プロローグ
正義は勝つという言葉を聞いたことがあるだろうか。子ども向けのヒーロー番組なんかでよく聞く言葉だ。
小さい頃はその言葉に目を輝かせていたものだが、現在の僕には何とも滑稽な言葉にしか聞こえない。
歴史で見るとよく分かるものだ。歴史の作り手というのは正義を語るもの、すなわち勝者だ。
正義なんてものは語る人物によって大きく形を変える。圧政を敷く暴君を倒して民衆を救う事が正義と呼ばれることもあれば、敵国の人間を皆殺しにして自国の利益を上げることもまた正義と呼ばれる。
では悪とは何なのか。正義と悪、対比としてよく聞く言葉だが、明確な区別を語れるものはこの世には存在しないだろう。
悪とは正義を構成する材料なのだから。
ああ、そうそう前置きが長くなったが自己紹介といこうか。
僕の名前は日向維織。特に超能力を持っているわけでもなければ、体の一部に神様を宿しているわけでもない。いたって普通の高校三年生だ。
……いや普通とは少し違うか、この年で天涯孤独の身というのは世間一般に言う普通とは少しかけ離れているだろう。
さて、さっきも言ったが正義とは形を変えるものだ。時代と世論によって、正義というものの概念は変化する。つまりその時代に応じた正義に順応していかなければ悪となるわけだ。
悪というものは常に正義に打ち倒され、滅びる運命にある。
すなわち悪とは敗北を意味するもの、どのような形であれ敗北という事は悪である証明なのだ。
僕はどっちなのだろう。いつ頃まで僕は悪ではなかったのだろうか、父親が事業に失敗して自殺をし、世間で無能な経営者の烙印を押された頃にはすでに悪だったのだろうか。それとも、その父親の後を追うかのように母親が蒸発した時からか?
……いや、唯一残された妹が学校内でのいじめによって自殺した時だろう。
あの時ほど自らを呪った時はない。最後の家族である妹だけは守ってみせると誓った矢先のことだったのだ。
何故、手遅れになる段階まで気づかなかったのだろうか、何故、彼女が僕と話す時に見せた陰りに深く注意を向けなかったのだろうか。
……止めよう、いくら後悔しても妹が帰ってくるわけでもない。残されたのは人生の敗者という名の悪である自分だけだ。
そして今僕はこの敗者の人生に終止符を打とうとしている。
ここで正義へと変わる方法はまだあるとは思う、しかしそれだけは絶対にすることができない。
たとえ、自らの人生が敗北に満ちた人生で、悪という道を歩んできた人生であっても、せめてこの人生だけは自分を貫き、悪として終わりたい。
自殺の方法は、何も考えていない。首吊り、服毒、入水、硫化水素、飛び込み、飛び降り。
色々な方法があるが、できれば苦しみながら死にたくはない。
散々、敗者としての人生を歩んできたんだ、最後くらい楽に終わらせてくれ。
悪である僕が我儘を言うことを許されているかどうかは、分からない。
けれど、悪だからこそ我儘を言ってもいいのではないだろうか。
そんなことを考えながら歩いていたせいか、いつの間にか遠くに来ていた。
目の前にある公園では子供らが無邪気に遊んでいる。
僕は思う。彼らのうち何人が勝者であり、敗者であるのかと。彼らの道程にはどんな絶望があり、どんな希望があるのだろうか。その結果は果たして正義なのか悪なのか。
無邪気に遊ぶ子供達を一瞥し、目の前の車道へと目を向ける。
この車道へと飛び込めば、楽に死ねるだろうか?……無理だな、そうそう都合よく楽に死ねるわけがない、下手に飛び込んで体の一部だけ轢かれて苦しみながら死ぬのはごめんだ。
ここはやめて別の場所を探そう、そう思い身を翻したその時、甲高い悲鳴が聞こえた。
さっきまで自分が見ていた車道に一人の少女が転んでいた。足を怪我したらしく、車道から動けずにいる。そしてその少女から50mくらい離れたところに大きなトラックが迫っている。
このままいけばあの子は死ぬのだろうか?それとも奇跡的に助かるのだろうか?緊迫した状況であるはずなのにそんな疑問が出てくる。
簡単な話だ。ここで死ねば敗者であり、ここで生き延びることができれば勝者。いたってシンプルな分岐点だ。そういえば、父親が死んだのも自分があの少女くらいの時だっただろうか。あの時僕は敗者の道へと進むことが決定した。
あの少女も十中八九は敗者への道を辿ることへとなるだろう。しかしそれは仕方のないことだ。それは彼女に勝者への道を歩む力が無かっただけの話。それこそすなわち運命だ。
そう運命。自分と同じように力の無い者の結末。……僕と同じように、……僕と……同じ……
少女とトラックが肉薄しようかという瞬間、少女は突然後ろからの衝撃によって歩道へと飛ばされた。
そして少女が転んでいた場所には一人の少年が立っていた。
……僕は何をしているのだろう。
時計の針が動くことを止め、時間が止まったかのように感じる中、彼の中では困惑で満たされていた。
彼女が轢かれたとしてもそれは運命だと言ったじゃないか。
彼女が敗者への道を辿ったとしてもそれは運命だと言ったじゃないか。
なのに何故、僕はここに立っている?
何故僕は、彼女をかばった?
考えれば考えるほど困惑と驚愕によって思考が支配されていく。
役立たずとなった思考が導き出した答えは、たった一つの後悔だった。
……最悪だ……こんなのまるで……正義のヒーローじゃないか……
時計が再びその針を刻み始めたとき、日向維織という一人の敗者はこの世界から消失した。




