天使のお仕事Ⅲ 悪役令嬢篇 後篇
カラフルなパラソルである。
海水浴場においてあるような陽気な、と言っても現代日本のだけれど、とにかくそれが実験農場の横にあった。
その下には人影が、いつの間にか現れていた。
「えっ」
わたしは唖然とした。出現はあまりにも急だった。
その人は太った体をしている。おそらくは男性。じりじりと肌を焼く陽光を避けて、パラソルの影に折り畳み式の椅子を置いて座っていた。
麦わら帽子を目深に被り、半そでのカッターシャツにハーフパンツ、足元はサンダルという出で立ち。サングラスをかけているのが帽子の影ながら分かった。
なんで?
誰これ。し、侵入者? うそ。
こんな太った使用人はうちにはいない。というか、あのパラソルはなに?
でも泥棒の割にはずいぶんのんびり座っている。泰然自若、と言葉が脳裏に浮かんだ。
彼の横にはまるで出店みたいに、棚に何かの袋が並べられていた。彼の後ろにパラソルを差したガーデンテーブルがあり、そこにも誰かがいた。
きれいな金色の髪をした小さな女の子だった。サイドテールに髪を纏め、その子も麦わら帽子を被り、上は安物のTシャツに下は膝上のパンツである。テーブルの上に寝転がりごろごろしていた。
「あ。あの?」
「いらっしゃい。お客さん」
え?
男性がわたしに向かって言った。
衛兵を呼ぼうか一瞬迷った。だが瞬間的に悪意がないように見えて、わたしはふらふらと彼の前に行ってしまった。
その太った男性は夏の暑さの陽炎の隙間から生まれた、白昼夢のようにわたしの目には映っていた。
「欲しい物はあるか? どれでも好きに選んでくれ」
「欲しい物って……。あら?」
わたしは彼の横にある棚に目を向け、そこに陳列されていた袋を手に取った。
そして目を見張った。
これ。これは。
……植物の種、だ……!
表面に日本語が書かれパッケージングされたその袋は、以前わたしが園芸店などで見たプランター用作物の種、それだった。
なんでこれが。これがここに。
他にもある、本格的な農業用の種子だ。
この種があれば。きっと開墾は、収穫は。領民全員の暮らしは今よりずっと……!
「ホームセンターや農協で適当に買ってきたが。ついでにこんな物もあるぞ」
男性が分厚い本を数冊、突き出してきた。農業の専門書だった。そこには莫大な量の知識が溜め込まれている。
わたしが何より欲していたもの。
「どうしてなの? あなたは誰?」
「見ての通り、露天商の園芸店だ。助けてくれと祈っただろう?」
「本当に? こんな事がありますの」
麦わら帽子の向こうで、男性が笑った。
すると後ろのテーブルで寝転んでいた女の子が、男性の頭を掴んで揺すった。
「天使ちょー。暑いよー。帰りたいよー」
「少し待ってろ、仕事中だ。ほら、アイスでも食ってろ」
男性が足元のクーラーボックスを開き、棒状の物を出して少女の口に突っ込んだ。
アイスクリーム……だ。
そんなもの、この世界では作れなかった。少なくともわたしは無理だ、知識がないしネットで調べる事ができない。氷も手に入らない。
目の前の人は誰なのか。
何者なのか? それを考えてぐるぐると思考が回った時、わたしは目の前まで軽く回りはじめた。
「おっと、平気か? こんな暑さじゃ熱中症になるぞ」
「あ……ご、ごめんなさい」
「ま、こっちに来て座れ」
男性は椅子をもう一脚出し、パラソルの下を勧めてくれた。
わたしが座って一息つくと、よく冷えた壜のジュースを開けて渡してくれる。わたしは受け取り、それを煽った。
ラムネだ……。清涼な甘味が口の中に広がり、炭酸がわたしの喉を爽快に刺激した。美味しい。
その美味しさと言ったら、久しぶりのわたしは元より、はじめて飲んだわたしの中のシンシアが驚いて目を回したくらいだった。
彼女はわたしの記憶を参照できるだけで実際にラムネを飲んだ事はなく、半身の新鮮な感動がわたしの中にも染み入って、つまり吃驚するほど美味しかった。
男性が冷たい濡れタオルを出してくれて、わたしは帽子を取って額を拭いた。
「わたしは、シンシア・ド・サヴォイヤージュと申しますわ。あなたは?」
「そして賀川響子さんだな。俺は大天使のヨシオという」
「全て知っていますのね……。天使なんて、はじめて拝見しましたわ。それもずいぶんと鄙びた装いで、ふとっちょの」
ヨシオは麦わら帽子のつばを持ちあげ、ついでにオークそっくりだぜ、と太く笑った。
その顔は本当にオークそっくりで、少し驚いてしまったけど、やはりわたしに対して悪意はないように思えた。
「勇ましいお顔ですわ。見た目で判断は致しません。わたしが容姿だけの男にうんざりしているのも、もしかしたらご存知かしら?」
「そりゃ勘違いで討伐されなくて結構な話だ。それで、作物の種が欲しいんだって?」
