28話 春待ちの眠り
どうにも勝手が分からず、苦労して薬草束を設置したあと。
寝台付近に戻ると、ミーナはすっかり『眠る姿』になっていた。
傷を隠すおしろいの白さと分厚さは、生前の彼女の健康的な肌色とは似ても似つかない、陶器のような無機質さを感じさせる。
彼女の小さな頬に詰められた綿は、マリアさんの経験を感じさせる技術できちんと整えられていた。
でも――無理やり笑っているような、あるいは何かを言いかけて止まったような奇妙な起伏を作っているようにも見えて……見ているだけで、体の芯が絞られるみたいに痛んだ。
いつの間にか三脚火皿の準備も、白湯の準備も、エドワード様のお着替えも済んでいる。
あとは……わたしは速やかかつ丁寧に、腕にかけていた雪糸のリネンを二重に折り、彼女の足元に置く。
そこから、まるで寝冷えを心配する母親のような手つきで、胸元まで布を掛ける。
そのまま首元まで整え、皺を伸ばした。そうしてリネンで覆ってしまえば、ミーナはただ、豪華なシーツに包まれて深く眠っているだけに見えた。
これが、この国における『完成』でありミーナという個人の『終わり』なのだ。
その苦しみも、わたしの後悔も、すべてはこの布の下に隠され、彼女は「王国へと還るべき、一つの清められた魂」に変わっていく。
指先はまだ冷たい感触を覚えていた。けれど背筋だけは、姉さまに教わった通りに真っ直ぐに伸ばす。ミーナの為に。
「……完了しました。エドワード様、どうぞ」
わたしは一歩下がり、エドワード様に場の中央を譲る。その声は自分でも驚くほど……まるで在庫の報告をする時のような、ひどく平坦で完璧なものだった。
「今日、われらが王国の資産――ミーナが、その機能を全うし息絶えた。本来ならば速やかに彼女を大地に還すべきであるが、この凍土はそれすら拒む。よって、これより彼女を『春待ちの眠り』へと封じ、その時を待つ。これより見送りの儀を執り行う。……火を灯せ」
控えさせていた従者たちが、玄関の両脇に据えられた三脚火皿に松脂を染み込ませた薪を置く。カチリ、と火打ち石が鳴り、小さな火種が吸い込まれるように燃え上がった。パチパチと爆ぜる音が、冷え切った玄関ホールに規則正しいリズムを刻み始める。
そして、その流れで扉が開放された。冷たい風が雪片を連れて入り、両脇の灯が大きく揺らめく。
外で待機していた村人たちが直前で雪を払い、列をなして静かに入ってくる。
彼らはまず、寝台の傍らに立つエドワード様とわたしに深く頭を下げ、それからミーナの枕元へと進んだ。
おしろいで整えられ、白いリネンに包まれたミーナを見て、息を呑む者、涙を堪えて唇を噛む者がいた。しかし、誰も泣き叫びはしない。
「……よく頑張ったな、ミーナ。安らかに眠り……そして還るんだよ。春にまた会おう」
「綺麗な顔だ。奥様、ありがとうございます」
「あの子、ずっとお屋敷のリネンに憧れていましたから、最期にその真っ白な中にいられて、きっと誇らしく思っていますよ」
「土が溶けたら、皆で一番いい場所に還してやるからね。それまで少しだけ、お屋敷のお世話になるんだよ……」
村人たちが口々に囁く。
顔を隠さず、綺麗に整えられたミーナの姿は、残酷な現実を〝受け入れ可能な儀式〟へと変えていた。
わたしは、エドワード様の半歩後ろで、ただ静かにそれを見つめていた。
生家の……たしか使用人が亡くなった時の見送りの儀よりもずいぶん質素で、厳かなもの。けれど冷たい中にもどこか固い強さを感じていた。
悲しみや辛さを、装飾や金銭で誤魔化すことなく全員がそのまま受け入れ、歯を食いしばって明日を生きていく……。
主だった村人たちの拝礼が一通り終わったところで、わたしはエドワード様に、声に乗らないほどのわずかな会釈をした。エドワード様は視線だけでそれを許し、わたしは音を立てずに彼の背後から離れる。
ホールの隅では、エルザが大きな湯釜を前に、村人たちへ白湯を注いでいた。
湯気とともに立ち上るのは、素材の匂いすらしない、ただの熱の匂い。
しかし、凍えた指先を温めるその一杯こそが、今の彼らに必要な『合理的な救い』だった。
「エルザ、わたしも手伝います」
「――奥様。ですが、これは私の仕事です。エドワード様のそばを離れては、」
エルザが驚いたように手を止める。
私は首を振り、彼女から木匙を受け取った。
「許可は頂いたわ。仕事を奪ってごめんなさい、エルザ。でも、やりたいの」
「……承知いたしました」
次の一団がホールに入ってくる。
わたしは彼ら一人ひとりと目を合わせて、失礼にならない程度に体調を伺いながら、差し出された木杯に並々と、けれど決して零さない精密さで熱い白湯を注いでいった。
「熱いうちに」
「……。ありがたき幸せ、奥様」
会話はない。
生家の見送りの儀では所々で囁かれた「お悔やみ申し上げます」も、「お疲れ様」もなかった。
ただ黙々と、必要とされる熱を、必要な者へ。
わたしは自分の指先が、あの小さな死に触れた時の凍えるような感覚から、徐々に解放されていくのを感じていた。
