3-5.底流の音
「おい、あれを見ろ!」
雨に打たれる先頭の男が指差す先に、小さな孤島があった。
「そんな! あそこは村の……」
他の男が言った。もはや孤島としか表現できない村に衝撃を受け、言葉を紡げなくなった。周りの地盤が水の重さに耐えきれなくなって沈下したと考えられる。しかし、どうしてあの場所だけが残っていられるのだろう。
その孤島には、幼い子供たちがいた。
「あ……」
ルリは見た。小さな孤島が障壁で守られているが、その守りは揺れている。村がこのよな状態となるまでの長い時間守りの障壁が保たれていたのなら、もう術者の力にも体力にも限界が来る。傍から見て今にも崩れそうだった。
あの揺らいでいる守りが破れたら。
「クロウ、オサードさん、障壁をどうにかできる?」
ルリは、隣を走るクロウとオサードにそう言った。この場の水を蒸発させようにも、あたりは水だらけだ。水が蒸発するのと流れこんでくるのでは、明らかに後者のほうが早い。
「こんな大規模なものは……すみません」
「ここだけ覆っても仕方がない」
クロウの言うとおりだ。ルリたちが今まで通ってきた道にも水は溢れていた。
「その……俺、水術師なんですけどなにかできませんか?」
そう言って前に踏み出したのは、二人の男だった。
「水が入ってこないようにお願いします」
指示を受けた彼らは、比較的安全と思われるところに馬をつなぎ、孤島と化した村に向かって透明な壁を作り出した。ルリがこの村へ行くことに賛同した様子のなかった二人に、まさか本当に頼みを聞いてもらえるとは思わなかった。
ルリは先頭に立って大きく息を吐いてから術の詠唱をはじめる。最初からきちんとやるのは久しぶりだ。言葉自体は簡単だが、これがあるのとないのとでは結果が大きく違う。
「……大いなる紅蓮の焔よ」
一陣の風が吹く。
「我が声に応えよ、そして従え」
ルリの指先に焔が灯った。その指先を、行く手を阻むものを薙ぎ払うかのように腕ごと振り上げた。
聞こえるのは地をも震わせる轟音。見えるのはすべてを焼き尽くす、降りしきる雨でも消えぬ紅蓮の焔。その光景に、クロウやオサードをはじめとする皆が息を呑んだ。
あの青い目の青年は、性質は異なるにしても同じことをなんの補助もなくやってのけた。ルリと同じ、人間が好んで使う術だ。年齢、力量の差と言われればそれまでだが悔しいことに変わりはない。
どれだけの時間がたっただろう。やっと焔は勢いを衰えさせ、轟音も徐々に聞こえなくなりつつあった。それでも人々はまだ口が利けなかった。ルリの術の凄まじさにあ然としていたようだった。
焔が消えても、周囲はほとんどなにも見えなかった。蒸気がこの場を覆いつくしていた。
そのうちに、霧が晴れるように蒸気はすうっと消えていく。今までは水に囲まれていていたため孤島は安定していたようだが、水をルリの焔が消し去ってしまったせいで危険な状態にあった。子供たちのいる岩場と化したそこは崩れ落ちそうなほどぐらついている。やはり、何度見ても以前は村の一部であったとは思えない。
その岩場にいるのは子供たちだったが、たった一人、年格好の違う者がいた。その人物は俯いたままであったが、まるで子供たちを守るようにしていた。おそらく、彼女こそが孤島を守り抜いた主。
やがて年長の女はあたりを満たす水がもうないことに気づき、こちらにも気づいた。安心したのだろう、障壁は掻き消えた。それによって子供たちの声もこちらに届くようになる。
「ぼくたち、助かったの?」
「お父さん! 来てくれたんだ!」
その声を聞いた人々は安堵のため息をついた。よかった、元気そうだ。
「……でも、どうやって向こうに行くんだ?」
大人びた一人の少年が言った。
「大丈夫ですわ。私があちら側まで連れて行ってさしあげます」
少年よりもさらに年上の少女が言った。守り主は彼女だ。彼女が指を横に動かすと、透明といっても変わりないくらい、ほんのわずかに淡く色づいた球体の中に子供たちはやんわりと包みこまれた。その少年ももちろん一緒だったが、球体を作り出した彼女は、まだ残ったままだった。
少女以外を包みこんだ球は雨風にあおられながらこちらへやってきた。地盤のしっかりしたところまでくると破裂する。泡が破れてわらわらと大人たちの元へ駆け寄る子供衆が、卵から出てくる幼虫と重なった。
「もう平気だぞ。親はリューズエニアで待ってるからな」
