ラブラブレター
突然だけど、恋したことはあるかしら。
青春の甘酸っぱい恋から、大学生の遊びのような恋、そして日に日にタイムリミットが近づいてくる何かから必死に逃げるための恋まで。形は違えど、人が恋をする理由というのは、つまるところひとつだ。
誰かに、届きたいのだ。
そこで必ず出てくるのが、ラブレターだった。
愛する人へ、愛してほしい人へ、口では絶対に言えない気持ちを文字に変えて、プレッシャーに打ち勝ち、震える手で渡すもの。直接渡すなんて無理という人は友達づてに頼んだりする。結果がどうなるかは、神様しか知らない。
私は——ラブレターばかり書いていた。
ちょっといいなと思う人がいれば書いた。テレビに映る人に恋して書いた。YouTubeで推しができれば妄想を文字に変えた。数えたことはないけれど、おそらく百通は下らないだろう。
一通も、渡さなかったけれど。
社会人になって、それなりに年を重ねた私は、一生ともにいる人はできないだろうと静かに確信しながら日々をやり過ごしていた。次に生まれ変わるなら、王子様に会いたいと——月を見上げながら、半ば冗談のように願って。
それから十五年後。
私は伯爵家の令嬢として、学校に通っている。
体が小さくなっていた。
それが最初の認識だった。
見慣れない天井、知らない匂い、赤ん坊の手——そう、赤ん坊の手をした自分の指先を眺めながら、私は長い長い沈黙の後にようやく理解した。
ああ。願いが叶ったのか。
その瞬間の雄叫びは、後に「生まれた時から元気すぎる」という評判をもたらし、メイドを増員させるという形で私の人生の最初の失敗として刻まれることになる。一生の不覚、とは正にこのことだった。
成長するにつれて、輪郭が掴めてきた。
ここは異世界だ。魔法がある。貴族がいる。王家がある。父と母は私を溺愛しており、一つ下の弟は無邪気で優しく、誰からも愛される子だった。
前世の記憶があることで、私はあらゆることを素早く習得した。言葉、礼儀、算術、歴史。教師たちは私を「天才」と呼んだが、それは少し違う。ただ、一度学んだことだから、というだけだ。
でも、そんな小さな誤魔化しなんてどうでもよかった。
十五の年の春。
陛下が、我が伯爵家においでになった。
応接間の重厚な扉が開いた瞬間から、空気の質が変わった。
父と母が、これほど丁寧に話す姿を私は見たことがなかった。第二王子派閥に属するわが家にとって、第一王子——つまり王太子殿下のご来訪というのは、政治的にも心理的にも複雑な意味を持つ。
私は弟と並んで廊下に立っていた。
そして——。
扉の隙間から見えたのだ。
彼が。
背筋が美しかった。それが最初の印象だった。生まれながらにそこに線が引かれているような、揺るぎない垂直。なのに、笑うときだけ、その完璧な姿勢が少年のように崩れた。頬に小さな笑窪が生まれて、目が細くなって、 子どものように屈託がない。
ああ。この人だ。
胸の奥で、何かが静かに燃え上がった。
前世で百通のラブレターを書いても届けられなかったあの感覚が、十五年の眠りから目を覚ましたような気がした。
「リゼル、アルフレート様にご挨拶しなさい」
母の声で現実に引き戻され、私はかろうじて表情を保った。
顔に、力を込めた。
「初めまして、陛下。アルフレート様。私は伯爵家長女、リゼルと申します」
お辞儀をする。膝が震えていないか確認する。震えていなかった。よかった。
「初めまして、リゼル嬢。噂通り、聡明そうな方ですね」
その声が——耳に触れた瞬間、心臓が一拍だけ、大きく跳ねた。
弟はぎこちなく礼をして、それを陛下とアルフレート様が笑い飛ばしてくださった。その笑い方が意地悪でも上から目線でもなく、ただただ温かかったから、私の胸の炎はさらに高くなった。
権力を持ちながら、優しい。
こんな人が、いるのか。
いや、いた。ここに、いた。
学園に入学した日から、私には二つの目的があった。
一つは学業。これは余裕だった。前世の知識があるのだから。
もう一つが——アルフレート様を落とすこと。
正直に言えば、伯爵では格が足りない。それは分かっている。貴族社会の序列というのは残酷なほど明確で、公爵家や侯爵家の令嬢たちとの差は埋めがたい。
