30話 損耗評価
冷たい影に沈むお義父様の顔には、雪嶺のように厳格で――どこか事務的な静けさだけがあった。
「ここからは、二人とも初めてか。執務室で台帳の更新をするから、来なさい」
「はい父さん」
「――あ、わ、」
実の子供のように、お義父様の近くまで早歩きした。しかし『台帳の更新』と聞いて足を止めてしまう。
そこから先の書類仕事は、生家で女が関わることを〝穢れに触れることと同じ〟として固く禁じられていた。
呼ばれたけれど、女なんかがいては迷惑になるのでは。
「わたしは、……」
「アナスタシア、来なさい。ミーナのことも――死の詳細もお前しか知らないのだし、男爵夫人として知っておくべき大切なことだ」
「……はい。お義父様」
あまり入ることのない執務室。古くから磨かれ飴色になった執務机には、かつてお義父様が座っていた。その後旦那様が座り、今はエドワード様が座って毎日仕事に追われていらっしゃる。
今回は全員、手前の低い長テーブルとソファーが対面で置かれている応接スペースに座るよう促された。一席ごとにインクとペンが置かれていて……幼い時に姉さまと並んで、家庭教師に教養を教えてもらっていた頃を刹那的に思い出す……。
お義父様は奥の本棚から、抱えて持たなくてはいけないほど大きな黒い本と紙の束を持ってきて、最後に私たちの対面に着席された。
ふ。と鋭い息を吐いてから、顔を上げる。そのお顔からは、先ほどポーチの影から私たちを手招いた好々爺のような暖かい雰囲気はまるきり抜け落ちていた。肌の色は黒ずんで……唇も固く力が入るせいでへの字になっている――雪嶺の厳しさを写し取ったかのような顔つき。
ガタガタ、と冬の強い風が窓を揺らしている。わたしは、口内のわずかな唾液をこっそり飲み下した。
「では、始めようか。損耗評価を」
「はい」
「そっ……損耗、評価」
台帳の更新ではないの? と、後者はよそ行きの言葉だったのだと薄々分かっていながら、一度だけ頭の中に言葉を通す。
隣に座るエドワード様も初めてらしいのに、わたしと違って堂々としていた。不穏な言葉に頬を殴られたようになりながら、なんとか背筋を正し机に向かい合う。
お義父様は大きな黒い本――木で出来た表紙には『王国資産評価基準公式集』と彫られて墨が入っている――を開いて、隣に広げた白い紙に『ミーナ、ロジーとハンスの子、女児、七歳、持病、欠損無し』と書き込んでいった。
「泡吹き苺だったな?」
お茶席でのゆっくりとした口調とは少し違う、淡々とした男性の発音に緊張しつつ、あの工房での事件を思い出しながら答える。
「は、はい」
「十六年前に掃討したのだが……麓までまた生えてきたか。あれは本当にしつこいな」
「……七歳というと、もうすぐ見習いの年齢では?」
わたしよりも理解が進んでいるエドワード様が問いかけた。
何が始まろうとしているのかまだすべては分からずとも、とにかくミーナの詳細なプロフィールが必要なのだ、これがわたしの呼ばれた理由だと気が付いて、思考をさらに過去の方向へ回し始める。
「あ、は、はい。正式な弟子入りはまだでしたが、糸をつむぐことは一通りできる程度、の知識、技術があるようでした」
「文字は読めたか、書けたか?」
「っ読む、ことは、簡易公用語は読めていたと思います。書くことは、恐らくまだ、」
お見舞いとして貰った手紙に名前が連なっていた。
でも……ミーナが木炭を持って文字の練習をしている様子は見たことがないしイマイチ想像が出来ない。
あの子はそういう方向に頭を使うのではなく、もっと創作方面に目を輝かせていた……。
手の込んだ人形も、七歳でもうすでに基本的な糸車の扱いが出来ていたことも、おそらく同じ指先を動かすにしてもそっちの方が得意だったのだろう……。
お義父様がまた公式集のページをめくり、文字を指でなぞる。
そして隣の紙に一つ、二つと何やら書きこんでいく。
『ミーナ、ロジーとハンスの子、女児、七歳、持病、欠損無し、毒損耗、糸巻き技術あり(見習い)、受動的識字』
と、簡単なミーナのプロフィールが出来上がったところで、お義父様はエドワード様に見やすいように公式集をズズズ、とひっくり返した。
メモ書きのようにしていた紙も渡して、白紙の紙をまた自身の前に広げる。
エドワード様はわずかに身を乗り出してさらっと一読したあと、その本をわたしにも見えるような位置に少し滑らせてくださった。
黄ばんだ厚い紙には、王国の官僚が定めたのであろう冷酷なまでの数式と評価基準が、大きな活字で整然と並んでいる。
「ここから評価点数を拾い上げる。たとえば、文字が読めれば……ここだ。十点。糸紡ぎが出来れば三十点だが……見習いだったと仮定して、ここは半分の十五点としよう」
「――ッ゛、」
いきなり出てきた〝点数〟という概念に、頭を殴られたかのような強い衝撃を受けた。
それは、答え合わせの形をしながら、しんしんと頭の中に染み込んでいく。
損耗評価――その言葉の意味が……一番嫌な形で結び付く。
「数字を足したり引いたりしながら、決められた公式で計算することでミーナの、将来にわたって生み出したであろう価値や納税額を求める。女だから、六十まで生きると仮定して……七歳、五十三年分の損失、何点。というように」
「――こっ、こんな、これでは、」
わたしの震える声を、わたし自身どこか他人事に聞いていた。
ここだけは『夫人のわたし』が『甘ったれたわたし』を制御出来なくて。
お義父様はペンを置かず淡々と、けれど教えを授けるように口を開いた。
「アナスタシア。このエルドリアス王国という巨大な機械を動かすには、数多の歯車が必要だ。大きさも材質も、回転数も異なる歯車が、互いに噛み合って熱を分かち合うことで、この――比較的豊かで広大な土地の上に『国』を維持している」
細く節くれだった老いた指が、書き込まれた数字の上をなぞる。
「一つの歯車が欠ければ、隣り合う歯車に負荷がかかる。そしていつか、機械は故障して止まる。……だから我々は、欠けた歯車がどれほどの大きさであったかを正しく記録し、その穴をどう埋めるかを考えねばならん。それが『献身合理主義』の本質だ。個人の感情で歯車の形を歪めては、国が壊れるのだよ」
貴族なら誰もが暗唱できる、『献身合理主義』の教本そのままの言葉だった。
それなのに今、こんなに――内臓全てが叫び出しそうなほど、おぞましい。
しかし、同時に分かっていた。
その言葉はあまりにも正しく、この絶望的な冬を生き抜くための唯一の正解であることも。
「では、私が計算項目の順番をここに書き出していく。エドワードは基礎減点率、アナスタシアは技能加算点の計算をして、この紙にまとめなさい」
ミーナは、ミーナはこんな、数で測れるような子じゃなかった!!
