3-4.溢れくる水
翌朝。目を覚ましたルリとクロウは身なりを整え、食事所へ向かった。
皆目的は同じなのだろう、そこは昨夜とは比にならないほどとても混雑してた。だが、混雑していたと感じたのはただ単に人が多かったからというだけではない。昨夜は静かだった食堂が騒がしかったからだ。会話による騒がしさ、というには度が過ぎている。
「朝から騒がしいわね」
なにがあったのかとルリは背伸びをしてあたりを見回した。その原因を見つけたのだろうクロウがくいっと彼女の紅い袖を引っ張り、あそこ、と視線の先を指差す。
宿の入り口近くのそこでは人が輪になっていた。ルリは聞き耳を立てる。
「助けてくれっ、俺の村が……隣のサラム村が沈みかけてるんだ!」
「あたしの孫が村に取り残されてるんだよ! 誰か、誰か助けておくれ!」
若い男と老婆の声だ。「沈む」という言葉を聞いた人々は青ざめる。
「サラムまで? くそっ、このへんの村はもう全滅じゃないか」
群集はどよめいた。ルリが耳にした話では、水術を使う男でも沈んでいくのは止められなかったという。助けを求められても無理があるのだろう。どうする、どうしよう、と口々に言いながら誰も動かない。いつまでたってもそういった調子の彼らに痺れを切らしたのか、一人の男が立ち上がった。
「おい、誰でもいい、馬を用意しろ! サラム村へ行くぞ!」
「お客様の中に、炎術もしくは氷術を使えるかたはいらっしゃいますか!?」
声を張りあげる男に続く形で店の者が呼びかける。背後からの呼びかけに、はっとルリは振り返った。炎で水を蒸発させるか、水を氷らせて沈むのを食い止めようというのだろう。
炎術ならルリも使える。大人からすればまだまだ未熟だが、少しは役に立てる。それに、もしかしたら村を救ったということで宿代が免除、とまではいかなくとも半額にはなるかもしれない。これだけ大きな宿となると料金が怖い。
「あの、あたし、炎術師です」
ルリは挙手して言った。人々の顔がわずかな希望の色に彩られたが、それも一瞬で消えた。ルリの目の前には大柄の男が立つ。
「まさか、こんな子供が炎術師だと? まだ成年にも達してないっていうのに?」
彼の言葉はこの群集の代弁だった。子供で女となれば希望も潰える。口にはされなかったがその目には混血ではないかと嫌悪があった。
「成年でなくても、もう十六です。……別にあたしは村が沈むのに興味はありませんから、炎術師が必要ないならかまいませんけど」
ルリは負けじと言い返した。冷めたように興味がないと言ったが、嘘だ。本当は見たくて見たくて仕方がない。昨夜オサードに沈むというのはどういうものか聞かせてもらったが、実際に見るのが一番だ。
男は思い直したのか、目をそらして言った。
「悪かった。今は術師が少しでも多く必要だ」
「待てよ、本気か? そいつは混血だ。あの恩知らずを忘れたわけじゃないだろう?」
「本当に炎術師なら水のある場所でおれたちに手なんか出せるもんか。この女以外に俺についてくるやつはいないか?」
男がそう募ると、やがておずおずと何人かが名乗りを上げる。その中には、先日、自分の村が沈んだと話していた者もいた。騒ぎを起こしてあの宿を追い出されたのだろうか。
「おれも行く」
奥から誰かが出てくる。白い手袋をはずした手で帽子を握って出てきたのは、ルリ付きのオサードだ。
「あんたは?」
「この格好じゃわからないか。なら、これでどうだ?」
彼がそう言って帽子を頭に乗せた瞬間、どよめきが大きくなった。オサードだ、あのオサードが、と低い声が広がる。このあたりの住人は彼のことをよく知っているようだ。良い意味で有名なのか、それとも悪い意味で有名なのかは判断がつかない。
「わかった。他には?」
男が場を静めるように言う。沈みかけている村に行くのはルリとオサードと、それから見知らぬ男が数名。女はルリ以外にいない。少し待つが、どうやら他にはもういないようだ。
「行くぞ」
主導権を握った男は素早く外套を羽織り、店の者の案内で馬小屋へ向かった。それに続いて名乗りをあげた者たちも外へ出る。
「サラム村までそう距離はありませんが、馬は乗れますか?」
彼らに先を譲ったオサードは、ルリに声をかけた。ルリはぼそぼそとその問いに答える。
