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天使のお仕事Ⅲ 悪役令嬢篇 前篇

 

 悪役令嬢シンシア・ド・サヴォイヤージュこと、わたしは、実家サヴォイヤージュ公爵館の広大な庭先にいた。

 季節は夏。

 わたしは真紅のドレスに身を包み、それは時期を考慮して薄手の風通しの良いものだが、残照の照りつける昼下がりのねぶるような陽光の下で、


 つばの広い帽子の下冷たい月の如く、わたしの澄ました表情に些かの変化もないのは、まさにわたし/シンシアが高貴な公爵令嬢の在るべき姿というものを徹底的に教育された証左と言えるだろう。

 ……と言っても、暑いものは暑いんだけれど。

 季節は夏。暑いわよ、そりゃ。


 お澄まし顔の下は汗だくである。

 わたしは供も連れず一人、庭に作られた花壇の前にいた。花壇と言ってもそれは、整備された渡り50m四方ほどの広大なものだ。

 その向こうは更地が広がっていた。ここは広すぎるうちの庭の中でも、ほぼ人の手の入れられていなかった場所だ。


 わたしの用命で雑草と切り株だけ除かれた広い荒地がそのまま置かれ、その先には林が、草木を生やすに任せている。


「だめね。今年も」


 花壇には、ひょろひょろと痩せた麦が、猛暑に負けたかのようにうなだれて生えていた。

 心中わたしはため息をつく。

 乙女ゲーム『キングダム☆プリンス』の中の登場人物、悪役令嬢シンシアに転生したわたしが前世の記憶を取り戻して、3年。


 その間わたしも色々と奮闘した。

 具体的には、ゲーム内でヒロインに敗北し最終的に実家没落という過酷な運命を回避すべく、フラグ潰しに奔走した。

 頭の沸いたヒロインと、ヒロインにとっての攻略対象の男子達(これも脳がお花畑どもだが)を相手に、絶妙なタイミングで危機を潜りぬけ生き延びた。


 わたしの元許婚にしてヒロインに心変わりする王国第三王子ジャンとの婚約を解消し、可能な限り綺麗な形で遺恨や批判を抑えられるよう決着をつけた。しかるのち隠れた恋のキューピット役までこなしたのだ。恩を匂わせつつ。

