20話:一歩進んで
「おや、レリア?そんなに慌てて何処に行くんだい?」
「彼のとこ!」
擦れ違いざまに気さくに手を挙げて声をかけてくれたWGSF専属の異種族の研究者のひとりに声高に返事をすれば、なんだ彼氏かー?なんて問いが背中を追い掛けるように聞こえてくる。
そんなわけないじゃないか、という意味を込めて研究員に紙袋を抱えていない方の手をぶんぶんと振って別れを告げてから、焦る気持ちの赴くまま、駆け足で地下室に向かった。
自分の足音が反響する地下の廊下を駆け抜けて、ここ何日かで見慣れた鉄製の黒々としたドアの前に辿り着く。
荒れた息を整えるためにひとつ小さな深呼吸をしてから、取っ手を掴んだ。
「こんにちはー…」
見るからに重そうで、実際にやたら重厚なドアを身体全体で押して開けながら昼の挨拶と共に室内に足を踏み入れれば、すぐにきらりと輝く月の瞳と目が合う。
僅かに開いたドアの隙間から身体を滑り込ませるようにして部屋に完全に入り込めば、彼は優雅に寛いでいた体勢から長い首を持ち上げて、私の方に意識を向けてくれた。
「昨日ぶりだね。元気だった?」
笑いながら近付いて行くと、天井を突かんばかりの高い位置にあった頭部が下がってくる。
その動作に私のことを考えてちゃんと合わせてくれてるんだなー、なんて嬉しくなって、腕に抱えていた紙袋の中身を目の前まで下がってきた彼の鼻先に向けた。
「みかん持って来たよ。食べる?」
鼻に突き付けられた蜜柑の匂いと私の言葉を受けて、彼が喉の奥でぐるぐると返事をする。
そんな些細な気持ちのキャッチボールになんだか嬉しさが込み上げてきて、小さく身震いをした。
すごい、ほんとに意志の疎通が出来てる…!
会話が半ば成り立つようになったのは三日ほど前のことからだけど、やはり何度経験しても嬉しくて幸せだ。きっと今の私は相当だらしない顔をしているに違いない。
頬を緩める私を不思議そうに見詰めてくる彼にもう一度だけ笑い返して、早くと催促するように大口を開けた竜の咥内に纏めて五つの蜜柑を皮付きのまま放り込んだ。
「美味しい?」
さして咀嚼する動作も見せずにすぐさま口の中を見せてくる彼に問えば、返事のつもりなのか更なる催促なのか、突風のような鼻息が返ってくる。
唐突に訪れたビル風のような強風に煽られて慌てる私に、彼の瞳が優しく揺れた気がした。
*****
「もー可愛くって!!」
「よかったね、レリアちゃん」
悶える私に優しげに笑うロヴィーナさんに、はい!と思い切り元気な返事をすると、彼女は更に笑みを深めてよかったね、と繰り返した。
リチャードさんのスパルタ作戦の甲斐あってか、あの日以降、私と彼の仲は急速に縮まった。鼻先に勢いよくばちん!と張り手をかました私を食い殺すことも、ましてや威嚇することすらもせずに彼は私の緊張で汗だくな手のひらを受け入れてくれたのだ。
それから五日間、毎日のように欠かさず地下室に通い続けた結果、彼の好物を探り当て簡単な意志の疎通くらいなら出来るようになった。
今や、麗麗と輝く瞳に見詰められれば湧き上がるのは恐怖ではなく少しでも彼のことを理解したいという気持ちで、また彼が猫の如く喉を鳴らせば、脳裏を占めるのは不安ではなく自分になにかを伝えようとしている事実に歓喜の気持ち一色である。
我ながらやはり単純なのだと失笑も否めないが、それよりも彼に少しでも近付けたことが嬉しくて仕様がない。
今日も蜜柑を掃除機のように丸飲みしては大口を開けて次を促してくる姿を思い出して、知らずに頬が緩む。
サイズはまったく比べ物にならないし種族も全然違うのだが、何処となく大型犬に懐かれた気分になって、時間さえあればまた後で地下室に立ち寄ろうと考えた。
「あんなに可愛いものだとは思わなかったなー」
楽しげに呟く私の独り言に、ロヴィーナさんが手元にあったスポーツドリンクを私に勧めてくれながらでもね、と苦笑した。
「彼はレリアちゃんが《干渉》した相手だからこそ、だよ」
「…ですよねえ」
ありがたくドリンクを受け取り、その言葉に染々と頷く。
今の今までと言ったら大袈裟だが、それでもそう言いたくなるくらい長い間、私は彼にコネクションをした、という事実をあまり信用していなかった。
はじめて二ロバニアさんと出会った時にも、ライダーになれるのだという台詞の前に頂いた言葉だった上に、彼と再び相対した時も告げてくる本能のような部分でコネクションをしたのかもしれない、という感情があったにも関わらず、こうして彼と触れあえるようになるまでは今一釈然としない気持ちがあったのだ。
《干渉》?そんな大それたことを学院で落ちこぼれと名高い私が出来るわけないじゃないか、と、そんなマイナスな気持ちが付き纏っていた。
とにかくきっとなにかの間違いだという思いが心を巡って否定する、そんな感情は、けれど幸か不幸か奇跡的に彼と通じ合えたことで覆された。
今になってなら、…些か恥かしい思いが先行してしまうが、はっきり言える。
――私はあの時、無意識だったけれど彼に《干渉》をしたのだと。
彼の瞳に時折垣間見える、こちらを探る気配がそれを更に裏付けている。
だからロヴィーナさんの言う台詞は最もで、例えば私が彼に《干渉》をしないまま再会したとしたら、今の関係は絶対、限りなくゼロに近く有り得なかっただろう。
野生の異種族は、私の相棒とは違う。ましてやライダーどころか《支配者》ですらない私がフリークに近付こうものなら、なにがあるかわかったものではない、とロヴィーナさんは惚気る私を心配してくれたのだろう。
感謝の気持ちを込めて、ロヴィーナさんに笑って見せる。
「大丈夫です。ちゃんとその辺りは心得てますから」
「うん。平気だとは思ってるけど、まあ念のためね注意はしといてね。…で、レリアちゃん、この後の予定は?」
「予定ですか?えーと…、確かトレーニングしに行くくらいで特に特別な用事はなかったと思います。だからまたあの子と所にでも行こうかなって、考えてたんですけど…。なにかあるんですか?」
聞かれた問いに答えながら首を傾げる。
頭の中で自分のスケジュールとWGSFの行事関係の日程を照らし合わせてみるが、今日は特になにもないはずである。
なんだろう、と瞬きを繰り返せば、ロヴィーナさんはふふ、と楽しそうに笑った。
「あのね、僕今日は午後から暇なんだ。だから、もしレリアちゃんが良ければせっかく彼ともお近付きになれたわけだし、騎乗練習してみない?」
「……へ?」