でも。
あきらめたくない。
それだけだった。ただ、それだけ。
入学してまず私がしたことは——アルフレート様応援会の設立だった。
前世の「推し活」文化から着想を得た、これは情報収集の機構である。会長である私のもとには自然と情報が集まり、アルフレート様が今日どこで何をされているか、誰と話されたか、何を召し上がったか——それらが静かに、しかし確実に届くようになった。
これを策謀と呼ぶ者もいるだろう。
でも私は呼ばない。
これは愛だ。観察することも、知ることも、理解しようとすることも——全部、愛の形だ。
ある日、弟が帰宅した。
「ただいまぁ」
疲れた顔で玄関に現れた弟に、私は何気ないふりをして近づいた。声が若干、食い気味になったのは認める。
「ねぇ、あんた——アルフレート様と近しい人と、知り合いじゃないわよね」
弟は首を傾げた。
「近しい人は知らないよ」
そうか、と肩を落とした、その瞬間。
「でも、アルフレート様は遊んでくださるよ」
時が、止まった。
「——なん、ですって」
私の声は、もはや令嬢のそれではなかった。椅子から跳ね上がったと言っても過言ではない、というより実際に跳ね上がった。
「え、なんで——どういうこと——あんたが——なんで——」
「前に会ったときあったじゃん。あれ以降、たまに王城に呼ばれて一緒に遊んでるんだよ。アルフレート様、いい方だよね〜」
弟は無邪気に笑った。
天啓か。これは天啓なのか。運命か。神の戯れか。
でも——待て。
弟経由で手紙を渡すのは、違う。
あの人に直接届けたいから始まった気持ちを、弟任せにしては意味がない。ただ、弟から話を聞くことには価値がある。彼の好きな色、好きな花、嫌いな食べ物、笑うときの癖、疲れたときの仕草——全部、知りたかった。
その夜の尋問は、凄まじいものになった。
弟は三度逃げようとして、三度捕まった。
「姉ちゃんうるさい!夕食まで休ませてぇ!!」
「あと五問だけ。ねぇ、アルフレート様、甘いものはお好き?」
「好きみたいだよ!!もう許してくれ!!」
収穫は豊かだった。
甘いお菓子が好き。疲れた時は花の香りで落ち着くタイプ。からかわれると頬が少し膨らむらしい。
かわいい——。
この人を好きになったことに、一点の後悔もなかった。
貴族社会は、ゲームだ。
正確には、何重にも重なったゲームが同時進行している場所だ。前世のSNSに似ていると言えばいいだろうか。誰もが誰かを繋がりとして持ち、その繋がりの濃度と質が、その人の立場を決める。
縁が、すべてだった。
私はその縁を、一本一本、丁寧に結んでいった。
昼休みの会話、講堂の帰り道、園芸の時間、お茶会——あらゆる場面で笑顔を絶やさず、聞き役に徹し、ときどき自分の話もする。相手の言葉の奥に何があるかを読みながら、でも読んでいることを悟らせない。
特に力を入れたのは、文通だった。
「今日のお茶会、楽しかったですね」
「今度みんなで花冠を作ってみませんか」
「もしよければ、あなたの好きな詩を教えてください」
男子でも女子でも、同じように。
そのうちに私の周りにはいつも人が集まるようになっていた。派閥への帰属を変えることへの不安を抱えている者、恋の悩みを誰かに聞いてほしい者、ただ話したい者——来る者を拒まず、去る者を追わず。
女子からはラブレターの相談に乗ることもあった。
相手がアルフレート様でない限りは、という但し書き付きで(これは重要だった)。
手紙は心だ。心を込める方法を教えることに、なんの躊躇もなかった。
そうして数週間。
気づけば私は、同学年のアルフレート派の中心と呼ばれる立場になっていた。
「あなたが、あなたの学年でアルフレート様派閥のまとめ役ね」
放課後の中庭。白いバラが風に揺れる。
声をかけてきた少女は、まっすぐな背筋と洗練された仕草を持っていた。人を射抜くような青い瞳は、感情を読ませない。ジュリー・フォン・ラングシェル侯爵令嬢——歴代王妃を数人輩出した由緒ある家系の、誇り高い令嬢だった。
「私は伯爵家のリゼルです。もともと第二王子派閥でしたが、アルフレート様のお優しさにふれて移らせていただきました」
