二十一話 終わりに来たる憧憬 1
私が彼に出会ったのは、とてもとても昔の事。
私が彼女に出会ったのも、とてもとても昔の事だった。
養子として、私が彼の家へと引き取られた日。
孤児院で私と初めて対面した彼は、彫像のような無表情で私を一瞥するとすぐに視線を床へ向けた。
孤児院の先生が部屋を出ると、私達は無機質な部屋で二人きりになった。
養子を望んだのは彼であったはずなのに、いたいけな少女を放って意に介さない彼の態度を子供ながらにおかしく思ったのを憶えている。
彼は何もしない。
話しかけるでもなく、ただ床にチョークで何かを書き続けているだけだった。
おめかしした可愛らしいドレス姿も、私の不安そうな顔も彼は見ようとしなかった。
彼は未知だった。
私はその未知を解明し、理解しようと彼の向かう床へ目をやった。
そこには、宇宙が広がっていた。
数多の数式が床下を巡っていて。
気付けば、私の足元にもそれは広がっていた。
それの意味する所が、私には理解できた。
彼が記し、計算し続けるものは万象だ。
私の見る全ての物が有する確率、物理運動、材質、世界の事象を構成するあらゆるものを手当たり次第に数式という形で書き記していた。
それは私が今まで見てきた光景。
同じ孤児院の誰とも共有できない、私だけが見ていた光景だった。
彼が描き出す世界はとても綺麗だった。
「すごく、きれい……」
正直な気持ちが、自然と漏れ出た。
すると、彼は再び私を見る。
それも一瞥ではなく、じっと私の顔を見てくれた。
「君は、ここに何を入れる?」
訊ねた彼が指したのは、数式の中にあいた空白。
その数式が現すのは、ココアだった。
可愛らしい形のカップ、よく練られたココアパウダーと湯、ミルクの温度と量。
ぽっかりとあけられた場所は、多分お砂糖の分量だ。
彼からチョークを受け取ると、私はココアが目いっぱい甘くなるように数字を書いた。
その後、心が蕩けるように甘いココアを二人で飲んだ。
それが父の不器用な心遣いであると知ったのは、もっと後の事だった。
あの部屋に書かれた数式は、年頃の娘が何を気に入るのか試行錯誤を繰り返した証だったらしかった。
「「へぇ、これがおまえんちか」」
大きな屋敷が、目の前にあった。
白煉瓦の壁に緑の屋根。
十字格子の窓が、決まった間隔で各階にはめ込まれた洋風の屋敷だ。
クラークはその建物を見上げながらフランドールに訊ねた。
「はい」
フランドールは返事をする。
建物は、街からほどよく離れた森の中にぽつんと建っていた。
中に入ると、病院の待合室を思わせる広間がすぐに出迎える。
もしかしたら、本当に昔はそのような施設だったのかもしれない。
クラークはこの手の屋敷には、決まってダンスホールがあるものだと妄想めいた思いこみを持っていたため、意外に思った。
そして、広間では車椅子に乗った女性が待っていた。
女性は笑顔でフランドールを出迎える。
年の頃は、よくわからない。
けれど髪は真っ白だ。
身体はほっそりとして弱々しく、けれど顔はそこまで老けていない。
皺は目立つが、しわくちゃという程ではない。
「おかえりなさい」
「はい、ただいま。お母様」
フランドールは淡々とした口調で答えた。
「「なんだ。案外、優しそうな婆ちゃんじゃねぇか」」
どのようなイメージを持っていたのか、クラークは意外そうに言った。
「世界はどうだった?」
老女は柔和な笑みで訊ねる。
「どう、と言われましても……」
「まぁいいわ。つもる話もあるでしょうけど、まずは長旅の疲れを癒しなさい。軽くメンテナンスしてあげるわ」
老女は言うと、車椅子を反転させる。
「私が押します」
フランドールはすかさず、車椅子の取っ手を握った。
押して、歩き出す。
「ありがとう」
「いえ……これは造られた物としての役割でもあります」
白い廊下を進む二人。
廊下にはお洒落なランプが掛かっていて、窓からは林立する木々が見えた。
「エトランゼが、ちょっと悪さしたみたいね」
「悪さ、というほどでもありませんが」
「エトランゼの記録を見せてもらったわ」
それを聞いて、フランドールはエトランゼが既に帰宅している事に思い至った。
「あれが悪さじゃないなら、マフィアの抗争はおままごとね」
「「おお、常識的な婆ちゃんじゃねぇか」」
クラークが感心したように呟く。
廊下を歩いていたフランドールが、大きな扉の前で立ち止まる。
