3-3.温かな食事
彫刻の入った白い薬箱の中は高価なものが揃っていた。ある程度は目の肥えているルリもさすがにこれを使うのは、と思うようなものもいくつか顔をのぞかせている。これらをすべて売れば、寝台くらいは買えるのではないだろうか。
薬箱を物色した後、外套を脱いだルリは広い寝台に横になっているクロウを見やった。彼は起きてはいるが意識が別の場所に飛んでしまっている。連れ戻さなくては、とルリはクロウにこっそり近づき、その背後で手を打ち鳴らした。大きく響いた音に驚いたクロウは肩を揺らす。
「どうしたのよ、さっきから。ほら、傷、診せて」
クロウは抵抗したが、それも徒労に終わった。これほど小さな抵抗ではあの少年たちにいいようにされるもの無理はない。怪我人だと言う声を無視し、強制的にこちらを向かせる。まずは消毒だ。
痛い、と抑揚のない声を漏らしたクロウはそのくせ表情にも変化がない。蹴られ擦りむいてできた傷より、消毒のほうが痛いだろうに。まだ平原にいたときのほうが感情が見えたように思える。
「我慢しなさいよ。男の子でしょう」
「まだ子供だ」
「見かけはね。子供だとしても、女の子じゃないでしょう」
「女だったらよかった」
うるさい、と言ってルリはクロウを黙らせた。彼はなにも言わずに口を閉じる。大人しく従うとは思わなかった。
クロウが女であればそう遠くない未来に国の一つが滅びるかもしれない。この大戦が終結したとしても、次の戦の新たな火種となりそうだ。整った顔立ちをしているから、このままでも女の領主が何人もいれば争いのきっかけになるだろう。そういえば、サンドランドの領主は女だというが。
どちらか一方が返事をしなければ会話は途切れる。その後クロウがなにも返さないためにその後は両者無言でいた。ルリは慣れた様子で手を進める。消毒し、いかにも効果のありそうな薬を塗った。少し雑ではあるが、クロウは人間ではないのだ、打ち身や擦り傷に神経質になることもあるまい。
「終わったわよ」
ルリは達成感とともに、今しがた薬を塗ったばかりの箇所を容赦なく叩いた。途端、クロウはそこを押さえて寝台に倒れこむ。顔をしかめている彼の目には薄く水の膜が張っている。
「あたしは下に行って食事してくるけど、クロウは?」
上半身を起きあがらせた彼は目を袖でこすりながら言葉少なく、先に寝ている、と答えた。回復は眠るのが一番だ。
「わかった。また勝手に抜け出さないでね? 探すの大変なんだから」
きちんと最後に注意しておく。言われたクロウはいたずらがばれた子供のように顔を引きつらせた。自分をなんだと思っているのだ、という抗議かもしれない。
「じゃ、おやすみ」
ルリは紅の裾を翻し、軽い音をさせて扉を閉めた。中にいるクロウがため息をついたのが聞こえた。ため息をつきたいのはこちらのほうだ。今朝、クロウが勝手に外に出なければ街の人に白い目で見られることもなかったのだ。この宿に泊まっていられるのはそのおかげでもあるのだけれど。
ルリは階段を下りると、食事所の小さな白い円卓の席についた。他の円卓にも多くもなく少なくもなくといった具合にまだ人が残っている。静かに恋人同士や家族で談笑している人々が目立つ。注文をとるため、すかさずすっきりとした黒い衣服をまとった男がルリの席までやってきた。
「ご注文は」
「えっと……温かい汁物を。って、あなたは」
育ちのよさそうなその男はオサードであった。衣装を改めただけでこうも違って見えるものなのか、大男という印象がすっかり消えている。彼は手で口元を押さえながら笑って言った。
「ここではお客様がお帰りになられるまで同じ者が世話をするのですよ。汁物ですね、少々お待ちを」
そう言ったとおり、彼は厨房と円卓との往復時間程度しかかからずにルリの言ったものを持ってきた。とてもいい匂いがする。立ち上る湯気は作り置きしておいたものではない証拠だ。
「どうぞ」
「ありがとう」
ルリがそう言った途端、オサードは驚きの声をあげた。
「礼など必要ありません。これは私の仕事です」
「それでも、やっぱりなにかしてもらったんだからお礼は言わないと。あたりまえでしょう?」
昔から礼を言うたびに驚かれた。使用人がやって当然のことにも礼を言うため、父からは、そんなことでは使用人がつけあがるだけだといつも言われていた。
「お優しいのですね」
ルリはオサードの言葉をすぐに否定しようとしたが、うまく言葉が出なかった。違う、優しいのではない。やってもらうのが当然という顔をして、と言われるのが嫌だったからだ。
器の中によく煮えた野菜が黄金色の液体に沈んでいる。それを口に運ぶと、今度は自然に言葉が出てきた。
「おいしい」
「それはよかった。厨師が喜びます。ここの自慢でして」
彼はにっこりと笑い、ルリと向かい合わせの椅子に座った。オサードは食べているルリに視線を向け、白い手袋をした手で懐から便箋を取り出してなにか書きはじめる。
