26話 泡噴き苺
「ミーナ!! しっかりしなさい、ミーナ!!」
裏手の扉を、ぶつかるようにしてこじ開ける。
最後の理性で、衝立の中の作業机へ彩雲糸を放り投げた。
足早に人だかりを掻き分ける。
泥にまみれた小さな靴。
抱きかかえられた小さな体は弓なりに反り返り、白く細かい泡が唇の端からこぼれ落ちている。
土気色の、見慣れた幼い顔――。
「ミーナ!! な、なにが、まさか」
壮絶を目の前にして咄嗟に膝を突くと、彼女のポケットが赤く湿っていた。
「泡噴き苺を食べたのですか?!」
この閉ざしの冬でも凍らず、雪の中で甘い匂いを放つ魅惑の苺。
けれどそれはどう加工しても食用にはならない。
口にして数時間後に突然の腹痛が始まり、安静に、と寝かせれば大量の泡を吹いて暴れまわる。
最後には呪われたかのように体が硬く反り返って、そして――。
「奥様、今ソフィアが塩水を取りに行ったよ。でも、……」
――その実を食べて、助かった者はいないと聞く。
そっと耳打ちをしてきたのは熟練職人のマリアさん。その続きは聞きたくない。
「ミーナ!! しっかり、気を確かに持ちなさい!」
わたしは、爪が食い込んで血の滲む小さな手を包む。
べたついた汗が玉のように浮かんでいた。
保育屋の年長者と言っても、まだこんなに小さい子供なのに。
なんて力がかかっているのだろう。
「ギ、ィィ゛……ッ゛! ン゛グ、ゥ……ッ゛!」
「――ッ゛、……みッ、ミーナッ、息をして、」
小さな拳と硬直する肩を揺すって励ますと、子供の声とは――人の声とは思えないような金属の擦れる高い音が泡まみれの口から漏れて、わたしは一瞬、恐ろしくて固まってしまう。
その息苦しいような声に、何の対処も出来ずに励まし続けることしか出来ない。
息なんて、出来るならとっくにしている。
そんなことは、わたしだって分かっているのに。
「とにかく吐かせないと!! ロジー、いいね!」
そこへ、マルタさんが割り込んできて、食いしばった歯を無理やりこじ開けた。
ミシミシと嫌な音がして白い小さな歯が転がり落ち、小さく床を打つ。
ミーナを抱いているロジーさん――母親に断りを入れた理由を即座に察して、心臓がつぶれたみたいに痛くなる。
「カハ、ッ……ガッヒッ……――ッ゛ッ゛!!」
小さな咳を繰り返すその口へ、大人の指が目一杯突き入れられた。
「――ゔゔッ」
「離すんじゃないよ、マルタ!」
眉間に皺を寄せ、呻き声を上げたのはマルタさん。噛みつかれているのだ。
あの忌々しい苺が、この命だけは絶対に離さないと抵抗を続けているかのように。
「ミーナ、お願い、ミーナぁッ!」
「吐きな、死んじまう、ッ――ぐぅッ、」
硬く反り返っていた体がガク、ガク、とした痙攣に変わりだす。
泡に血が混じり、ピンク色に染まっていく。
ロジーさんの悲痛な叫び、マルタさんの腕の筋が蠢いた。
噛まれたままでも、指先を必死に動かそうとしているのだ。
小さな唇は大きく広げられ裂けている。ガタガタと揺れていた瞳が、ぐりんと上を向いた。
「塩水持ってきた! あけて、あけて!」
人だかりを掻き分けて、桶いっぱいの塩水を持ってきたソフィアさんが滑り込んでくるけれど、その頃にはもう、ミーナの痙攣が止まりつつあった。
泡噴き苺を食べて死んだ人を見たことがある年長者から広がる、絶望の雰囲気。
冷気のようなそれが、背中にべったりと張り付いて離れない。
「ミーナッ!!」
「ダメだ、泡が止まらねぇ、もう」
「待ちな、まだ、まだッ」
「ミーナッ行かないで、お願いッ!! ミーナッ!!」
マルタさんの指が無理やり進む。
ミーナの体を壊してでも、懸命に救助を続けようとする。
その手は、ミーナの口からでた血と泡と、マルタさん自身の血で真っ赤に染まっていた。
「――ッ、」
わたしは初めて、自分の天秤に、とてつもなく重いものが載るのを感じた。
――尊厳と、命そのもの。
ここでマルタさんを止めて、ミーナの苦しみを終わらせる。
血と泡を拭いて、ロジーさんの手にしっかりと抱かせてあげる。
せめて最後の瞬間は安らかに……。
けれどそれは、ミーナの未来を諦めるということ。
それは、想像するだけで目の前が真っ暗になるような、今すぐ逃げ出したくなるような重たい決断だった。
わたしは――男爵夫人として、この子の最後の尊厳を守るべきなのか。
それとも、まだ温かいこの手を信じるべきなのか。
この判断は、わたしにしか出来ない。
でも、どれが正しいの。
――だんだん力が緩み、柔らかくなっていく小さな手を握りながら、わたしは――。
「――ッマルタさん。もう、止めてください」
彼女の肩に手を置いて、少しだけ後ろに引く。
マルタさんの体は燃え上がるように熱い。
「奥様ッ!! そりゃないよ!! リリーの子だってニコの坊やだって、吐けば何とかなったんだ、ほらミーナ、もうひと踏ん張りだ、」
彼女は必死に首を振る。
そしてまた、ボロボロの手で何とかしようと前のめりになった。
けれどわたしはもう一度、強く彼女の肩を引いて。
「いけませんッ。もう、彼女にそんな力は残っていません」
「――ッ゛けど、けど!!」
「最後は、……安らかに送ってあげましょう。貴女も、手当てを」
「――ッ゛、ッはい。奥様……」
マルタさんも分かってる。
好きで子供の歯を砕き、喉奥に指を突っ込んで唇を裂いたわけじゃない。
だから何度もわたしとミーナ、そしてロジーさんを見て――顔を顰めて、それからやっと、わたしの指示に従ってくれた。
懸命に救命をしてくれていた彼女の手をゆっくり引き抜くと――それはもう、ひどい有様だった。
何度も噛まれた歯形がくっきりと残っていて、泡と血にまみれて……ミーナの為に持ってこられたぬるま湯と清潔な布を持っている人にマルタさんを託して、わたしも湿った布を持つ。
そして力なく母親に抱かれた小さなミーナのそばに、もう一度膝を突いた。
鉄臭い匂いと甘い匂いが交じり合ったその場で、彼女の手を握る。
「ミーナ、」
息を引き取ってそんなに時間は経っていない。それなのに、その手はもう石のように冷たかった。
冬の寒さがいかに残酷か、わたしはこんなところで思い知る。