という言葉が、人々の口から漏れるのをルリは聞いていた。ルリはまだ安心できていない。子供たちを守ったあの少女が、取り残されている。
「あなたも早く」
ルリは届かないのを承知で少女に手を伸ばしたが、少女は間髪をいれず拒絶した。
「無理ですわ。だってもう、力は底をついているんですもの。それに、足が動きませんし」
「でも、もうそこは……崩れたらどうなるか、わかるでしょう?」
「もちろん。死ぬ、それだけのこと」
「それだけって……」
少女の赤い瞳は冷めきっていた。よくよく見れば、きれいな顔立ちをしている。雨に濡れているせいで肌に張りついた二つ結びの金髪はルリよりきれいではないだろうか。服も上等で、きっといいところの出だ。
クロウがルリと少女を見かねて近寄ってきた。この言いかた以外を知らないような命令口調で彼は言う。
「跳べ」
「クロウ、いくらなんでもこの距離じゃ無理があるわ」
ルリにちらりと視線を向けると、興味を失ったように少女のほうへ意識を戻した。
「なんですの。この私に命令なさる気?」
跳べ、とクロウはただ繰り返した。
「ですから足が……」
「いいから、早く」
思いどおりにならず不機嫌になる子供に逆らうのを諦めたのか、はたまた意を決したのか、少女はふらつきながら立ち上がった。この距離を跳んで向こうへ渡るのは無理だ。そうわかっているのだろうが、右足を庇いながら彼女は助走をつけてこちらへ跳んだ。蹴ると同時に彼女の足場が崩れる。
あ、というか細い声。
やはり届かなかった。これがあと少しで、というところだったら気持ちもずいぶん変わっていただろう。少女が緩やかに落下をはじめたのは、まだ距離があった。
そのときだ。凄まじい強風が、少女の身体を持ち上げ、助けるようにして吹いた。差し出されたクロウの手を彼女は無我夢中で取る。クロウの口が言葉の形を作ったが、ルリにはなんと言ったのか聞こえなかった。ルリの焔ほどではなくとも、その風も十分激しかったのだ。
少女の足が地面につくと、大風は嘘のように静まった。強風に驚いた人々の視線もはずされる。
「助けてくださってありがとうございます。ねえ、あなた、お名前はなんとおっしゃるの?」
鈴を転がしたような声。少女はまるで花開くように微笑んでクロウに問いかけた。やや間があって、戸惑いがちにクロウは己の名を告げる。
「クロウ様ですか。私はティーナと申します」
無視されている気がするのは気のせいだろうか、とルリはそのやり取りをいらいらしながら眺めていた。無視されるのは慣れない。近くで見ると外見は自身より明らかに年下。だから余計にいらつくのだろう。
なぜ、とルリは思った。自分が名前を尋ねたときは不服そうに、いかにも仕方なさそうに答えたというのに、どうして彼女相手ではこうも素直に答えるのか。
「ところで、リューズエニアはどこにあるのかご存知ですか? 連れがそこで待っているのです」
「あたしたち、そこから来たんだけど、よかったら一緒に行かない?」
ルリはできるだけ笑顔で言った。リューズエニアは国名だが、同時に街の名前でもあることをオサードから聞いている。
しかし、ティーナは反応を示さなかった。狙ってやってるのか本気なのかわからない。ルリはクロウに目で訴える。情けなさと呆れとが滲み出ているだろう己の目を見たクロウは、ため息の後、ルリの言葉を反芻した。
「私たちはリューズエニアから来たんだが、一緒に行くか?」
「まあ、本当ですの?」
クロウの言葉にティーナの赤い瞳はきらきらと輝いた。
「でも、そんなに小柄では馬は……。失礼ながら、私と相乗りでもよろしいですか?」
ティーナはにっこりと害のない笑みを浮かべる。
そのとき、ルリは足元が崩れていく感覚を味わい、結果地面に身体を打ちつけた。意識は保っているのだが身体が動いてくれない。顔色はそれなりに悪くなっているだろう。どこもおかしなところは感じないのだが。
駆け寄ってきたクロウは、言葉も出ないままルリを揺すった。何度かそうするうちに地面に影が現れ、クロウは上を向く。
「大丈夫ですよ。おそらく、力を使い果たしてしまったのでしょう。一人で術を行うのには無理があったのかもしれません」
頭上からはオサードの穏やかな声が降ってくる。
「彼女は私の馬に乗せますから、あなたはそのかたと行ってください」
クロウはルリから表情を隠しつつ頷く。ティーナはその様子を一歩離れたところで待っていた。