「ええ……素晴らしいですわ! クローバーやライグラスまである。わたしが欲しかった全てがここに」
「お眼鏡に適ったようで良かった。神の奇跡を信じたか?」
わたしは頷いた。
これを奇跡と呼ばずになんと呼ぶのか? わたしの望みが叶うなら、神でも天使でも悪魔でもオークでも信じる。
「お幾ら払えば? 言い値で買いますわ。この種と本には、千金の価値がありますもの」
「価格は、値札を見てくれ」
わたしは振り返って棚を見た。陳列した種の下に札が下がっている。50pt、60ptなどと書かれていた。
「これは、新金貨50枚でよろしいかしら?」
「うちは金銭での取引はしていないんだ。金なんざ要らんからな。それは信仰のポイントになる、これがカウンターだ」
ヨシオが腕時計のような機械を渡してきた。
「ポイントは、アマテラスという太陽の神に祈ると手に入る。それで買って貰う」
「日本の古代神と同じ名前ですね。祈ると……?」
試しにわたしは手を合わせ、太陽に祈りを捧げた。
両手に淡い光が生じ、それが二つ宙に飛んだ。カウンターが0から20ptに変化した。
「二人ぶんか。重なる(・・・)と、たまに起きる」
わたしはすぐに理解した。神に祈りを捧げれば、見返りにこの種が貰えると。
早速地面に跪き、わたし/シンシアは、天の太陽に向かって祈った。服の汚れなど気にもかけなかった。
無数の光がわたしの手から浮かび、周囲を舞っては空へ散った。
シンシアはわたし以上に真剣に、普段にも増して敬虔に祈り続けた。彼女の中に、震えるほどの興奮と喜び、そして情熱がある事にわたしは気づいた。
彼女の長年の信仰心が報われた瞬間だった。少なくともシンシアは天使の出現をそう思っていた、救済の時が来たと。彼女にはこの世界に生きる多くの人がそうであるように、敬虔な信徒の部分があった。
祈る。ただ強く祈る。感謝と救いを求めて、シンシアの熱意に押されて、わたし達はひたすら祈った。
そして、突然、世界がぐらぐらと回りはじめた。
「あら……?」
気がつけば、体が鉛のように重くなっていた。
汗が全身から滴り落ちて、地面に水溜りを作っていた。起きようとしてがくがくと身が震えた。熱病に浮かされたように頭がぼうっとした。
少し驚いたヨシオがわたしに手を伸ばそうとして、彼の手が遠ざかった。背中に衝撃を感じて――
わたしは気を失った。
目を覚ました時、わたしはテーブルの上に寝かされていた。
「急に祈りすぎだ。死ぬぞ?」
わたしの傍に立つヨシオが、呆れた声で言った。
どうやら神への祈りは精神的なもの以外にも、実際の体力も消費してしまうらしい。わたしの額には、濡れタオルが乗せられていた。
体が億劫で起き上がれなかった。ヨシオが太い腕でわたしの上体を持ち上げ、ペットボトルに入った水を飲ませた。
少し甘い。ポカリスウェットだ。
「もう一人のたずなをきちんと握っておけ。もう一人の方も、無茶は控えるんだな」
わたしと、わたしの中のシンシアがシンクロし、小さく頷いた。
ごめんなさい、わたし(キョーコ)――シンシアの謝る声が心の中で空耳した。
近くで例の金髪の少女がわたしに居場所を取られて、地面のブルーシートに女の子座りしていた。
彼女の前には扇風機があり、パラソルの影で『あ゛ー』と扇風機に声をかける遊びをしている。
わたしは手に握っていたカウンターを眺めた。しかし、あれだけ祈ったはずなのに、カウンターの数字は0ptになっていた。
「ポイントは勝手だが商品に変換しておいたぞ。しかし、祈りすぎだな。余りはこっちで他のサービスに換えておいた」
ヨシオが背後に振り返った。
わたしは彼の視線を追い、そこにあるものを見た。
――風景が、一変していた。
花壇の向こう側。広い荒地は見事に耕され、その先の林もきれいに無くなって、畑がずっと遠くまで広がっていた。
無数の赤いトラクターが、何台も並走して走りエンジン音を響かせ、硬い地面を均していく。ゴゥン、ゴゥンとあっという間に耕し、人力や家畜など比較にならない速度だった。
トラクターを操っていたのは機械式の人形で、頭部に単純な顔を描かれていた。頭の上に棒と糸で吊った輪っかがあり、寸胴のボディで両手足が短く、背中には蜻蛉のような薄い羽がちょんと生えている。
マスコットみたいでちょっと可愛い、と思ってしまった。
空には大きな鳥の影……いや、セスナ機だ。
上空から無数の種をばらまき、効率など細かい事は言わず、あたり一面の畑に圧倒的な量の種子を植え付けていく。
セスナの編隊が機体の後部を開き、肥料を山ほど散布していった。中にはやはりあの人形、寸胴ロボットが乗っていた。
併設されたスプリンクラーが稼動すると、冷たい水が周辺に大量放出された。霧のような水が新設された巨大な畑を濡らしていく。
ものすごい規模だ。
あ、アメリカみたいだわ……!?