ジュリーの眉が、ほんのわずかに動いた。驚きではなく——確認の動作。知ってるわ、という。
私は続けた。
「ジュリー様。失礼ですが、あなたは侯爵家のドリー様のことがお好きだとか。私でよければ、お手伝いいたします」
空気が、止まった。
ジュリーのまつげが、かすかに震えた。
その反応だけで、すべてが分かった。噂は本当だった。ドリー・フォン・エーデル——アルフレート様の古い友人で、端正な顔立ちと穏やかな笑顔を持つ少年。彼に、この誇り高い令嬢が恋をしている。
恋の弱点は、身分でも誇りでもない。心そのものだ。
「……あなたに、できると?」
さっきまでの涼しい表情は、どこかに消えていた。
「はい。これまでに何人もの恋文をお手伝いし、成就させたことがあります」
私は迷わなかった。
「恋は押すだけでは実りません。相手の気持ちを知ること、立場を尊重すること、そして届く言葉にすること——それが大切です」
沈黙。
「……あなた、自分の立場、わかって言っているの?」
「もちろんですわ」
私は笑った。控えめに。でも逃げずに。
ジュリーは長い息を吐いた。そしてーー
「どうして、私を助けるの?」
その問いに、私は迷わず答えた。
「私は、アルフレート様をお慕いしています。だから、取り巻き同士で争う気はありません。むしろ、支え合うほうが良いと思うのです」
これは計算でもあり、真心でもある。
「もしジュリー様の恋が実れば——あなたは私の味方でいてくださいますか?」
沈黙が、長く伸びた。
そして——ジュリーは笑った。敵ではなく、同志のものとして。
「——面白いわね。いいわ。協力して」
恋文を書くことは、その人を知ることから始まる。
私とジュリーはアルフレート応援会の情報網を最大限に活用しながら、ドリー・フォン・エーデルという少年の輪郭を丁寧に描いていった。
好きな本のジャンル。誰かを笑わせる時の間の取り方。緊張した時だけ人差し指で眉を掻く癖。夕暮れ時に中庭を一人で歩く習慣。
知れば知るほど、言葉は具体的になる。
「一般的な褒め言葉は要りません」と私はジュリーに言った。
「あなただけが気づいていることを、書くのです」
ジュリーは最初、戸惑った。
侯爵令嬢として磨かれた語彙で書こうとすると、文章が硬直した。格調高いが、冷たかった。
「もっと、素直に」
「素直というのが、分からないの」
「では、今この瞬間、ドリー様のことを考えて、最初に浮かんだ言葉は何ですか」
ジュリーは少し沈黙して、それからぽつりと言った。
「——穏やかな人、と思ったわ。嵐みたいな場所でも、彼の隣だけ静かな気がして」
「それを、書きましょう」
それが、あなたにしか書けない言葉だから。
手紙は一週間かけて完成した。
洗練されていながら、どこか温かさを持った文章。ジュリーの誇り高さと、その奥に隠れた柔らかさが、ちょうどよい均衡で表れていた。
「ありがとう、リゼル。あなたのおかげで——ドリーのことが、もっと好きになった」
「まだ早いですよ。明日こそが本番です」
翌日の昼休み。
中庭に面した石造りの回廊で、ジュリーは手紙を胸元に抱いて立っていた。
「手が、震えるの」
「当然ですわ。恋文とは、心そのものですから」
私はそっと手を取り、包んだ。
「ですが——怖がる必要はありません。あなたはすでに相手を想い、相手を大切にしようとしている。その手紙は、押しつけではなく、確かに届く言葉です」
ジュリーは大きく息を吸った。
「いってくる」
白いドレスの裾が、春風に揺れながら遠ざかっていく。
石畳を駆ける足音。ドリーが振り返る。ジュリーが一歩踏み出す。
声は聞こえない。
でも、二人の間に流れる空気が変わったのは、ここからでも分かった。
しばらくして、ジュリーは戻ってきた。
頬を赤くして、目を潤ませて。
「——受け取って、くれたわ」
その一言を聞いた瞬間、私は静かに息を吐いた。
「おめでとうございます、ジュリー様」
「リゼル——あなた、本当に——ありがとう」
ジュリーは私を抱きしめた。侯爵令嬢としての体裁も、誇りも、すべてを脱ぎ捨てて。
その瞬間、私たちは派閥ではなく、仲間になった。