 めでたくヒロインは王子と結ばれ、ハッピーエンド(ゲームのヒロイン的に)となった訳だった。

 なんでわたしがこんな事まで……と思うが、ジャン王子を取り合うとその時点でわたしに死亡フラグが立つのでしょうがない。


 このゲームではわたしがヒロインと争った時点で、どう転んでも破滅する筋書きとなっているのだ。さっさと明け渡すのが身のためである。

 と言ってもまあ、わたしも『顔が良いけど馬鹿』はNGなので、王子に特に未練もなかったけど。

 わたしは男に顔より、頭の良さや甲斐性を求めたい。見た目がいいだけでは食っていけないのだ。ジャン王子は金のある王族だが。


 でもあのバカさは絶対に嫌だ。あの王子はカッコつけでなんでもする阿呆なのだから。

 曰く、カッコつけで一人で盗賊討伐したり。曰く、カッコつけで奴隷を買い上げその場で全員解放したり。曰く、カッコつけで純金の馬車でお迎えに来たり。

 自分の立場や周囲の目、後々のことを何一つ考えていない。しかも自分は賢いと思っている俺様系の激烈バカだった。


 あんなのが一生を共にする夫なんて、苦労以外の何物でもないわ……。

 わたしはシンシアの人格を乗っ取ったわけではない。わたしはシンシアの記憶と感情を受け継ぎ、今は一つの体に二人の魂が融け合っている。

 わたしの中のシンシアは、当然ながらヒロインとジャン王子に反発しようとした。


 が、シンシアもまたわたしの記憶と感情を受け継いでいた。前世のわたしが男関係で盛大に失敗した記憶を知ると、シンシアは黙った。

 そして、あ、この王子ダメだわ? と理解した。シンシアは、元々賢い子なのである。

 馬鹿は千年の恋も冷めるものだ。そりゃイケメンに越したことはないけど、それはあくまで付属品で、やはり男の本体は能力と性格なのだなぁ……と思う次第である。


 実家没落の原因になる黒幕の父も、政界から引退させた。わたしの悪辣な策略が上手くいった。そのへん紆余曲折はあったが。

 今は実兄が跡を継いで、王国の大臣を勤めている。

 父は、娘であるわたしが嵌めた張本人とは未だに気づいていないらしい。少しちくりと胸が痛んだが、同時によく今まで大臣やれてたわねお父様……? とも思う。バレバレの陰謀とジャン王子を傀儡に王国乗っ取りなど企んで、やっぱり父も馬鹿の一員なのだからしょうがなかった。


 そんな適当すぎる策で上手くいくわけないじゃない……。自分は隙だらけだし。勝ったところで、隣国に攻められて呑み込まれるのがオチである。実際ゲームでもそうなる。

 結局、父は領地で半隠居中。

 私の執務の手伝いがてら絵を描いたり、よく懇意の地主の家へ遊びに行き民に混じって農作業などして、のんびり過ごしている。


 そんな父の顔は、以前に比べるとずっと安らいでいるように見えた。眉間の皺がなくなり、額に汗して畑仕事をする姿はとても公爵閣下には見えないが、よく笑うようになった。

 本当はお父様はそういう方だったのだ、と気づいた。陰謀渦巻く宮廷の生活や、大領主の重責など、元々父には向いていないし、好きでやっていた訳じゃなかったのだ。

 権力を追うのも惰性で、狙えると思ったから(実際には無理だが)やっただけなのだ。


 わたしはお父様が、次男で長男の夭折後に嫌々家を継がされ、昔は画家を志していたと知った。そういえば設定資料集にそんなん書いてあったわね、悪役の父親までそんな設定詰めてるなんて細かすぎると思うわ……。

 とにかく今の父は前より幸せそうで、ひとまず良かったと言ったところだ。

 という訳で。


 わたしは見事、破滅フラグを回避したのだ。

 今、わたしは平日に学園に通ったり、休みの日は領地に戻って内政っぽい事をしたりしている。要は俗に言う内政チート中だ。

 我が家の領地は学園のすぐ近くにあるので、馬を飛ばせば一時間で帰れる。そこだけは全くありがたい設定である。


 戸籍の作成、領地内の検地、税制の改革。

 街道の再整備と延長、物流の増加とそれに伴う治安対策。

 新たな農地の開墾。これは軍備を減らして帰農した兵を労働に宛がう事で、上手く軌道に乗った。父の件で王国から疑惑の目が向けられており、恭順を示す必要があったのが幸いした。