「では行きましょう、クロウ様」
彼女はそう言って、導くようにクロウの手を引いた。一瞬こちらを見たクロウと目があったが、彼はなにも言わなかった。ほんの少しだけ申しわけなさそうな顔をして背を向けられる。
ややあって、馬蹄の音が遠ざかっていく。
「気分が悪いとか、なにかありますか?」
優しいオサードの声が頭にゆっくり響く。ただ手足が思うように動かないのみで体調は平時と変わりない。それを伝える前に、まるで今の言葉が合図だったかのようにまぶたが重くなり、話す気力をなくした。
抱き上げられてオサードがなにか話していたものの、内容が理解できない。その後抱えこまれるようにして馬に乗せられたことがわかり、先にリューズエニアに戻ってもいいか尋ねたのだろうと自分を納得させた。
ティーナとクロウを乗せた馬が走り去った後、今のはなんだったんだ、と残った男たちは言葉を交わした。
「気をつけてくださいね、だってよ。もう危険な場所じゃないだろう? そりゃ、ちょっと崩れるくらいはするだろうが」
ずいぶんと偉そうな女だった。すでに水はある程度消えていて、せいぜい土砂降りにあったくらいでしかない。ざっと見て、地割れの起こった村だ。
「おーい、全員無傷だ! 俺たちも帰るぞ!」
白馬に乗っていた男が再度声を張りあげた。宿で嘆いていた若い男と老婆の喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。あとはリューズエニアに帰るだけ。
彼が肩車をしていた子供が、身を乗り出して村にできた陥没を指差した。子供たちがいままでかたまって震えていた場所だ。
「ねえ、あれ見て」
子供は無邪気に笑った。どれどれ、と大男もつられて優しく笑いながら子供の指差したほうを見る。はたから見れば、なんの変哲もない陥没だ。
彼は深い穴に近寄った。それを見た瞬間、身を反らせ、慌てて大穴から離れる。
「ぜっ、全員逃げろー!」
その陥没からは水が溢れ出していた。普段ならば新しい水場ができたと喜ぶところだが、これは違う。今までの分を取り戻すかのような速さで水位が上昇していく。水はうねり、渦を巻く。落ちたらひとたまりもないことなど考えなくてもわかる。先ほどまで少女たちがいたところはすでに飲みこまれていた。
男の指示通り、人々は助けた子供をつれて急いで自分の馬に跨る。通り道を作り出していた水術師は、少しでも守りが保つように念を入れて、それから馬に乗った。
「タザフさんも早く!」
「待たなくていい、先に行け!」
大男が馬に乗ったのは最後だった。
走り、走る。彼が水の道を通ったその後、僅差で障壁が破れた。運がいい。
「おじさん、早く!」
子供が急かすが、そこまでだった。どれほどの駿馬でも水の勢いには勝てなかったに違いない。足場など問題ではない。どれだけ好条件であろうと、きっとかなわない。
馬のほうも恐怖を感じていたのだろう、足がもつれて転倒した。馬の背中から放り出され、男は小さな身体を庇ってぬかるんだ地面に背を強く打ちつける。
間にあわない。すぐに馬に乗っても激流に飲みこまれるのは避けられない。せめてこの子だけでも、と男は子供を守るように身を丸くして抱きしめた。
しかしながら、いつまでたっても恐れていた衝撃は襲っては来なかった。
倒れ伏した男は呻き、訝って顔を上げた。恐る恐る背後を見ると、大量の水が竜巻のように渦を巻いている。助かったと思うも、奇妙な光景に目を奪われた。
「早く行け、長くはもたない」
声が聞こえてきた。大人のものとも子供のものともつかず、性を感じさせない不思議な声だ。男はぎょっとして、水流とは反対の、リューズエニアへ向かうほうを見た。
一つに束ねられた銀色が波打っている。青い目は海底の流れのように静かに揺れている。
「まさか……トーリュウ?」
青い目に銀の髪、そして水を操る。間違いない、混血のトーリュウだ。村に住むことを許したにもかかわらず災厄を引き起こし、果てには恩を忘れて姿を消した混血児。その忌み子がどうしてここに。
「早く行けよ。死にたいのか?」
水面を叩くように澄んだ声に男は我に返った。この場を離れるのが先決。忌み子がどうのと考えている暇はない。
忠告に従って、子供を抱え直して再び彼は馬に飛び乗り鞭を打つ。
無心に馬を走らせ、彼はやっとのことで無事にリューズエニアへ帰ることができた。