ジュリーが去った後、私はひとり、白いバラの前に立った。
風が花弁を揺らした。まるで笑っているみたいに。
「次は——わたしの番ですわね」
胸に灯る小さな炎を、そっと抱きしめた。
取り巻きになると決めてから、もう半年が経っていた。
長かった。でも、あっという間だった。文通会を開き、派閥の橋をかけ、ジュリーの恋を成就させ、信頼を積み重ね——そして今。
「あの、アルフレート様。昔、一度だけお会いしたリゼルでございます」
緊張で声が上ずったかもしれない。それでもアルフレート様は柔らかく笑ってくださった。
「うん、よく知っているよ。そして、僕の側についてくれてありがとう」
鼻血が出るかと思った。
光が降り注ぐような微笑。凛として気品があるのに、あたたかさを感じる声。
やっぱり好きだ。この人を好きになったことは、間違いなんかじゃなかった。
「アルフレート様、リゼルは学年をまとめていて、すごいんです」とジュリーが言った。
「ああ、聞いているよ。よく、やった」
その一言で、半年の努力が救われた気がした。
褒められたかったわけじゃない。
でも、認めてもらいたかった。
それだけで、十分だった。いや、十分以上だった。
卒業舞踏会まで、あと一ヶ月。
アルフレート様は私より一年早く卒業する。卒業する上級生が誰かと踊る——それは貴族にとって「特別」を意味する儀式だった。その相手が、まだ決まっていない。
つまり。
今しかない。
私は手紙を書き始めた。
前世で書いてきた百通の経験が、今この瞬間のためにあったのだと思った。ただ、これまでと違うことが一つある。
渡す。
今度こそ、渡す。
準備の日々が始まった。
手紙の文面を書き直すこと、十九回。踊りの練習を母にしごかれること、毎晩。
「リゼル。背筋が落ちてるわよ」
「もっと優雅に。そう——誰よりも、誇り高く」
踊りは貴族の言葉だと、母は言う。愛を告げる前に、姿勢で語らねばならない。
分かってる、お母様。だから練習してる。この一曲のために、全部かけてる。
そして——運命の放課後が来た。
私は手紙を胸元に抱えて、回廊に立っていた。緊張で息が浅くなる。でも、逃げない。
「大丈夫。あなたはここまで自分で来たのよ。怖れることなんてないわ」
ジュリーが横に立って、静かに言った。
「ありがとうございます、ジュリー様」
風が巻いて、ドレスの裾が揺れた。
校舎の角を曲がって、アルフレート様が歩いてくる。今だ。一歩踏み出したその瞬間——
「リゼルさん? 少し、お話よろしいかしら」
影が、前に立ちふさがった。
淡い金髪。翳るような微笑。
ユリア・フォン・ラグレン。
アルフレート様と幼い頃から共に育った令嬢。政治的には、婚約候補と呼ばれても不思議のない立場。
来た。やはり来た。
ジュリーが眉をひそめる。でも私は、逃げなかった。
「はい。お話いたします」
二人で中庭の奥へ歩いた。バラの垣根の影——ここなら声は届かない。
ユリアは振り返ると、まっすぐ私を見た。
「アルフレート様にお手紙を渡されるのでしょう?」
心臓が跳ねた。なぜ、分かったのだろう。
「隠さなくて大丈夫よ。ずっと、あなたを見ていたから」
「あの——ユリア様は、アルフレート様の——」
「婚約者候補か、という話でしょう?」
ユリアはくす、と笑った。
「ええ、確かに政治的にはそう。でも私は、アルフレート様を、恋の意味で好きになったことは一度もないの」
その一言が、張りつめていた空気を解いた。
「私が望むのは、アルフレート様が自由に選べる未来よ。でも、周りはいつだって、王子の心より国を優先するわ」
ユリアの指先が、胸元に触れた。
「だからね、リゼル様——あなたのように、自分で走って、自分で選んで、自分で掴みに来る人を私は応援したいの」
「え——」
「ただし」
背筋が伸びた。
「あなたの本気を、私が見極めるわ」
「本気です。ずっと、ずっと——前の世界から、ずっと」
あ、と思った。前の世界、という言葉が出てしまった。でも——ユリアは不思議そうにしながらも、それ以上は問わなかった。
「では、示しなさい。舞踏会で隣に立つのにふさわしい姿で」
そう言うとユリアは、小さな銀の封蝋を手渡した。