――けれど、これがエルドリアス王国の国民、ひいては貴族としての在り方だ。
ミーナだけじゃない。
領民は皆、点数では測れない尊さを持っている。
――この仕事は、貴族である私たちにしか出来ない。きっと、生家だけではなくこの地でも〝女〟が関わる仕事ではなかったのだろう。
しかしお義父様もエドワード様も、執務室に招いてこの場に立ち会わせてくださった。その信頼を裏切るわけにはいかない。
「いいか、間違いの無いよう丁寧に計算をすること。一つの間違いがその先の式全てを狂わせる」
こんなのは死体を、魂を刻む行為だ! いやだ、もう……逃げだしてしまいたい。
――マルタさんの肩を掴んだ時から、こうなることまですべて覚悟を決めたはず。
「それに過失であれ、あるいは慈悲による手加減であれ、虚偽は王国を軽んじ――ひいては領主としての責務を放棄する、反逆も同然と心得よ」
お義父様は、エドワード様は何も思わないのだろうか? ミーナを知らないから? ロジーさんの、あの泣きはらした顔を思い出さないの。
――思い出すからこそ、次に生かさなければ。旦那様に、領民皆に顔向けできなくなってしまう。
「では、始めなさい」
「ッ、」
断頭台のような、回避不能の宣言だった。
頭の中でも心の中でも、分裂した『わたしたち』がいまだ言い争いを続けている。
エドワード様が優雅な仕草でそっとインク壺から羽ペンを抜いて、さらさらと数字を書き写していく。
わたしは……わたしも計算を。
と、ペンを取るために俯いた瞬間に涙が零れそうになって、それで初めて泣きそうだと気が付いた。
咄嗟に袖で目を押さえそうになる衝動を――今日初めて腰かけた執務室のソファーの柔らかさを感じたことで――堪え、取り出したハンカチを目元に押し当てる。
じわり、じわりと熱くなるハンカチに、そのまま熱を吸い取って。と願う。
早く泣き止まなければ。今、このお二人に失望されるわけにはいかない。
言い争いに勝ったのは、幼いわたしを殺したのは、ヴァルデリウス男爵夫人である『わたし』。
大きく息を吸いこんで、涙ごとぐっと止める。
「ッ、――失礼いたしました。技能加算点の算出、始めます」
「うむ。ゆっくりでよいから、確実にな」
「はい」
生活基盤技能は、十点中、七点。
生産寄与技能は、六十点中――見習いであったこと、特殊な飾り結びが出来たこと。それを加味してもたったの十八点。
言語・計算取得……彼女はやはり、文字を書くことが出来ず、となれば計算も出来なかったとみるべきだろう。二十五点中、三点。
項目を見て、点数を決めるたびに目にハンカチを当てながら、それでもペンは一切止めなかった。
わたしの出した数字を元にエドワード様が計算する所もあるし……計算自体は、少しだけ得意なのだ。式が見やすいように、文字の整列を意識して書き続ける。
そして、小一時間経った頃。
ようやくすべての計算が終わり、この場の全員が羽ペンを置く。
「……九百五十点。これを公式に当てはめると、彼女が一生で納めるはずだった税は、金貨でこれほどになる」
お義父様が叩き出した数字は、やはり……ミーナが昨日まで笑っていたこと、私に人形をくれたこと、その温かさを一切無視して、ただの平坦な――あまりにも冷たい事実としてそこに鎮座していた。
この地で生き続ける限り、この評価からはきっと逃れられない。
早く慣れなければ。と、愛情を感じる所と無理やり切り離して、未だ生傷の残る感情のどこかでそう思う。
「王城への報告書類はこれでよろしい。エドワード、覚えたか? 次からはお前がこの場を采配するのだぞ」
「はい、父さん」
「よろしい。では、次はスノー……泡噴き苺の掃討計画についてだ」