「チート農業も、やるからにはこれぐらいやらんとな。水は地下水使うか迷ったが、地盤沈下を考えて魔法装置で作る事にした。なんという事でしょう」
ヨシオが言った。○フォー・○フターじゃない。
「あの……。ここ、うちの庭ですのよ? 開墾予定地じゃなくて」
「なに? しまった、間違えたか?」
豪快すぎる間違え方だ。
既に草林は除かれてしまい、どこまでも続く田畑に様変わりしてしまっていた。
あっちには館の敷地と外を隔てる壁があったはずだけど。気づかずに取り壊してしまったらしい。
外もうちが所有していた土地なので、大丈夫だろうけど。
林を切り開いたせいで水はけが悪くなると考えたのか、コンクリートの水路まで作ろうとしていた。
木材は再利用され、立派なログハウスが幾つか建てられ、今も続々と建設中である。ブルドーザーやショベルカーが大活躍していた。ボーリング機械が井戸を作っていた。
村でも作る気なのかしら……? いや、もう村になっている。
「どうする? 元に戻した方がいいか?」
「……いいえ、このままでいいですわ。でも、これ以上はちょっと」
「わかった。じゃあ今作っている奴だけで止めておこう」
わたしはテーブルの上に座り、日陰から機械式開墾の風景を眺めていた。
速度も規模も物量も、何もかも違う。牧歌的なイメージはあまりない。
だけどまあこれはこれで、風情はあるかもね……。
しばらくそうして休んでいると、少し調子が良くなった。ヨシオは黄色の飲み薬を渡してきて、わたしはそれを呷った。
カッと体の芯が熱くなり、体の奥から力が沸いてくる。
まさかお酒? いいえ、違う。
「体力回復薬だ。消耗した肉体を速効で回復させる。少しきつい(・・・)がな」
体が強い熱を持ち、息が鼻から抜けた。やがてゆっくりと冷めていった。疲労が水のように流れて消え去った。
わたしは立ち上がり、関節を回した。快調そのものだ。昨日の寝不足さえなくなっていた。
ヨシオが麦わら帽子のつばを上げ、じっとわたしを見つめて言った。
「一つ聞きたいんだが。この世界で、農業を発展させたいのは何故だ?」
「なぜ、ですか?」
「理由を答えて貰う。こういったチートは影響がでかい分、うちでは審査が必要になっているんだ」
審査?
種や本、この畑を受け取るには、資格が必要と言いたいのだろうか……。
「理由、ですか」
「少々厳しい事を言うが。あんたがそうする理由は、自己満足、自己顕示欲以外に何があるんだ?
世界は個人の箱庭じゃない。ただの遊びで他の人間に影響させるには、こいつは少し大事すぎるな。あんたの行動がどれほどこの世界の時間を早めてしまうか、分かるだろう?」
その言葉に、わたしは少しムッとしてヨシオを睨んだ。
自己満足や遊びだなんて。酷い言い方をするわね。
しかし、ヨシオは静かに首を振った。彼はわたしを真正面から、揺らぎもなく、一切のごまかしを許さない真剣な眼で見つめてきた。
空気の汐が変わった。
彼の頭上に光る光輪が現れた。どこからか、淡く光る白い羽根が宙から、わたしの目の前に落ちた。
背には純白の羽……彼の瞳が神々しい金色に、変わって見えた。
わたしは目をこすった。彼の瞳は、しかし元の黒のままだった。
断固とした声がわたしにかけられた。
「答えよ。この場において神と、汝の信仰において、嘘は許されない。正直に言え」
わたしの前に《天使》――本物の天の使いがいた。
わたしはヨシオの放つ雰囲気に気圧された。ヨシオは本気でわたしに尋ねていた。もし今、わたしが軽はずみな嘘をつけば、……それは本当に許されないだろうという真実味を感じた。
わたしはごくりと唾を呑み込んだ。真夏の屋外にも関わらず突然、冷たく静寂な神殿の中に立っているような気がした。神像の前に跪き、告解するかのような。
わたしの中のシンシアが信仰心に賭けて表情を変えた。わたしも似た気分になった。自然と、背筋が伸びた。
わたし達は真面目に考えた。なぜ、種を欲したのか? なぜ作物を育て、収穫を望んでそうしたのだろうか?
