18話 雪嶺
わずかに俯いてお義父様を見送る。
その歩みは、秋口に寝込んでいた姿とは打って変わって、しゃっきりとして軽やかだ。
やはり、気温が下がると調子が良さそう……。という温かい思いは、右手首を軽くエルザに掴まれて――少しでも血が留まり、患部が痛みの悲鳴を上げたことで中断した。
「ぁ゛……ッ」
「さぁ。大旦那様を待たせてはなりません。すぐに包帯を巻き直しますよ。ぐずぐずしてるとカップと一緒に巻きますよ」
「ぃ゛、も、今日はもう外に出ないわ。エルザ、ごめんなさい、許して」
私室まで引っ張りこまれたわたしは血の滲む包帯を解かれ、新しい包帯で手当てを受けた。
何度か謝ってもエルザは結局許してくれず……わたしが悪いと分かっていても、それでもこのメイドは主の謝罪を無視し続ける。
けれど無言のままで、怒っていても、ちゃんとお茶が飲めるように巻き直してくれた。
その気遣いに、胸の張りつめていたものが少しだけ緩む。
無様で緩く、なにからも守ってくれないわたしの巻き方と違って、しっかり何重も巻かれているからこそ、膨らんでやや大げさに見えるけれど……でも痛みも少し収まった気がして、無自覚にずっと浅かった息をはぁ。と白く零す。
そして、早歩きでお義父様のいらっしゃるテラスへ向かう――けれど、お気に入りの藤椅子に腰かけ、冬の白い陽光を浴びているお義父様の後ろ姿とその影を見た瞬間。泥の中を進むみたいに足が重くなった。
ドレスが重く、包帯で存在感の増した右手を背中に隠そうとしてしまう。
……けれども、逃げるなんて選択肢はない。
最近は忙しく、お茶席にも呼ばれていなかった。本当なら、嬉しいはずなのに。
そう思って歩みを進めるけれど、でもどうしても……後ろめたい気持ちが右手に熱となって溜まっていくようだった。
ズキ、ズキ、と痛みが再発していく。
「お待たせしました、お義父様。お招きありがとうございます」
「ああ、座りなさい……今日は空気が澄んで、雪の照り返しが眩しい……こうして日向にいると、冬であることを忘れてしまいそうだ」
お義父様は目を細め、ガラスの向こうに広がる白い世界を愛おしそうに眺めていた。
その穏やかな横顔に、わたしは唇を噛み締めることしか出来ない。
サロンと違って、お義父様のお茶席は長くない。
お喋りをしながら一杯か二杯飲んで、それで終わる。
だから、お互いのカップにはすでにカモミール茶が注がれ、美味しそうな湯気を立てていた。
いつもなら、着席してお互いに一口啜り、それから大体の場合お義父様が先に話し出す。そんな流れで始まるけれど……今日は、机の下に隠した利き手をテーブルの上に出せなかった。
エルザは包帯を上手く巻いてくれたし、ソーサーごと持てばマナーとしても通じるはず。飲めるはずなのに。
それでも――目の前の揺らめく黄金色を見つめたまま、動けない。お義父様が、そんな不自然な様子のわたしを湯気の奥から見つめているのが分かる。
だって、だってずっと――情けなくて。
上手く糸車を操れなくて、出来なくて苛立ちを募らせ怪我をして。糸も紡げなくなってしまって、いろんな人に叱られた。
ずっと、全部わたしが悪い。なんて間抜けなのだろう。
お義父様にまで、呆れられたくない。右手はずきずきと疼き、背中だけが汗で冷えていた。
どうしよう。どうしたら。
怪我が露見せずに、飲まずに――いや、もうすでにご承知のはず。
招かれたのに飲まないなんてありえない……。
「アナスタシア」
「……ッ、」
その優しい声に、けれど体が左右から圧縮されるようだった。肩が上がり、泣く寸前みたいに目が閉じる。
「あの剣を授けたのは、自分を傷つけさせるためでも、嘘をつかせるためでもない」
腕が抜け落ちるような諦めが体を支配した。ゆっくりと利き手をテーブルの上へ出しつつ、視線を上げる。
いつも優しい笑顔に溢れたそのお顔は――今はひたすらに悲しそうで……。
「ッでも、指先だけなんです。すこし出血しましたが」
慌てて口角を上げた。
何でもないように素早くカップを摘まみ、ソーサーと一緒に両手で持ち上げる。
そのまま一口。いつも通りの美味しいカモミールティー。
爽やかさの後に口に残るのは、乾いた草のような少し苦い風味。
