薔薇の香り
――ここでの暮らしで一番辛いことは?
そう聞かれて、真っ先に思い浮かべるのは風呂である。
このストーンハーストでは、蒸し風呂や沐浴はあるものの、日本の風呂のようにがっつり湯船をはって毎日肩まで浸かるという習慣がない。想像すると、余計に入りたくなる。
「ああ、日本の風呂が懐かしい……」
「えっと、アンディ様……?」
食事の片付けをしていたアマルは、俺の呟きにきょとんと瞳を瞬かせた。ブーツを脱ぎ、だらしなくベット上にあぐらをかいている俺をアマルは咎めることもせず、心配そうに見詰める。
「いや、ちゃんとした風呂に入りたいなって」
「……お風呂、ですか?」
「ああ。俺の故郷では、毎日風呂に入って、肩まで湯に浸かるんだよ。それで一日の疲れを落とすんだ」
アマルはへちょりと悲しげに眉を下げた。
「アンディ様の故郷とは違い、ここでは長時間水に浸かると髪や肌が傷んでしまうのです。どうかご自愛くださいませ」
「……そうなのか」
確かに髪を洗うといつも髪がごわごわになる。シャンプーやリンスがないから、と特に気に止めていなかった。
だが、今考えるとヨーロッパの水は軟水である日本の水と違って硬水だ。硬水に含まれるミネラル分が皮膚を乾燥させるという話を聞いたことがある。おそらく、それが関係しているのだろう。西洋人がシャワーだけであまり風呂に入らないのは、その水質のせいであることが理由の一つなのかもしれない。
(……まぁ、それだけじゃないのは知ってるけど)
フランチェスコに外の暮らしについて聞いたとき、浴場に関するこんな話があった。
フランチェスコ曰く、以前都市にはきちんと公衆浴場があったという。公衆浴場は人々の交流の場所、社交場としての役割を担っていた。
しかし公衆浴場が混浴であったこともあり、次第に娼婦の斡旋等も行うようになった。
勿論、キリスト教としてそれは許しがたいことであったが、公衆浴場を撤廃するまでに至らなかった。
公衆浴場が廃れたのは、黒死病や梅毒が広まり、公衆浴場が病原の温床として考えられるようになってからであるらしい。そこから急速に衰退の一途を辿ったのだとか。
「……残念だけどしかたないか」
「アンディ様、申し訳ございません」
自身が致命的なミスを犯したとでも言うようにアマルは肩を落とした。思わず苦笑する。
「何でお前が謝るんだよ。アマルはなんも悪くないだろ?」
言い聞かせながら、頭を撫でてやる。アマルはきゅうんと甘えるように鼻を鳴らした。俺の腕にすりすりと頭を擦り付ける子犬みたいな動作。うん、可愛い。
「んっ、えへへ、アンディさまぁ」
アマルは目を細めて嬉しそう。冷涼とした美貌は、春の日差しのように柔らかく蕩けている。ぎゅっと、正面から甘えるように抱きついてくるアマルの背中を優しく叩き、髪に顔を埋めてみる。甘い体臭が鼻孔に広がった。
「……アマルの香りがする」
「えっ、私、その……臭いますか?」
慌てて離れようとするアマルを押し止める。
「いや、臭いとかじゃない。とても良い香りだ。こう、甘い香り」
俺の言葉を聞いて、アマルは恥ずかしげに頬を染めた。
「なあ、ずっと気になっていたんだけど、アマルって髪や身体に何かつけているのか?」
「ええ、薔薇水を髪と肌に」
「薔薇水? そっか、これ薔薇の香りなんだな」
「はい。……あの、お嫌でしたか?」
「良い香りだって言っただろ? 俺は好きだよ。何というか……すごく、そそる」
言ってから後悔した。そそるってなんだ、そそるって。口説き文句としては最低の分類だ。流石のアマルも良い顔をしないだろう。
「ふふっ、嬉しいっ!」
満面の笑み。
嫌がるどころか、すごく喜んでた。
なんなら、もっと嗅いでと頭を押し付けてくる。飼い主に構ってもらい嬉しくてじゃれる子犬か。尻尾があったら、限界までぶんぶんと振ってるなこりゃ。とりあえず、撫でておく。
「そっか。……それなら、良かった」
「はい!」
元気の良い返事。思わずじろぎそうになる身体を押さえ込む。アマルはいつだって俺に対して正直だ。その真っ直ぐさがむず痒い。俺はそれを誤魔化すように、言葉を紡いだ。
「俺の部屋で薔薇水を使ってるとこを見たことないけど、いつも浴室で塗ってるのか?」
「ええ、沐浴をする際に使用しています」
「浴室って俺らが使ってるとこだろ。今さらなんだけど、大丈夫なのか?」
他の人間に鉢合わせることはないのだろうか?
時間とかずらして入っているのか、使用中の看板をぶら下げて入られないようにしているのか。いつもどうしているんだろう?
「えっ? ……は、はい。アマルは別の浴室を使用していますので、誰かに会うことはありません」
俺の発言の意図があまり分からないようで、アマルは小さく首を傾げていた。その素直な表情に苦笑する。
「……なら、良いんだ。ほら、他の修道士と鉢合わせたら嫌だろ? それに俺もお前の裸を他の男に見られたくないし」
数秒、アマルは固まった。
俺の言葉を噛み砕いて、脳に発信しているようだ。彼女は浅く息を吸って、毅然とした表情を浮かべた。何かに挑む勇者のような雰囲気に圧倒される。これ、どういうシチュエーションなんだ。
「……今思うと、浴室で他の殿方に鉢合わせするかもしれません。アマルの身体はアンディ様のものです。話かけて見て触れて良いのもアンディ様だけです。ねぇ、次から一緒に浴室へ入ってアマルを守って頂けますか?」
「いや、さっき俺たちとは別の浴室を使ってるって言ってたじゃん」
「そんなこと忘れました」
言葉を失った。
無茶苦茶である。
頭が痛くなり額を押さえた。
――その後もすったもんだやり取りをして、最終的に翌日から俺はアマルと同じ浴室を使用することとなったのであった。
お待たせしました(土下寝)




