1話 結婚式
エルドリアス王国は、大陸の南北にかけて広がる、豊かで美しい国だ。
北の山脈、東の深い森林地帯という天然の要塞に囲まれて。
王国を貫くように横たわる運河のそばには絢爛な王都と、失われた魔法を追う学術都市がある。
西の広大な穀倉地帯を横目に川を下れば、やがて海へとたどり着くだろう。
その港町はいつでも交易品と喧騒を湛え、波打ち際には太陽のような活気が溢れていた。
そんな港の喧騒も、小麦の大海も、王都の宝石箱のような輝きも届かないほどはるか北方に、ヴァルデリウス男爵領はあった。
天然の要塞、北山脈のお膝元。山と山の隙間に、わずかに開けた平地と小さな村が一つ。
建国以来この地を守るヴァルデリウス家は、ずっとずっと、白ばかりの世界で堅実に暮らしている。
そんな何もない歴史ばかりが雪と一緒に降り積もり、煌びやかさとは程遠い要塞のような屋敷の中では、現在。
厳かすぎる結婚式が執り行われていた。
………
……
…
結婚式の日のことを、わたしはほとんど覚えていない――いや、正確には、思い出すのも恥ずかしくて、必死に忘れようとしていた。
社交的な場からとことん逃げてきた弊害だろうと思う。
一歩、一歩。糸につられた人形のように、ぎこちなく重いドレスを引きずって歩く。
習った通りに。ここでお辞儀。まっすぐ前を見て。
「王国の光に照らされ、アナスタシア・ノイヴァルトを我が妻として迎え入れます。我が生涯をかけて、彼女を愛し守り、この結婚がもたらすすべての責務を、家長として、忠実に果たし続ける事を誓います」
今日初めて会って、まだ碌に顔も確認できていない旦那様の声。
その宣誓が終われば、次はわたしの番。
失敗は許されない。息を吸って、そして。
「……ぉ、王国の光に照らされ、我が身のすべてをこのジュリアン・ヴァルデリウス様に……へ、捧げます。……この結婚がもたらす全ての責務を、精一杯、全うすることを誓います」
コルセットに負けないように一生懸命吸い込んだ息は、肺の中で石になってしまったようだった。
冷え切った唇のせいで少し噛んだし、目の前が真っ白になるほど焦っていたせいで文言も飛ばしてしまう。
ミスした焦りと緊張で、冷たい汗が滲む。
それでも、絶望している暇はない。示された場所にサインするべく、震える指で羽ペンを受け取った。
ジュリアン・ヴァルデリウス
男性らしい、自信に満ち溢れた大きな曲線でつづられたその名前の下へ。
公式な書類の、分厚い紙質。これ以上震えないように慎重に、わたしは新しい名前を書いた。
アナスタシア・ヴァルデリウス
優しく社交にも長けた姉さまと違い、わたしは令嬢たちの扇子の陰のヒソヒソ声に勝手に怯え、勝手に傷ついて逃げ出すような出来損ない。
決して、虐げられていたわけではなのに。
お父様もお母様も、私には優しすぎるほど優しかった。
社交へ出られない代わりに、せめて家計の足しになればと部屋で手芸ばかりしているわたしを、生暖かく見守ってくださった。
十八歳でこの縁談が決まったとき、ようやくわたしも役に立てるのだと思った。
この婚姻は、万年貧乏男爵家同士が、隣り合った領地の〝現状維持〟を目的として結ばれたもの。
北山脈より襲い来る山賊と獣の脅威から境界線を守るための、現実的な結婚だった。
だから、そこに愛を求めるなんて贅沢な発想は浮かばない。
与えられた水槽の中で、ただ命じられた義務と責任を――出来るだけ、精一杯。失敗せずに全うしよう。
そう、重いドレスの底でため息一つ、覚悟を決めるだけ。
けれど――やはり、今日初めて会った旦那様の前で、胸を張って喋ることさえできなくなっている自分が、情けなくて、恥ずかしくて堪らなかった……。
その日の夜。わたしは旦那様の手によってはじめてを散らして、教本で覚えた通り全てを完遂することが出来たけれど、結局緊張でほとんど何も覚えていなかった。
痛みも衝撃も、ぬくもりや不快感さえなく……。
隣で眠る旦那様――生まれて初めて見た男性の筋肉質で広い背中をぼんやり眺めながら……失敗が許されなかった一日がなんとか終わった。と安堵するばかりだった……。
それが、わたしたちの結婚生活の始まり。
愛もコミュニケーションもなく、ただ責任と重圧だけがしっかりと影を纏ってすぐ近くに在るような、そんな日々が音もなくひっそりと幕を開けた。
けれど、それから二か月経っても、わたしたちの間に笑顔はなかった。
「アナスタシア」
「はい、旦那様」
「なにか、不自由していることは無いか」
「大丈夫です。何も問題ありませんわ」
「そうか。では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」
そんな会話を毎日のように交わした。
低い声に棘はなく。嫌われているわけではない。
けれど、それ以上でもなかった。
自分から話しかける勇気はどうしても出せない。
失礼をして、せっかく与えられた居場所まで失ってしまうことの方が怖かったから。
………
……
…
結婚式から半年後。
東南方面の隣国、真洋皇国から宣戦布告されたわが国の知らせに、徴兵令が出る前からあっさりと「私が征く」と出兵するつもりの旦那様に、判断が早すぎるのでは? 当主自ら? とわたしは驚いていた。
けれど、先代であるお義父様が許可を出し、当主代理に弟のエドワード様が据えられ、粛々と出兵準備が整っていくのを眺めていれば、心配よりも「やはり貴族だし仕方がないのかも」と軽く考えるようになっていく。
そうしてとある秋晴れの朝。わたしは戦地へ行く旦那様に「ご武運を」なんて言っていつもと変わらない顔でお見送りし、その姿が見えなくなるまで屋敷の玄関に――ただ、立っていた。
けれど、その見送りから二週間後のこと。
メイドのエルザがわたし宛の手紙を持ってきて、さらにそれが戦地に到着した旦那様からだと知らされたとき――わたしは心底びっくりした。
だって結婚初日も、それからの半年間も、薄墨を溶いたみたいな日常だったから。
わが妻
アナスタシア・ヴァルデリウスへ
大きな曲線が目立つ字体で綴られた、まだ見慣れないわたしの名前。
ああ、わたしは男爵夫人になったのだと、そんな当たり前のことを今さら実感した。
貴族ならば、戦地から妻に領地の状況確認のために手紙の一つや二つ送るのは当たり前のこと。
エルザが一緒に持ってきたペーパーナイフを握り締め、ほんの少し煙臭いような気がする紙を開く。
カクヨムにて連載していたものを整理し、加筆修正しています。
大きな流れや物語の結末は変わりません。
最後まで楽しんでいただけましたら幸いです。