………
……
…
四度目の人の流れが途絶え、開け放たれていた玄関の重い扉がようやく閉じられた。晴天から一度吹雪になり、その後もずっと降っている雪のせいで分かりにくいけれど、現在は夕暮れの終わりごろだろうと思う。
外の吹雪を遮ったホールには、三脚火皿の中で爆ぜる薪の音と、疲れ切った者たちの重い吐息だけが残る。
お義父様とエドワード様は、主としての義務を果たし終えると、ロジーさんに言葉をかけてから、フーベルトを伴って早々に階上へと引き上げていった。
明日という日を正しく回すためには、支配者は適切な休息を摂らねばならない。それがこの国の、冷徹で正しい『合理』だ。
「さあ、皆さんも。少しでも食べて、温まってください」
わたしはエルザたちが用意してくれたスープと、固く焼かれたパンを皆に――ロジーさんと付き添いのマルタさん、マリアさんに促した。
マルタさんは魂が抜けたような顔でパンを握り、マリアさんはパンをスープに付けて……だけどそのまま、息を吐いて固まった。ロジーさんはただ、火を見つめて黙り込んでいる。
……急かす意味もない。今夜はじっくりと悲しみや喪失感を噛みしめ、飲み込む。一人一人のやり方で、喪失と向き合う日なのだから。
わたしは彼女らと同じ輪の中には入らず、少し離れた、火の光が階段の影と混ざり合う場所に腰を下ろした。
スープを用意する隙に自室に戻り、持ってきた刺繍の籠。その中から銀の針を取り出して、リネンの綻びを直していく。
白さとしては一級品だけれど、ミーナを包んだ時、このままでは綻びがちょうど表に出そうだったから。
布の端を補強し、解けないように丈夫に、正しく縫い留めていく。春が来るまで屋敷の安置室で眠るミーナを少しでも美しくするために……。
階段の冷たい石の感触がドレス越しに伝わってくる。針を動かしている間だけは、私の心はどこまでも静かだった。
薪が爆ぜる音に混じって、マルタさんがぽつり、ぽつりと口を開く。
包帯の巻かれた手を不自由そうに動かしながら語るそれは、ミーナがこの村に生まれたばかりの、まだ雪の深い頃の話。
「……あの時、名前がなかなか決まらなくてね。今は戦場にいるハンスと、ロジーと一緒に屋敷に行ったんだ。大旦那様のお知恵を借りに……そうしたら旦那様が――ジュリアン様も、その場にいてね……」
「――旦那様が、ですか?」
針を動かしていたわたしの手が完全に止まり、語りだしたマルタさんを見る。
手紙とはいえ想いを通じ合わせた夫の、わたしと出会う前。生きた気配があることが、当たり前なのに物珍しい気持ちになる。
「ああ。ジュリアン様は、あの子の産着をじっと見て……『ミイシャという名はどうか』と言った。雪のような、清らかな響きだからって。でも、私たちには少し立派すぎてねぇ……。結局、もうちょっと呼びやすいように『ミーナ』に落ち着いたんだけど」
マリアさんも頷いて、「そうだ、そうだった」と懐かしそうに目を細めた。
「報告に行った時もね、旦那様は『そうか、ミーナか。良い響きだ。きっと強い糸を紡ぐだろうな』って笑ってくださった……。そうだったねぇ、あの子は、旦那様から名前を頂いたようなものだったねぇ」
――視界が、急激に熱を帯びた。
だって、想像できる。小さなお包みを覗き込む影が、優しい声で提案する様子。
手紙の端々から伺える思慮深さをもってお考えになって……そして、領民がその名前を採用しなくても、笑って流し素直に祝福する。そんな穏やかなこの村の雰囲気……。
わたしは、零れそうになる涙を隠すために、さらに深く深く頭を下げた。
心臓が痛い。リアン様から名前を頂いた子を――わたしは守りきれなかった。
ミーナが生まれた時。死んだとき。
暖かに脚色された頭の中の空想と、この冷たい現実の落差に指先まで震えが走る。
同時に押し寄せる数多の感情が溢れそうになって……でも、やはり夫人のわたしが寸前のところで押さえてしまう。
わたしだって分かっている。
どれだけ情けなくても、悔しくても、今は泣く時じゃない。
静かに鼻をすすり、針を持ち直す。
ちょうどリネンの補修が終わって……わたしは次に、針に彩雲糸を通した。
――いつか、冬が明けたら。
わたしは、まだ返ってきていない手紙の返事を、心の中で綴り直していた。
旦那様。……リアン様。貴方がミーナに名前を贈った日のことを、領民から聞きました。ミイシャ。そう呼ばれるはずだったあの子は、ミーナとなってこの地を明るく照らしてくれました。けれどあの子はこの冬、王国へと還りました……。
お怒りになるだろうか。でも、そうであったらいいと強く思う。
誰もが誰も責めないこの状況は、未来に向けての綺麗な階段の形をしている気がする。
でも――ならばこの人的資源の損失はすべて〝泡噴き苺を食べたミーナのせい〟だなんて――あの小さな体に全責任がある。なんて、そんなのは余りにも惨い。
きっと根本原因はもっと深い所にあって、何か行動しないと手遅れになるかもしれない……そんな確信めいた予感があった。