わたしは自分の手のひらを見つめた。
小さな手だ。小奇麗で細く、苦労など何も知らない手。お嬢様の手だ。
ペンだこと、かすかにインク染みが残るくらいが、ここ数年の努力を示す程度のか弱い手……。
あの子達の汚れた手に比べれば。
「――臭いが。まだ鼻の奥に、残っているの」
「なに?」
「あの子達の臭いよ。本人達は気づいていないのよ。そうよね、そこでしか生きてこなかったんだもの。ドブのような酷い臭い」
「……」
「何度洗っても取れないくらい……。うちの浴場に連れてきて、わたしは自分の手であの子達を洗ったのよ。メイドが止めたけど、うるさいって追い払って、自分の手でやりたくて。いいえ、わたしがやらなきゃいけなかったの。
わたしに出来る事は、あの子達の肌を何度も石鹸でこするだけ。この手にあの子達の汚れが移っても、こすってこすって……。
理由は、あの子達に被された汚濁を洗い流す為のたくさんの石鹸と、おなかがいっぱいになるだけのごはんが欲しいの。どうしても」
わたしの言葉に、ヨシオは少し意味を考えているようだった。
金髪の少女がテーブルの上に戻り、彼の頭を掴んで揺すった。彼の頬を両側から引っ張り、ぱちんと手を離した。
ヨシオが言った。
「ふむ。あの子達とは、貧民の子供か?」
「はい。そうですわ」
「ならいいだろう。資格を認めよう――種も好きなだけ持っていけ。遠慮しなくていい」
「感謝します。勿論、致しませんわ」
わたしは棚の種や種籾を、ごっそりと両手に抱えた。
ついでに肥料の袋と農業の専門書がわたしの足元に置かれる。
ヨシオは手早く椅子やテーブルを折りたたんで片づけはじめた。上にいた少女が、押されてずり落ちた。
遠くで作業していた寸胴ロボット達が集まり、セスナや耕運機や重機と光になって、空へ消えていく。ログハウスや水路は建設途中だったが、すぐ作業の続きができるよう用具や資材が綺麗に整頓されて置かれていた。
わたしは少し口元を押さえた。そういえば、さっきはちょっと言葉遣いが変わってしまっていた。昔のわたしの口調みたいだ。
はしたないですわ。今のわたしは公爵家令嬢ですのよ?
ヨシオが地面に魔法陣を描く。
すると、わたしの中のシンシアが、思った事をそのまま口に出した。
「あなたは……天使様ですわね。わたしは信心深いほうですが、神様は、天上の主は本当にいらっしゃいますの? なら、それは一体どこに?」
「ん? じゃあそうだな、『神の王国は全ての人の心の中にある』チャップリンの又聞きだがな。彼が嘘をついてなければ、きっとそうなんだろう。
ちなみに神の事務所はこの次元の外、とある次元座標にポツンと開業中だ」
ヨシオが名刺を取り出して、渡してくる。
そして少女を小脇に抱えて魔法陣に乗り、光が走って、彼らの姿は消えた。
そこにはもうパラソルも、オークに似た男も金髪の少女も、影も形もなかった。まるで全てが陽炎の見せた夢だったように。
わたしの手元には、種と農業本が残されていた。
瞬間、世界の何かが変わったような気がした。いや『戻った』という感覚の方が正しかった。
少しすると館の方から、使用人達が走ってきた。わたしの執務の手伝いや内向きの事柄を任せているセバスの姿が、その中に混じっていた。
「おおお嬢様!? 一体何が起きたのです? に、庭が、突然巨大な農場になって!」
「セバス。そういうこと、時間が。大丈夫、気にしなくていいの。もう終わりました」
「終わったですと? し、しかし……」
「敷地の壁は直しておいてちょうだい。でも畑はせっかくだから、有効活用しましょう。さ、まずはこの農学書で再勉強ね。早く領政の改革をはじめなきゃ」
数年後。ド・サヴォイヤージュ公爵領は、空前の発展を遂げた。
新しい種子のみならず、現代の進歩した農学知識が無数に折り込まれて行われた画期的な新農業法の数々は、爆発的とも言える生産高を叩き出し、領内から飢えと貧困は一掃された。