 とはいえ王国へ供出する軍役はあるし、兵の減少は治安悪化に繋がる。

 そこで我が家の私的な贅沢を節約し、父が現役時代に溜め込んだ私財を元に貿易を増加させて、上がりの利益をまるまる王家にぶん投げる事で軍役を一時免除してもらった。

 王家もまあ、人がいい。逆臣の疑いある我が家の提案に乗ってくれるのだから。さすがジャン王子の実家である。


 目先の利益に弱くて助かった。実は借金で国庫が大変、って知ってた上でだけど……。

 うちの領地の官僚と徴税組織の効率化も済んだ。経費は15%も減少したのだから、逆に今までが適当すぎただけかも。

 さらには王国の外務大臣と、兄を通じてパイプを作り、隣国の脅威を仄めかして、わたしはとある策を授けた。


 『二虎競食の計』である。これがど当たりして、隣国の視線は今完全に別の国に向いている。貴重な時間が王国に与えられた、というわけだ。

 ありがとう孔明先生! 構想を実現してみせる外務大臣と兄も、実に優秀なお方だった。

 こう言っちゃあれだけどお父様とはやっぱり違うわよね。本物の政治家って。素人の思いつきを形にしちゃうんだから……。別に父をバカにしたい訳じゃないけど。


 あのお方達に任せれば、王国の外交戦略は安泰そう。兄も若手ながら立派に父以上の仕事をこなしている。

 先の事は分からないけれど、今のところサヴォイヤージュ領は順調。

 わたしは今年、学園を卒業する。ジャン王子とその取り巻きにはあまり近づけないけれど(というか近づかない。危険)、それなりに友人も出来た。


 それは将来的に、我が家を支える横のパイプにもなるだろう。もちろん友達が困った時はわたしも助ける。

 来年からはますます本格的に領政に打ち込む事になる。わたしも、今まで学生で不在の時間が長く、補佐してくれた家令以下使用人達には頭が上がらない。

 彼らの今までの努力のためにも、彼らの苦労を今より減らす訳にはいかないけど、わたしはそれ以上に働こうと思う。


 順風満帆で、わたしは領主代行の仕事を続けていく――

 ……はずだったのだけど。


「はあ。どうしたらいいのかしら?」


 人目がないことも手伝って、わたしは堪えきれず弱音を吐いてしまった。

 今の季節は夏。燦々たる太陽とは裏腹に、わたしの顔は優れない。

 熱中症なわけじゃない。あ、でも水分は摂らないとね……。


 目の前にある花壇は、わたしの『実験農場』だった。

 そこにある作物は若干萎れて見えるものもあれば、今にも折れそうに弱いものもある。どうしても、上手くいかないのだ。


「これこそが肝なのだけれど……ね」


 この作物は、新たに領内に植えようと企画していた物だった。

 しかし毎年挑戦してみても、全然上手に実ってくれない。土やら肥料やら努力しているし、プロ農民の助言も貰ったりしているが、やはりだめだ。

 理由は分かっている。


 作物自体が、こういうもの(・・・・・・)なのだ。

 麦で言えばこの世界の麦は、地球のものほど『品種改良が進んでいない』。

 落ち穂を垂れる……なんて言葉があったけど。そんなに実るのは、たゆまぬ品種改良の結果なのである。


 中世の麦(米)は垂れない。

 それは土壌の質や、天候・気候、肥料の栄養不足、大量の実りに負けないだけの矮性(麦の足の短さ。これが長いと先端の重みに負けて折れる)などというのもあるだろう。

 わたしの実験農場にある麦。茎の線が細く長く、そこに出来る麦の粒は少なく、粒まで小さい。


 目の前の作物は別に萎れているわけじゃない。これで(・・・)元気に育っているのだ。

 作物の生産性が低い。

 耕地面積あたりの収穫高は、現代に比するなら、信じられないほどだった。


 品種を改良するなんて、一年や二年わたしの努力でどうにかなるものじゃない。何十年、この世界の技術レベルなら百年単位でかかってしまう。

 領地は順調と言ったけど、実はそんな事もなかった。

 新規農地の開拓は早くも行き詰まりを見せはじめていた。元々、実りのいい土地はとっくに使われている。


 残るは二級三級の土地だけど、そこで麦を植えても、目の前のひょろ麦以下の作物しか育ってくれない。

 苦労して開墾して、収穫がそんなものじゃ……。

 兵士達の意気も下がり、このまま現状が続けば耕作地を放棄する者も出るだろう。


 新しい農具を開発し、それが開拓地以外の農地でも助けになってはいる。牛に曳かせる有輪犂を改良したし、特に新型スコップは素晴らしいらしい。

 だが足りない。わたしはもっと根本的な改革が必要だと実感していた。

 元々あった三圃農業の拡張は比較的上手くいっているようだ。畝をきちんと測って作らせるよう指導し、それで生産高は若干ながら向上した。


 だが、かの農業革命の代名詞であるノーフォーク農法は、全くと言っていいくらい、だめだった。

 クローバーに似た植物を見つけて植えたが、どうやら全然違う植物だったらしい。地味は回復せず、麦は枯れてしまった。

 わたしの知識ではなんでクローバーで回復するのか、化学的な原理までは知らないし、代わりになる植物が分からない。ネットやウィキペディアなどはもちろんこの世界にはない。