「これは、王子に手紙を確実に渡せる合図。あなたが渡す時、これを見せなさい。取り巻きたちは止めない」
「どうして——ここまで——」
「簡単よ。あなたは、私の好きな誠実な恋をしているもの」
その言葉は、涙が出そうになるほど温かかった。
「さあ、リゼルさん。行きなさい」
背を押す手は、強く、優しかった。
「ありがとうございます、ユリア様。必ず、伝えます」
「ええ。あなたならできるわ」
バラの影から差し込んだ光が、私の道を照らしたような気がした。
アルフレート様が、校舎の角を曲がって戻ってくる。
今だ。
取り巻きたちが、銀の封蝋を認識して、静かに道を開いた。
私は一歩踏み出した。二歩。三歩。
足が震えているのか、震えていないのか、もう分からない。ただ、前を見ている。彼の顔だけを見ている。
アルフレート様が気づいた。視線が合った。
「アルフレート様」
私の声は——意外なことに、震えていなかった。
「お手紙をお受け取りいただけますか」
沈黙は、一秒にも満たなかった。
アルフレート様はゆっくりと息を吸い、微笑んだ。
「もちろん。ありがとう——リゼル」
名前を、呼ばれた。
肩が小さく震えた。隠せなかった。でも、もう隠さなくていいと思った。
封筒が、彼の手に渡った。
半年かけて書いた、たった一通の手紙。
(その手紙には、こう書いてあった)
アルフレート様
突然のお手紙をお許しください。
私は伯爵家のリゼルと申します。あなたと初めてお会いしたのは、私が十五の年の春のことでした。あの日からずっと、あなたのことを見ていました。
あなたの背筋の美しさ。笑うときだけ崩れる子どものような表情。誰かの弱さに気づいた時、そっと場の空気を変えるあなたの優しさ。
私は多くのことを計算してここまで来ました。でも、あなたへの気持ちだけは、一度も計算したことがありません。
舞踏会で——一曲だけ、踊っていただけますか。
もしご迷惑でなければ。
リゼル・フォン・エストレア
卒業舞踏会の夜、学院の大広間は光で満たされていた。
シャンデリアの下で、笑い声が弾けて、音楽が流れて、ドレスが舞う。最後の夜を惜しむように、誰もが輝いて見えた。
私はアルフレート様から返事を受け取っていた。
一言だけ書いてあった。
喜んで。
音楽が、始まった。
アルフレート様が私の前に立ち、手を差し伸べた。その顔に、いつもの凛とした気品があって、そしてあの子どものような笑窪があった。
「リゼル。踊れますか」
「はい。半年間、毎晩練習いたしました」
正直に言うと、アルフレート様は少し驚いた顔をして——それから声を立てて笑った。
ああ。この人の笑う声が好きだ。
手を取った。
体が、音楽に乗った。
背筋を伸ばす。母の声が耳に残っている。誰よりも誇り高く。でも今はそれよりも、ただただ、この瞬間を感じていたかった。
「あなたが手紙をくれた時——驚きましたか、とよく聞かれるでしょうが」
アルフレート様は静かに言った。
「僕は、驚かなかったのですよ」
「え?」
「ずっと、あなたを見ていましたから」
——世界が、止まった。
「弟君から聞いていました。入学式の日も、派閥を渡る時も、ジュリー嬢を助けた時も——あなたはいつも、自分で選んで、自分で動いていた」
「それは——」
「リゼル」
名前を呼ぶ声が、こんなに温かくて良いのだろうか。
「あなたの手紙の言葉は、全部、本当のことだと思いました」
あの手紙の言葉が——届いていた。
全部、届いていた。
涙が出そうになるのを、こらえた。いや、こらえなかった。一粒だけ落ちて、アルフレート様がそれに気づいて、少し困った顔をした。
「泣かせるつもりはなかったのですが」
「違います——嬉しいんです——」
「分かっています」
音楽の中で、二人は踊り続けた。
まだ少し寒い春の夜に、暖かさが灯るように。前世からずっと届かなかった言葉が、今この瞬間ようやく、誰かの手に届いたように。
窓の外で、白いバラが風に揺れていた。まるで笑っているみたいに。
ラブレターは、三度生まれる。
書かれた時。渡された時。そして——読まれた時。
私は今夜、初めてその三度目を知った。