ほら、このとおり。わたしは努めて優雅にお義父様を見る。
「も、もう痛くありません、それに、」
「もうよい。……アナスタシア。聞きなさい。」
けれど、お義父様は短くため息をついて、眉間に皺を寄せ首を振った。
そのため息と一緒に体を通り過ぎて行った絶望感に従って、わたしはゆっくりカップを降ろす。
「我がヴァルデリウス領が、戦争前から疲弊している理由が分かるか」
お義父様は、まっすぐこちらを射抜くような視線で問いかける。
十年ほど前から領地がすっかり疲弊していることは、過去の帳簿や数字を見れば薄々分かるけれど、「なぜか」なんて女が考えていいこととは思わず、思考を巡らせたこともなかった。わたしは小さく首を振る。
それを見てゆっくりと頷いたお義父様は、自身の両手の平をこちらに見せるようにして出した。
「私が、こうなったからだ」
その瞬間。手を広げて見える面積は増えたのに、お義父様がぐっと小さく、枯れ枝のようになった錯覚を起こす。
ちいさく震え、疲弊して、いまにもぽきりと折れてしまいそうな。
旦那様が当主として――今はエドワード様が代理をして、お義父様もよく口添えしてくださっているけれど。本来ならば、お義父様はまだまだヴァルデリウス領当主として現役でもおかしくない年齢だ。
思い返せはご病気とはいえ、お歳のわりに余りに擦り切れすぎていると言えるかもしれない。
「領民は――リアンとエドはまず『母』を失い、そして『父』はこのありさまだ」
そんなことは決して、と口をついて出そうになる。けれどその瞬間に火傷痕が責めるように疼いて、声が抜けてしまう。
「私は――長く、一人で足搔いたが……」
お義父様はそこで一度言葉を区切り、遠くの雪嶺を見つめた。窓の外で、屋根から雪が滑り落ちる鈍い音が響いて、それがかえってテラスの静寂を際立させる。
疲れ果てたその横顔には、諦めと、自分自身への深い失望が見えるようだった。
ふ。と目を閉じてから、お義父様は私と向き直る。
「お前は、このヴァルデリウス領で、とてもよく尽くしてくれた。その様は屋敷の皆の目にも、領民の目にも良く映っただろう」
たくさんの語彙の中で、何度も取捨選択が行われたであろう重みのある断片。わたしは思わず首を振りたくなる。
いえ、わたしなんてまだ未熟もいい所。だって、まだ何一つ守り切っていない……。
「いいかい。アナスタシア。私が言えたことではないが――お前は要となったのだ。分かるな? 皆を不安がらせてはいけない。特に今は、戦時中なのだから」
朝の陽光がお義父様の顔半分を明るく照らしている。
皺が刻まれた白皙の表情には威厳がありつつも、影となったもう半分は疲れ果てた老人の顔が浮かんでいた。その対照が、胸に重く刻まれていく。
「火傷用の軟膏薬があっただろう……私にはお見通しだ。使っていないのだろう? 使いなさい。早く治して、皆を安心させてやりなさい。それも我々、貴族の仕事のうちだ」
全てを暴くような経験者の視線に、ぴくりと肩が跳ねる。
薬を使っていないところまで、どうしてご存じなのだろう。
「それから――完治するまで、お前が雪糸生産に携わることを禁ずる」
逃れようのない宣告。
無意識に異議を唱える視線になっていたのだろう。お義父様は一度口を閉じ、けれど一切表情を変えることなく。
「どうせもうすぐ閉ざしの冬なのだ。いくら急ごうと納品出来まい、少しでいいから休みなさい。いいね」
「……はい」
……彩雲糸のことは、生産方法から契約内容まですべてお義父様に報告済であることを忘れていた。
正論を前にしては、わたしは頷くしかない。
「よろしい。では、業務連絡として、どうしてそうなったのか話しなさい。この私に隠しごとが出来るとは――」
お義父様はすっと目を細めて、北の険しさを写し取ったみたいな表情をしたあと。
打って変わって茶目っ気たっぷりに片目をつむって見せると、手つかずだったカップへようやく口を付けた。
「――思わないことだ。さあ、話なさい」
学びが多くとも厳しい言葉の後に、そんな優しい笑顔で話を促されては――結局。わたしは冬の明るいテラスのなか、カモミールの香りと共に洗いざらいお義父様に話してしまうのだった。