 農法の失敗と、そして作物の実りの少なさ。これが、わたしが今抱える最大の問題。

 前者は置くにしても、後者は特に歯がゆかった。

 すると悩んでいたわたしに、父が助言をくれた。父は昔から農業が好きな人だ。


 父はドヤ顔で言った「ふふふシンシアよ、我が家秘伝の農法を教えよう。麦は一度、地下の冷たい室に置きなさい。するとなんと、秋まきの麦が春まきに変わるのだ!」

 OK、それは知ってるわお父様ヤロビ農法よ。画期的だしもう領内でやってるんだけどそうじゃなくて、作物自体の実りを増やしたいのよ。

 すると父はまたドヤ顔で言った「むぅ……ならば、そうだ! 作物の間隔を狭めて植えてみれば? 倍植えれば倍の収穫が取れるかも知れん! 昔思いついたが、何故か農民達にだめと言われてな、今度領内全域で試してみようかと」


 OK、共産主義はもう十分よお父様絶対やらないでね。放っておけば、我が家は地獄に向かって大躍進政策していた訳ね。セバス、お父様をしばらく禁固しておいて。

 馬鹿父はともかく、わたしの思いは日を追う毎に強くなっていった。

 他に手っ取り早く収穫を増やすとしたら、堤防工事と灌漑事業だが。とんでもなく費用がかかって手が出ないし……。元来統一集権国家でなければ出来なかった大事業だ。


「作物さえもっと実れば。開拓も、うちが抱える経常赤字も、解決できるはずなのに。農民が不作時に飢えるのも毎年の蓄えが出来ないから。

貧民の子供達が生まれるのも、そこから治安を乱す盗賊になってしまうのも、食べられない(・・・・・・)からよ。これさえ上手くいけば。これさえ」


 領内の畑を自分の足で回り、一番良さそうな作物を選んで植えても、改良効果はろくに見られなかった。二年目三年目の麦は肥料が合わなかったのか、立ち枯れが多かった。

 わずかに育った麦も背ばかり高く伸びて、結局折れてしまったのもあった。

 どうしてだめなの……。わたしは頭を抱えたい。


 わたしの記憶の中に、水田一面に広がる豊かな水稲のお米の姿があるから、余計にそうだった。あれは現実の光景で、技術さえあれば、決して夢物語じゃないのに。

 この世界は残酷だ。

 なぜならおなかを空かせたあまり、人が人を殺すからだ。時に戦争さえ起きる。


 貧困は罪である。前世のわたしは、軽い気持ちで聞き流して気にも留めなかったけど、それは真実だと今の為政者の立場になって思い知らされていた。

 貧民街の子供達のために、孤児院を作ったことがあった。

 ある種の人気取りという打算、自分はいい事をしたという自己満足もあったが、実物の飢えた子供達を見た瞬間、わたしの欺瞞は砕け散った。


 光の見えない瞳。痩せて汚れた体。

 言葉さえ満足に扱えない、教えてもらえないから。

 平気で生ゴミを漁って食べる。それすら食べられない日もある。


 あまりにも可哀相で。わたしは膝を抱えて感情なく座る子供達を抱き締めた、異臭があの子達から立ち昇り、わたしの鼻を撃った。

 その臭いは、この世界の汚れを一手に引き受けさせられた悪臭だった。わたしは、もっと強く子供達を抱き締めた。

 その後わたしは自分の所有する宝石やドレスのいくつかを売り、孤児院を拡充した。感情のままで、居てもたってもいられなかった。こんな子供達がうちの領地にいるなんて!