ルリが食べ終わったころには、オサードはその便箋をすでに宛名の書かれた封筒に入れている途中だった。
「それは……? すみません、変なことを訊いて」
「いえ。これはファイアーランドにいる私の友人に宛てたものです。十五年も前になりますか、彼は用事があるとかで海の向こうに行ってしまって、別れ別れになってしまいましてね。独立前はすぐ届いたんですが、どうも今ではなかなか届かないようで。五年たっても返事が来ない。もしかしたら、届いてすらいないのかも」
「独立前、は……?」
「ええ。ご存知かと思いますが、八年前、ここでは代替わりがありまして」
ルリは口を挟みながら話を聞いていた。この地についていろいろ尋ねたいと思っていたのでちょうどよかった。知っている話も出るだろうが、それは知らない振りをして話を進めていこう。
「代替わり?」
「はい。代替わりというか、街の長がファイアーランド一区の長に就任したんですが。前区長が急死して、その穴埋めにと。独立前の話です」
記憶を手繰り寄せて昔を思い出す男は懐かしそうに言った。
「面倒な話になりますが。小国と呼ばれるこのリューズエニアは、もともとはファイアーランドの一区、ルーディアス区だったのです。お話したとおり、その区長が急死、そしてリューズエニア街の長が席を埋めました。それが現領主です」
ファイアーランドといえば、ルリの国より一つ下の位、序列で言えば四位である。二位のゴーストランドは王が形式的に与えたものであるから、ウィンドランド以下は実質一つ繰り上がってファイアーランドは三位となる。
ルリはうなずいて続きを促した。
「彼は氷術にとても優れた魔物です。子供のころから才覚があって、血がつながっているとは思えないほどご両親とのあいだに実力の開きがあったとか。だからこそ、一つの街の長だった彼は区長にまでのし上がり、ファイアーランド領主との交渉に漕ぎつけた末この地は独立したのです。その後、ルーディアスという名前では大国の支配を破ったことにならないからと、リューズエニアに名前を変えて。国の名前と首都の名前が同じだなんて、外の人にはわかりづらいですよね」
ヘルという魔物はもしかすると、序列最下位のサンドランド領主より力を持っているのかもしれない、というのが彼の考えだった。たかだか一区の長ではあったが、しかし七領主と同じだけの力を持っているなら独立させてしまったほうがいい、とファイアーランド領主も考えたのだろう。
「独立できたのはいいんですが、七大国の影響力というのがまたすごくて。気候や海流が変わったせいでファイアーランドとのつながりはますます薄くなりました。手紙が届かないのもこのせいでしょう」
そして、支配下にあったということは庇護下にあったということだ。しかし独立してしまえば周りは敵。各国は獲物を狙うようにこの地を見ていた。いや、獲物というよりむしろ邪魔な存在でしかないのかもしれない。
現在はヘルの力によって守られている。その領主に逆らい、反感を買えばどうなるか。街を追放されるかもしれない。そうなれば命はない。今は戦中だからなおさらだ。国を逃げてきた者というのはまり歓迎されない。だから、ここの者たちは領主ヘルの息子を恐れ敬い、まだ幼いにもかかわらず大人しく従っている。
「っと。まだ先日の非礼をきちんとお詫びしていませんでしたね。お連れのかたにぶつかってしまって」
「いいんです、本当に気にしないで。それより、謝るくらいなら『沈む』って意味を教えてもらえますか?」
オサードは一度口を閉じた。周りのことを気にしているようだった。周囲をざっと見渡して、彼は声を噂話をするような低いものに変えた。
「独立してからのリューズエニアは、七領主の目も届かないような辺境の小さな村や町を吸収して領土を広げていったんです。実際、ルーディアス区だったころより領土は広くなっている。ところが最近、その村や町が水に沈んでいっていて……初めてお会いしたとき、私もシル村からここへ逃げてきたんです。この宿場は私の姉が経営しているので」
どこからともなく溢れ来る大量の水。水源は見当たらない。沈んでいった村や町の地盤は沈下して、そこら一帯は家屋の沈む湖になってしまった。街に人が多い理由がこれだ。この大きな宿場ですら空き部屋が少なかったのもそのためだった。
「大人しくファイアーランド支配下にあればこんなことにはならなかったのに、と文句を言う者も出てきているんです。領主の苦労も知らないくせに」
オサードは顔を歪めた。ずっと独立を夢見ていたのはおまえたちだろう、という激しい思いが渦を巻いているようだ。領主はその夢を叶えてくださったのにその言いようはなんだ、と。
「ずいぶん領主贔屓ですね」
「昔、彼とは友人でしたから」
ルリは訝しげにオサードを見た。