扉には、「研究室」というネームプレートが掛かっていた。
フランドールは、その部屋に入る。
扉の先には、また廊下が続いていた。
その左右に広い部屋がいくつも並んでいて、備え付けられた大窓からは中がうかがえる。
機械類の置かれた部屋や、怪しげな液体の入った試験管が陳列された部屋などがあった。
「流石に、親としてはあれを見過ごせないわ。だから……」
次の部屋の窓を覗いて、クラークは「「げっ」」と声を出した。
「お仕置きをしておいたわ」
部屋の中には、体をバラバラに分解されたエトランゼがいた。
それが何故、エトランゼだとわかったかといえば、頭部がフックに引っ掛けられて宙ぶらりんになっていたからだ。
首から延びたコードが、バラバラになった体と繋がっている。
「メンテナンス後、数時間放置」
「「この婆ちゃんも常識的じゃねぇ。しかも何気に内臓とかあってグロい!」」
エトランゼの姿を目の当たりとし、クラークが悲鳴を上げた。
「「バイオロイドの半分以上は生体部品ですから」」
と、フランドールは心の内で平然と答える。
「お母様ぁ、そろそろ許してぇ。退屈だよぉ。お姉ちゃんも弁護してよぉ」
エトランゼの頭部が元気のない声で訴える。
「「頭だけになってるけど、大丈夫なのか? あれ」」
「「私達は脳が機械なので血液を必要としません。だから、血液の循環がなくとも頭部だけで意識を保てます」」
「「残念ながら、そんな超技術を語られてもこの光景に感心できねぇ」」
説明するフランドールにクラークはうんざりした声で返した。
「お姉ちゃんのメンテナンスが終わったら組み立ててあげる。それまで待ちなさい」
母親が言うと、エトランゼは「えぇー」と不満そうな声を出した。
「いいじゃん、そんなポンコツなんて。もっと私を可愛がってよ」
そんな声を尻目に、フランドールの押す車椅子は部屋を通り過ぎていった。
「「ん?」」
不意に、クラークが声を漏らす。
「「どうしました?」」
フランドールはそれを気にして訊ねる。
「「メンテナンス後って言ってたな、あれ」」
「「言っていましたね」」
「「じゃあ、もしかしてフランドールも今からああなるのか?」」
「「…………恐らくは」」
フランドールは平然と答えた。
「「嫌な体験だったぜ」」
メンテナンスが終わり、クラークはそんな悪態めいた言葉を吐いた。
二階の廊下にて、フランドールは窓の外を眺めていた。
「「感覚がなかったからいいものの。しかし、お前は痛くねぇのか」」
クラークはフランドールに訊ねる。
「痛覚は遮断できますので」
「「便利だな。機械に痛覚があるっていうのも、おかしな話だが」」
「心を理解するためには痛みが必要です」
「「お前は心を理解したいのか?」」
クラークの問いに、フランドールは答えなかった。
背後で足音がして、フランドールは振り返る。
「お姉ちゃんのせいで酷い目にあった」
エトランゼが首を巡らせながら、こちらに近付いてきていた。
「ごめんなさい」
「「いや、別にこっちは悪くねぇだろ」」
謝るフランドールにクラークがツッコミを入れる。
「何見てるの? こんな所から外を見ても、森以外に何もないでしょ」
「こんな所……ですか。エトランゼにとって、世界はどうでしたか?」
「楽しかったよ」
何の迷いもなく、事も無げに彼女は答えた。
屈託のない声は、彼女が本当に世界を楽しんできた事をうかがわせた。
「そうですか」
「私達の目的は、世界を巡り、世界を知って、その上でどちらが優秀なのかを判別する事だった。
それは別に世界旅行じゃなくても、経験を積める事ならなんだってよかった事だ。
でも、私は世界を見る事ができて本当に嬉しかった。
この屋敷の中だけじゃできない体験がいっぱいあった。
お姉ちゃんは、何もなかった? そんな事」
エトランゼは、じっとフランドールの瞳を見つめながら答えを待つ。
「私にはわからない。私には心がない。だから、嬉しい事も楽しい事もわからない」
エトランゼはフッと小さく笑う。
「そうだった。お姉ちゃんは旧型だからね。これなら、私はおねえちゃんを超えられたのかもしれないね」
言って、エトランゼはフランドールに背を向けた。
そのまま、何も言わずに彼女は廊下を歩いていく。
「エトランゼ」
フランドールが名前を呼び、エトランゼは歩みを止めた。
「心は、優秀の証なのでしょうか……」
「造られたものは、造ったものに近付けば近付くほど優秀だと思うよ」