 ……それは現実と戦うというより、現実を覆い隠すためのごまかしの行為に、似ていたのかも知れない。感情を抑えきれず動いたのがその証左に思える。とにかく、わたしはそうしてしまったのだ。

 だが、全部は売れなかった。

 わたしにも付き合いがある。それは特に社交界、貴族が自分を顕示しなければならない場では、豪奢な衣装は必須品だ。それがなければ貴族の世界を渡ってはいけない。


 貴族は舐められてはならない。装いで、懐事情を測られてはならない。見下された瞬間に挑戦的な者が現れ、利益を奪おうと暗躍をはじめる。貴族社会は名分と実力の、弱肉強食世界なのだ。

 この服がわたしに権威を与える。権威が、貴族同士の関係を繋げる。そしてその繋がりが、現実の社会的な力と新たな利益の機会をも創る。

 新たな利益は領土を富ませ、巡ってそこに住む領民の生活に恩恵も与えるだろう。


 愚かな貴族の中にはその意味すら理解していない者もいるが、結局は着飾るのもまた、経済行動の一環なのだ。

 この絹の布切れがどれほどの子供を救えるとしても、わたしはそれを捨てられなかった。

 そしてそれでさえ、一時のものに過ぎない。


 孤児院は公爵家お膝元の街にいた、その中でも運の良かったごく一部の者だけで、領内の他の街の子供までは入れない。

 予算が足りない。孤児院のために領地の財政を傾ける事は、わたしにはできなかった。

 公爵家のために働く人々、領土を守る将軍と兵、街で商売をする商人、様々な物を作る職人、作物を育てる農民達……その大切な家族達。わたしを信じて支えてくれる全ての人々のためにも、わたしはできない。


 ああ、麦。麦がもっと実れば。

 豊かさの絶対量が足りない。全員に行き渡らない。

 秋の収穫期の小金色は、まさに本物の黄金の輝きなのだ。昔のわたしは気づかなかった、あれこそ豊穣の源泉だった。


 こんな麦じゃ開墾も、にっちもさっちもいかない。税収の基盤たる農地の開墾が進まなければ、いつまでも豊かにはなれない。

 先に進めない。袋小路。

 どうすればいいの?


 その時、わたしの耳に、彼女・・の声が聞こえてきた。


 ――他にどうしようがあるって言うのよ。

 わたしは確かに搾取する立場よ、でもわたしだって人間よ。路地裏で餓死していた幼い兄妹を見た事があるかしら?

 悲しいし、いらいらする。なによ、麦がそんな痩せた姿して。へし折ってやりたくなるわ。実らない麦が、まるでわたし達を嘲笑っているよう。

 思えば、学園の全てもそうだった。綺麗な校舎、噴水付きの広場。


 新品の長机。わたしは特別にしつらえた高価な羽ペンを華麗に手繰って、上等な羊皮紙を落書きみたいにメモを取っていた。周囲には、侍らした侯爵や伯爵家の女の子達が小綺麗に着飾っている。

 顔のいい爵位家の男子達が、わたしに粉をかけたわ。打算もあり、分かりやすい男の欲もあり。ジャン王子と婚約してから、それらはすぐいなくなったけど。

 あの子とジャン王子――二人だけの世界を作っていたわね。他の全てが目に入っていない感じ。きっと二人の幸福は永遠に続くと信じきっている、あの顔。自分達だけでずいぶん幸せそうね。

 ふざけてる。『わたし』も含めて、ぶっ飛ばしてやりたくなるわ――。


 それは、わたしであり、もう一人のわたし。わたしの記憶が蘇る前からこの肉体にいた、もう一人のシンシアの声だった。

 わたしの中のシンシアは生まれついての激情を心の中で振り回して、胸を灼いた。それは嫉妬ではなく、もっと純粋で、そして少しばかり幼稚な怒りだった。

 苦い現実を目撃した若者が罹る、はしか(・・・)のような怒りだ。


 ――その豊かさはどこから持ってきたの? 何も知らない顔で。色恋だのと、つまらないお話ばかり。その服はどこから来たの、少しほつれただけで買い換えるの? なんで食べられるパンを固いと言って捨てるの?

