸賞金でもかけられたのだろう。妙なところで有名になってしまったものだ。
「それじゃ、僕たちがゴーストランドで目覚める前に見た変な夢も、この人たちが?」
「たぶん。たしか、『虚無』っていったかしら」
「そう、虚無。聞いたことがあります。その術にかかると悪夢を見て、気がついたらゴーストランドってよく言われますね」
実際、ルリたちがそうだった。目覚めると見知らぬ部屋、そしてゴーストランド領主に呼ばれ。通常なら出国すれば新たな人生を踏み出すところを、自分自身を保ったまま生きて帰ることができたのは運がいい。
「コクフウ君って物知りよね。そういえばゴーストランドのこともよく知ってるみたいだったし、アイスランドでは読書して過ごしてたとか。その、ああいう生活してても文字って読めるの?」
あまり外出する機会のなかっただろう彼のサンドランドでの生活を示してルリは言った。
「僕は……教えてもらったので」
「ゴーストランドでは本当に助かったわ。あの国に関する読み物はなかなかないみたいだけど、どこで読んだの?」
「……何度か行ったことがあるんです。僕が、ではないんですけれども」
ルリは目を見張った。死者の国ゴーストランドは何度も行ける場所ではない。
「それってどういう」
「すみません」
コクフウは領主たちが立ち去ったのとは反対方向へ走る。ルリはあまりにも突然のことすぎて追うことができなかった。代わって追いかけようと一歩進んだカロンを、クロウがその背中に手をやることで制止する。
「クロウ、なにか知ってる? あれってつまり、何回も死んだってこと? それとも」
「前に死んだときのことを覚えているんだろう」
特に驚いてはいない声色だ。この子供にはいったいなにを言えば驚いてくれるのだろう。
「そういうのって覚えていられるもの?」
どうだろう、とクロウは答えた。理論的には考えず口をついて出たといったところだ。
茂る木々の奥には闇。そこへ走り去ったコクフウの足音はもう聞こえてこない。ゴーストランドにある霧の森ではルリが逃げた。あのときはどのようにして彼らと再会したのだったか。
「追いかけなくてもいいのか?」
「あたしが追いやったようなものなんだから、追うに決まってるじゃない!」
それを聞いたカロンは乗れとばかりに身体を低くした。残された二人はありがたくその背に跨る。まだそれほど遠くには行っていないだろうが、闇雲に追いかけても迷うだけだ、ここはカロンの鼻を頼りにするしかない。