「……一応は。問題はこっちです」
そう言って、ルリはクロウを目で示した。クロウは黙ってルリを見上げ、やがて口を開く。
「一緒に乗ればいい」
「相乗りする技術はあいにくと持ちあわせてないんだけど」
馬術は父に教えてもらった。そのとき父に、おまえは荒っぽい走りをするな、と言われたことをよく覚えている。風を切る感触が楽しくて普通に走らせていただけなのだが。
「では、私の馬に乗られては?」
「お願いします」
一も二もなく即答したのはルリだった。自分でも、その返事はまるで厄介者を押しつけるようだと思った。父親にすら荒っぽいと言われたのだ。やったことのない相乗りで、子供であるクロウを無傷で目的地まで連れて行けるのか、彼女にも自信がなかった。
外に出ると天候は雷雨。窓を叩く雨の音、光の後にやってくる雷の音に耳を塞ぎたくなる。防音の術がかけられていたのだろう、部屋にいるあいだはまったく気がつかなかった。鉛色の雲は雨を降らせながら空を低く這うようして動いていく。
蹄の音を響かせて十頭ほどの馬が人を乗せて走り出した。雨のせいなのか、はたまたここも沈みかけているのか、地面はぬかるんでいた。馬が一歩大きく踏み出すごとに泥が跳ねる。
先頭を走る男は白い馬に跨っている。黒い馬を駆けさせるルリと、クロウとオサードの跨る栗毛の馬は最後尾だ。オサードは障害物を避けて安全に走らせているが、ルリは小岩や水溜りなら飛び越える。横目に見たクロウが顔をしかめていたので、オサードの馬でよかったとでも思っているのだろう。
「そろそろですね」
ルリの隣で手綱を操るオサードは言った。目を細めて遠くを見ている。
「間にあうといいんですが」
この雨では想定していたより早く村が沈むかもしれない、と彼は続ける。先頭を走る男も同じことを思ったに違いなく、心なしか駆ける速さがあがる。二人もそれにあわせて馬の腹を蹴った。
取り残された彼女は、その理由を考えた。
彼らにはたくさんの子供に目をかけている暇はなく、自分のことで必死だったのだ。他人の子供より自分の子供、自分の子供より己の身体。子供などたくさんいる。逃げられず死に絶えたのならそれまでだ。また新しい子供を産めばいい。強い者だけが生き残る。
村人のほとんどにそんな思いがあったのだろう、と彼女は思った。親とは子供を駆け引きなしに守ってくれるものではなかったのか。襲撃を受けたとき、自分の父は身を挺して守ってくれた。
「お待ちなさい! ああ、だめですわ、こちらに来なさい」
子供たちの中の一人が、こっそりどこかへ行こうとしたところを目ざとく見つけ、それを防ぐ。そして、そのとき視界の端に映った、まだ物のわからない女子に注意を向けた。
水はすでに膝のあたりまで来ている。小さな子供にしてみれば身体の半分が水の中という状態だ。彼女は水の抵抗を受けながら童女のそばまで寄る。そのときだった。
「……っ!」
足になにかがぶつかる。水が汚れているために足元がどうなったのかは見えない。刺されたような感覚があった。ただ、彼女の足の周囲には血色に染められた水が流れている。
一番の年長者である彼女が引きとめた小さな子を含めれば、これで村に残る子供は全員だろう。やがてその女児がおぼつかない足取りでこちらに来ると、彼女はその子を抱き寄せる。
「これで全員ですの?」
「うん、たぶん」
彼女が問うと、彼女の元に集まっていた子供の一人が答える。
「いいこと? 助けが来るまでは絶対にここから離れてはだめよ?」
そう言って、願うかのように手を組んだ。風が吹きすさび、彼女を含めた子供たちを包み込む。その風が消えると、あたりには膜が張られたような状態になった。守りの障壁を張ったのだ。膝まで浸していた水がなくなっている。
子供たちを振り返ると、安心したような表情を浮かべていた。しかし、障壁の外を見た途端、彼らは表情を失った。
「村が……」
取り残された子を一ヶ所にまとめているうちに、彼女が守りを張った場所以外は水に沈んでいた。雨のせいではっきりとは見えないのだが、暗い暗い水の底に、かすかに民家がある。木でできた家がどうして沈むかなど考えられなかった。冷静に考えられる余裕はない。外部から見れば、彼女たちの立っている場所は、水に浮いた小さな島なのだ。
