第31話 分かたれる旅路と新たな装い(後編)
学術都市ヴィルシュタットの象徴である巨大な時計塔が、静かに午前五時の鐘を鳴らした。
冷涼な北風が石畳の通りを吹き抜け、街全体を包み込む深い霧をゆっくりと押し流していく。
都市の北門には、これまでの旅を共にしてきた馬車たちが、それぞれの目的地へと向かうための準備を整えて並んでいた。
だが、これまでと決定的に違うのは、それらが進むべき方角が、もはや一つではないということだ。
「……本当に行くのですね、お嬢様」
副隊長のロバートが、寂しさを押し殺したような、それでいて決意に満ちた声でエリーナに問いかけた。
彼の後ろには、これから南方と西方へと分かれて向かう仲間達が、神妙な面持ちで整列している。
「ええ。位置が判明している『極北の楔』は私たちが必ず再構築するわ。……ロバート、あなたに大変な役割を押し付けてしまったことは分かっている。でも、南方と西方の楔を見つけ出し、封印の状況を特定できるのは、あなた達だからこそよ」
エリーナは一人ひとりの顔を慈しむように見つめ、その手を優しく握った。
調査隊は今や「世界の真実」という重すぎる荷物を背負い、自らの意志で動く強靭な共同体となっていた。
「お任せください。我々もまた、学問の徒です。南の密林であろうと、西の隣国であろうと、必ずや楔への道標を打ち立ててみせましょう。……そして、この調査を完遂し、再び全員でヴィルシュタットの門をくぐることを誓います」
ロバートの力強い言葉に、周囲の騎士たちが一斉に拳を胸に当て、無言の敬礼を捧げた。
その光景を、ゲイルは少し離れた場所で、静かに見守っていた。
かつては自分の手柄ばかりを気にしていた彼も、今は自分たちが背負う使命の大きさと、それを分かち合う仲間の尊さを深く理解していた。
一方で、屋敷の入り口では、ゼーベルク教授が腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。
「ふん、湿っぽい別れなど時間の無駄だ。エリーナ、忘れるな。お前たちが持ち帰るデータこそが、教会の偽りの神話を打ち砕くための唯一の武器となる。もし途中で行き倒れるようなことがあれば、お前のこれまでの研究はすべてゴミ屑として私が処分してやるからな」
相変わらずの毒舌だが、その瞳の奥には、愛弟子を過酷な地へと送り出すことへの深い憂慮が滲んでいた。エリーナはそれを感じ取り、満面の笑みで答えた。
「ええ、分かっています、教授。絶対に私の研究成果をゴミ箱に捨てさせたりしません。」
教授はそれ以上何も言わず、ただ顎をしゃくって出発を促した。
カイは、新調されたバックパックの革紐を一度だけグッと締め直し、隣で緊張のあまり身体を固くしている少年に視線を向けた。
フィンは、エリーナに選んでもらった深い紺色のマントの襟を何度も触り、時折、自分の足元の丈夫なブーツを確認している。
「……フィン。ここから先は、街の中のような『逃げ場』はないぞ。大丈夫か?」
カイの問いかけに、フィンは一瞬だけ視線を落としたが、すぐに顔を上げ、かつての「野良犬」時代のような鋭い、しかしどこか晴れやかな瞳でカイを睨み返した。
「へっ、当たり前だろ! 街のゴミを漁って生きるなんてごめんだ。それに、俺なら出来ると思って声をかけたんだろ。……だったら、やってやるよ!」
少年の意地と覚悟。カイはそれを聞き、「……いい返事だ」と短く答えると、不敵に笑った。
その肩の上では、赤いストールを風になびかせるハヌが「きゅいっ!」と元気よく鳴き、ゲイルの脚に寄り添う仔山羊のパンも「メェ」と決意を新たにするように鳴いた。
やがて、南方と西方へと向かう馬車が、重厚な車輪の音を立てて動き出した。
それが見えなくなるまで見送った後、カイたちは、眼前に立ちはだかる雪を戴いた険しき北方の連峰へと向き直った。
「行くわよ、カイ。フィン。……ゲイル、パンとハヌを頼むわね」
エリーナの凛とした号令とともに、四人と二匹は一歩を踏み出した。
学術都市の平和な灯火が背後へ遠ざかり、代わりに肌を刺すような極寒の風が彼らを迎え入れる。
世界の綻びを繋ぎ止めるための、極北の過酷な旅路。
鉄脚の運び屋と、真実を求める令嬢、そして新たな絆を胸に宿した仲間たちの「極北の楔」への激走が、今ここに幕を開けたのである。