「小さな街の長だったならともかく、彼はもう一国の領主です。気軽に名を呼ぶこともできません。そうでしょう? そんなことをすれば彼が貶められる」
リューズエニアの民にとって、いや、どの国の民にとっても、領主というものは至高の存在だ。そう語るオサードの表情は悲しげだった。彼は友人を一人失ったことになる。
ルリは数年前、領主の娘としてなんの不自由もなかった生活をしていたころ、ある村から荷を運んできた村人の子供と話したことがある。それが父ヴェリオンに見つかるとひどく叱られた。それを同じことだ。あの少年は今ごろどうしているだろう。
「少し話しすぎましたね。不躾かと思いますが、どうしてあなたがこの地を訪れたのか、聞かせてもらっても?」
オサードはその表情をいつものものに戻した。これだけ話してもらっては、ルリが断るのは失礼だろう。当たり障りのない程度に話そう、と思い彼女は口を開いた。
「今は部屋で寝ている子と、あたしは旅をしていて」
「旅? この世の中で……大戦の影響もありますし、危険ではありませんか?」
「それでも旅を続けなければならない理由があって……」
ルリは円卓の下で手を組んだ。その目的を知りたいという目をしたオサードを見て、彼女はもったいぶるように声を抑えて言う。
「強大な力を持つっていう秘宝の一つ、『希望』を探す旅ですよ。それがリューズエニアにあるかもしれない、と聞いたもので」
「ということは、あなたが紅の? 混血なのはわかりましたが……どうりで紅の衣を。ですが、そんなものが実在するなんて話は」
「希望」と「絶望」は物語の中でのみ語られるもの。夢の宝だ。魔界の命運を握る二つの秘宝が持つ力ことは、領主の家だけが知っている。初代魔王が後世を想って作ったとか、神獣の涙でできているとか、とにかく強大な力を秘めているという伝説的なことは一般に知られているが、具体的にどのようなものかは知られていない。
ルリは、オサードが、またはこの話を聞いていた誰かがそれを手に入れようとするのを危惧してその存在に関しては控えめに話しておいた。
「きっとあります。なかったらこんなこと命じられるわけがないと思いませんか?」
「ああ、王命でしたね。あることを祈りましょう。探しに行って帰ってきた者はいないといいますが」
嫌なことを付け加えられてルリは一瞬だけ口の端を引きつらせた。とりあえずこの話題については無事終わりを迎えた。こちらの様子をうかがう者もいなかった。
「オサードさん、白羽黒紋のスフィンクスって知ってますか?」
「白羽黒紋? 本物を見たことはありませんが、白羽黒紋はスフィンクスの中でも希少で誇り高いと聞いたことがあります。能力も群を抜くそうですが、それがどうか?」
「街を歩いてたらそのスフィンクスが見世物屋で売られていて。さっきはそのスフィンクスのことでいろいろあって、こちらに泊まることになったので」
その白羽黒紋のスフィンクスがいなければ、クロウも動くことがなく、今ここでオサードと会話などしていなかったかもしれない。その点では感謝しているが、もし出会わなかったらあんなに不憫な思いをすることもなかったのに、と思うのも事実だ。
ルリがそれをかいつまんで話すと、オサードはくすくすと笑った。すでに店の者の顔となっていて、豪快な笑いの影はない。
「なるほど。しかし白羽黒紋のスフィンクスは先ほども言いましたように珍しいので、もしかしたら開ける運がそこにあるかもしれませんよ?」
「そうだといいんですけど」
そう言ってあたりを見回すが、人はほとんどいない。思っていたより話しこんでしまったようだ。
「そろそろ終わりにしますか」
オサードの言葉を受け、ルリがそれに同意する。それにしても眠い。ぎりぎりのところで押さえられていた眠気が一気に襲ってきたようだ。
「付き合ってくれて、ありがとうございました」
「いいえ。おやすみなさいませ」
席を立ったところで、そうだ、とルリは声をあげた。オサードが首をかしげる。
「あたしが混血だって知っていてここに招いてくれたんですか?」
「……混血の子を、わけあって引き取ったことがありまして。今はどこかに行ってしまったのですが。彼は魔物の血が入っていても必ず乱暴ということはないと教えてくれたんです。乱暴どころか、優しいことのほうが多い。あなたもそうでしょう?」
恥ずかしいような嬉しいような複雑な気持ちになって、ルリは彼から目をそらした。その混血児が乱暴者でなくてよかった。人々の意識はこうして変わっていくのだろう。
オサードの笑顔を尻目に、ルリは重い足取りで食事所を出て階段をのぼった。あてがわれた部屋の扉を開けば、クロウの寝息が聞こえる。
一番訊きたかったことは訊かずにいた。今日の朝だったか、街の奥の宿屋でオサードについてなにか話していた。あれはいい話のようには思えなかった。彼にはきっと秘密がある。
寝台に潜ると、ルリはすぐに眠りについた。