「おとうさん、おかあさん、どこ?」
「このまま死んじゃうの?」
「ありもしないことを言わないで! 助けが来るに決まってますわ!」
泣かないでくれ。血の流れる足は痛いし、こっちが泣きたい気分だ。今にも大声で泣き叫びそうな顔をした幼い男の子へ、彼女は心の中で言った。
それにしても酷い雨だ。村が沈んでいくのを早めているとしか思えない。この障壁は雨を防いでいるが、ないほうが視界もよくなるだろう。しかし、守りを解くなどということをすれば確実にここは沈む。
「早く、誰か……」
彼女の祈りの声は、雨の音にかき消された。
雨はあがったり降ったりと安定しない。それでもずっと豪雨であるよりはましだった。
しばらくなにも考えずに馬を走らせていたルリは、なにか不思議なものを感じた。それは直接頭に響いてくる。音というより文章のようだったが、明確に読み取れない。
「今、なにか言った?」
「いいえ、なにも」
「……幻聴でも聞こえたのか?」
「いくら耳がよくても普通はそんなもの聞こえないから。……おかしいわね。たしかにさっき、なにか聞こえたような気がしたんだけど」
ルリは隣のオサードが操る栗毛の馬から再び視線を正面に戻すと、前を走る馬との距離が近くなっているのに気づいて速度を緩める。しかしいくら緩めても距離は広がらないことから、全体の速度が落ちてきているようだ。やがて完全に止まった。
「着いたの?」
「サラム村はもう少し先のはずですが」
「こっから先は馬じゃ進めない。降りろ、歩いていくぞ!」
先頭を走っていた男の声だ。それに従って皆が馬から降りる。ルリたちも下馬すると、地面を覆う水の中へ足を入れることとなった。その水はルリのふくらはぎの半分を沈めるほどだ。
「ちょっと待ってよ、これじゃ、村はどうなってるっていうの?」
サラム村はまだ先だという。ここまで水が迫ってるのなら、村はいったいどのような状態なのか。先ほど聞こえたなにかは、村人の声なのだろうか。
急ぐぞ、と声を張った男は衣服が濡れることなど気にしないとばかりに進みだした。一緒に来た人たちもそれに続く。衣ならば替えがきく。しかし、命は替えがきかないのだ。次期領主として生活をしていたルリだったが、それは重々承知している。
はじめのうちは汚濁した水にこれ以上濡れることに気が引けたが、ルリも意を決してなりふりかまわず進みはじめた。
「きっと誰かが来ますわ。……きっと」
彼女は泣きじゃくる子供を抱えて、彼らに、そして自らに言い聞かせるようにそう言った。
「このまま死ぬんだ」
「……もう、だめなんだ」
彼女が呪文をささやいても、しかし子供たちは次々と希望を捨てた。中途半端に大人びて、まったく表情を見せない子供もいる。
「来るって言ったって、誰も来ないじゃん」
「いいえ、来ますわ! だって、あなたのお父様は街に助けを呼びに行ったのでしょう!?」
「自分だけ逃げたに決まってる」
抑揚のない声で言ったのは、膝を抱え込んで俯いたままの子供だ。少年は彼女を除けばこの中でもっとも年上だった。夢ばかり見ていられないことを知っている。
「どうして助かろうとしないのです? 生きたいとは思わないのですか」
「……『おまえはいらない子だ』って言われたのに?」
子供はなんでも信じる。彼らにとって親がすべてだ。親に存在を認められて、初めて存在意義を得る。その存在を否定されたらどうなるだろう。
「生まれてこなければよかったのに、って言われたのに?」
純粋な子供の言葉は、彼女の心に突き刺さった。そのような言葉を浴びせられたことがないから子供の心情はわからない。それでも彼女は言う。
「……生きなければなりませんのよ。たとえどんなことをしても、絶対に」
命が生まれるのには理由がある。しかし、その理由は誰にもわからないだろう。生き延びた先では、きっとなにかが待っている。光も闇も、どのような人にでも平等に待っている。
「生きなければ」
雷鳴が轟いた。
彼女は身をすくめる子供たちから視線をはずした。その視線の先には、水を掻き分けるようにしてこちらへ向かってくる全身びしょ濡れの大柄な男と、それに続く十名ほどの人々だった。