 ジャン王子の金の馬車を見て黄色い声で騒いで、あれのどこに見るべきものがあるの?

 あの子供達はあんなにおなかを空かせてるのに、涙も流れないの。自分達が悲しいって分からないのよ!

 引きずり出して貧民街に放り出してやりたい、結局領政を改善したって、うちの税収が上がっただけで農民やあの子達の生活は何も、一度泥水を啜ってみれば、全員あの子達に額づいて謝りなさいよ! ――


 ああ、落ち着いて。わたしのシンシア。お願い。

 心の裡で荒れ狂ったシンシアの直線的な正義感を、わたしは宥めた。

 シンシアはわたしの中で怒り泣いていた。彼女は本当に純粋で、いい事にせよ悪い事にせよ、思ったら感情を抑えきれなくなってしまうところがある。


 孤児院での感情も多くは彼女のものだ。温室育ちの彼女が受けた衝撃と怒りたるや、すごいものがあった。


 ――なによわたし。あれを見て何とも思っていないの!? ――


 思っているから、こうして麦を植えているんじゃない……。落ち着いてってば。

 しばらく自問自答する。シンシアは己自身であるわたしに好きなだけ喚いて、やがてわたしの中で膝を抱えて黙った。

 彼女と繋がって伝染してきた怒りの感情を、わたしは深呼吸して落ち着かせる。彼女もわたしの一部であり、わたしもまた彼女の一部だった。だがこのへんは、歳の甲である。


 ふう。困った悪役令嬢ね。

 サヴォイヤージュ家は代々、共産主義者のでもあるのかしら……?


「結局、種なのよ。実りの良さそうなのを選別しても、あまり効果は見られないし」


 わたしは再度、花壇のひょろ麦を見やる。

 種。もっといい種だ。知識も足りない。科学的な農業知識が必要だ。

 それは、どこへ行っても手に入らないだろう。


 本当にどうしたらいいのやら……。


「シンシア。最近あなたの気持ちが分かるの。神様なんて信じてなかったけど、あなた――わたしは、とても熱心に祈っていたわね」


 人事を尽くして天命を待つという。前世のわたしは微妙に歴女だった。

 今のこの地点は、人事を尽くした場所に他ならない。

 わたしに今以上の知識はない。ここから先は祈るぐらいしかやれる事がなかった。


 祈ってみようかしら、わたしも。――じゃあ聖ラフラティウス様に祈ればいいわ。豊穣の天使なの。

 でも、近頃はわたしが信仰を捨ててしまいそうだわ――ああそう、ラフラなんとかは知らないけど。適当でいいわね。

 祈っても何にもならないって分かっていた。シンシアでさえ、もう投げやりである。


 でも、まあ、祈ってみよう。

 わたしは跪く。心を落ち着けるためにも、気休めにもならなくても。

 お願いします。神様。


 助けて下さい――



 

 

 

「……はあ。やっぱり何にもならなかったわね」


 五分後、わたしは手を解いて目を開けた。

 ほんの小さな失望と――シンシアは割とダメージが大きかったらしいけど――同時に、少しだけすっきりしたような、一種の充足感がわたしの中にあった。

 やるだけはやった。問題は依然、解決してないけれど。


 後でまた考えよう。

 とにかく元気出しましょう、わたし(シンシア)。どんな難問だって、いつも二人で解決してきたじゃない?

 ――……――


 なんとか言ってよ。もう。

 私は立ち上がって服の埃を払った。

 さて、実験農場はともかく、他にも仕事がある。それを片づけに私は館に戻ろうとした。

 した時。



 

 花壇の横に、大きなパラソルが立っているのが、目に飛び込んできた。

 

※大躍進政策→シンシアの父がやろうとした暴挙。作物の間隔を狭めて、本来一つのみ植える所を半分の畑の面積で二つ以上植える。

二倍収穫が取れるように思えるが、当然ながら作物は栄養不足とスペース不足で全滅する。

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