まさに桁違いの収穫だった。うず高く積まれた麦の山々を前に、それを育てた農民達すら、見上げて呆然としていた。
やがて税で取られる分を計算し、どれほどの量が手元に残るかを理解すると、飛び上がって喜んだ。喜びのあまり連日収穫の祭りが、領内各地で催された。
そこには、指導力はいまいちだが人がいいと評判の公爵閣下が参加し、いつも宴を盛り上げていた。
予想以上に収穫しすぎて、麦の価格が大暴落してしまったくらいであった。その混乱を抑えるため領主代行が死ぬ思いで走り回るはめになるのだが、また別の話である。
王国内でもその技術は摸倣され、もともと裕福だった者は、太って成人病を続発する始末だった。
かの第三王子も晩年は見る影もなく太り、痛風を発症した。王子夫人の元男爵家令嬢はその姿に幻滅して愛が冷めてしまい、実家に帰ってしまった。王子は愛を取り戻すために足繁く彼女の家に通い、必死に気を引いたというが。
王国は瞬く間に強大化し、他所に気が向いていた隣国は、その間に完全に侵略の機を失してしまった。それでも時の王は現実を信じず戦争を仕掛け、逆に大敗を喫して、王国の属国に成り下がってしまう。
ド・サヴォイヤージュ領では、貧民の救済が盛んに行われた。孤児院や慈恩院が多く建設され、それはやがて形態を変えて、庶民のための学校になった。
農村の子供達は家の労働から解放された事で学ぶ機会を得た。もはや子供の労働力は必要がなくなった、作物はどっさり獲れ、誰も飢える事はなかった。生産性の向上はつまり家主一人の労働で事足り、子供達が自由に学べる時間を生み出す事だった。
その後、領地では商業や工業の分野で『どこからか沸き出してきた画期的な知恵』で大いに発展していった。学識を得た庶民の若者達が、新たな分野に次々と飛び出していった。
無論、良い事ばかりではない。
それは数十年、百年先の未来において、大きな社会変革の種を蒔いてしまっている事と同じだ。知恵をつけた被支配階層の行動は、常に同じである。
彼らはやがて、自分達を縛る構造の理不尽に気づく。疑問を持ち、訴え、蜂起し、社会正義を叫んで戦いを挑み、その過程で多くの人間が非業の死に至る事になるだろう。
彼らは痛みに躊躇せず、もしかつての支配者とその家族が搾取の贖罪として処刑されれば、両手を挙げて熱狂し喜びさえするだろう。
その時、彼らは正義である。支配者が与えた慈悲と恩恵によって、革命を成す下地の豊かさと、正義を考えるだけの知を与えられていたとしても、だ。
なぜなら人間を善意で飼い慣らす事はできない。彼らは犬ではなく、自由意思を有する、人間だからだ。
彼らの自由を求める心を、悪意と呼ぶかは、判断の分かれるところであるかも知れないが……。
その未来を予見している者は、この豊かさをもたらした張本人を含む、ごくわずかな者達だけだったが……。
少なくとも現在、王国は、常世の春を謳歌していた。
公爵令嬢シンシア・ド・サヴォイヤージュは――79歳で天寿を全うするまで、領政に携わり続けた。
農学、経済学の祖であり、のちには医学と哲学の巨人。無数の発見は彼女の成した発明である。彼女はいつも、天使に授かった知恵と言った。
後の世で彼女の名は歴史の教科書に載った。人は彼女を呼んだ『聖女』または『魔女』と。
聖なるにせよ忌まわしきにせよ、そのいずれでも、彼女が万能の天才である事は疑いの余地がなかった。
彼女の業績は未来においてさえ、連綿と続く人類史の巨大な一歩となった。彼女がいなければ、300年は歴史が遅れていたと言われる。
人類史上の天才を一人挙げよと言われれば、彼女は間違いなく第一に呼ばれただろう、『絢爛の令嬢』《赤の廉施者》シンシア・ド・サヴォイヤージュこそ、真に偉大な知性だと……。
しかし、それはまだ遠い未来の話である。
彼女は未だ生きて、領政に辣腕を振るい、多くの事件と出会いに巡っていく事になる――




