第二話
ザハル・ヴァンクリフ――灰翼の狩人。
その名を耳にすると、北辺の山岳地帯で舞う粉雪のきしみと乾いた狼煙の匂いが脳裏に蘇る。
土を操り、砦を呑む山を一夜にして突き上げ、敵軍の進路を底なしの沼へ変える稀代の戦略家。
また魔術師としての腕も目を見張るものがあり、戦場では『灰色のグリフォン』とともに返り血と霜を纏ったザハルと何度か対峙したものだ。
しかし当の本人は武功を誇示していないようだった。
七年前――第四次エリキウェア戦線が終結したその日、炎も歓声もまだ野に漂うなかで、男は煙のごとく前線から姿を消したという。
あとに残ったのは、帝立中央魔術学院の講壇に束の間立った、という薄い伝聞だけだった。
その男が、いま私の家の客間に佇んでいた。
暁光を払いのけるように閉じられた分厚いカーテンの隙間から、微かな朝の白が差し込み、灰色の外套に散った塩粒のような霜を照らしていた。
年の頃は四十を少し回ったばかりか。
私の記憶にあるザハルより少し若く、風雪に磨かれた頬にはわずかな斑が走り、瞳は湿った土壌を思わせる深い茶色をしている。
それでいて表層は不思議な凪を湛え、視線を合わせた瞬間、私は獣道の奥へ引きずり込まれるような落下感を覚えた。
「ご息災を、ロキ・ヘルヴェスタ様。改めてご挨拶を――私はザハル・ヴァンクリフ、ただの放浪の魔術師です」
声は低く澄んでいる。
私は幼い喉を通して、できる限り無垢な声音で応じた。
「ロキ・ヘルヴェスタ、です。……ご助力、感謝します」
無難で礼節ある返辞。
しかし脳裏では前世で交わした刃の火花が、まだ黒い残光として焼きついていた。
かつて私は彼を凌駕する立場にいたが、今日からは彼の弟子となるのだ。
己の役柄を演じねばならない。
ザハルは私の襟間に覗く封印の刻印へ視線を滑らせ、唇にわずかな弧を描いた。
それは微笑と酷薄の狭間で宙づりになった線――見る者によってまったく別の感情に読める曖昧な曲線だ。
◆
訓練はすぐに開始された。
私はザハルとアルニアを伴い、東庭の芝地に立っていた。
霜が消えかけた草は薄い金色を帯び、遠くの温室から甘い花気が風に乗ってくる。
アルニアは私たちから少し離れた欅の木陰に折り畳みの小卓を据え、銀のティーセットを几帳面に並べていた。
白磁のカップの縁には、剥きたての雪椿の花弁が静かに寄り添い、淡紅のグラデーションが金属光沢のトレイに映りこむ。
まだ飲みかけの紅茶からは白い湯気が立ちのぼり、薔薇蜜を焦がしたような香りが、まるで堅牢な稽古場にひとしずくの甘露を垂らすかのように漂う。
「まずは口で魔術を語りましょう。刀身より先に鍔を磨くように」
ザハルは笑みを深めながら、手ぶらのまま足先で地を軽く叩いた。
深く固まった大地が囁きに応じるように息を吐き、目に見えぬ鼓動が土塊を押し上げる。
わずか数拍のうちに、盛り上がった土は背凭れ付きの椅子へ姿を変え、苔を纏った静かな影を落とした。
座るよう促され、腰を下ろすと、石のまだら模様は冷ややかに尾骨を突き上げた。
私は小さく笑みを殺す。
これではすぐに尻が痛みそうだ。
だが、今は黙して観察に徹するのが礼儀というものだ。
「魔術には大きく分けて3つ、基礎魔術と属性魔術、ルーン魔術があります」
ザハルは指先で大気をなぞり、見えない板書を紡いだ。
言葉は淡い霧状の光粒となり、私の目前でゆるやかに回転しながら一語一語を象る。
基礎魔術は属性の籠っていない純真な魔力を、魔力回路で性質を変化させ出力するものだ。
例えば魔力珠や魔力シールド、魔力弾などがこれに当たる。
実は基礎魔術については既に習得済みであり、ザハルにもそう告げている。
これは回帰前のこの頃でも使えたものだ。
次は属性魔術だ。これは《変換》が非常に重要なファクターになっている。
魔力を体内で循環させ、火・水・風・土・雷の5大元素――さらに希少な光と闇の2大特殊系統へ転じる。
属性魔術発動までの三段階、『循環』『変換』『出力』のうち、循環・変換効率を決めるのが魔力回路の強度、出力を決めるのが魔力量だ、と彼は言う。
「最後の1つ、ルーン魔術は《契約》です。脳内の“魔力領域”に刻んだ文字列――いわゆる魔術陣――を展開し、対象に後天的な機能を与えます。
こちらの手続きは『定義』『展開』『出力』で構成され、定義と展開の速さは魔力領域の広さで決まり、最終的な規模はやはり魔力量に帰着するわけです。
では実演してみましょう」
ザハルが両掌を軽く打ち合わせると、霧文字はさざ波のように散り、彼の影から中型犬ほどのグリフォン像が這い出した。
さっきまで椅子だった土が形を変えたのだ。
「私の使う土魔術は属性魔術とルーン魔術の境目が少々分かり辛いのですが、まあ説明しながらやりましょう。
これは属性魔術によってつくられたグリフォンです。
地面からにょきにょきと生えて来たように見えますが、実は私の魔力が「岩」に変換され、地面に向かって出力したために発生したものです」
そういってザハルはグリフォン像の頭を磨くように摩る。
私は興味深く観察するふりをしつつ、どの程度が“常識の範囲”か慎重に探っていた。
「ではこれに対しルーン魔術を使ってみます」
ザハルはグリフォン像に頭を置いたままルーン魔術を発動する。
グリフォン像の足元に複雑な魔術陣が映し出され、光を放出すると、グリフォン像をゆったりと包み込む。
するとグリフォン像は動き出し、ザハルの周囲をトコトコと駆け回る。
「ルーン魔術によって『子犬のように跳ねよ』と定義付けた結果です。ルーン魔術の【定義】はかなり柔軟で、こういったことも可能です」
もう一度グリフォン像が光に包まれると、今度は色が変化した。
灰色の光沢を放つ、グリフォン像が現れた。
「これは材質を変化させた結果です。ただの土塊から『灰玄鋼』と呼ばれる材質に変化させました。
このように定義とそれを実現するだけの魔力を流し込みルーンを刻むことで様々な現象を引き起こすことが可能です。
ただし、定義が現実から大きく離れれば離れるほど必要な魔力は大きくなります。
『灰玄鋼』は硬く丈夫ですが、あり触れた鉱石なので必要な魔力量は少なく済みます。
対してダイヤモンドなどに変化させようものなら、このサイズであれば帝国中の魔術師の魔力をかき集めても難しいでしょう。
要は定義に込められる制約が満たすことが難しければ難しいほど魔力が必要ということです。
ちなみに『子犬のように跳ねよ』という定義は一見してかなりの魔力を使うように思いますが実はそうでもありません。
これが自然に作られた岩に対し行使されたものであれば非常に多くの魔力を使いますが、私が魔力で生成した人形に対してであれば、コストは非常に少ないです。
人形は魔力体なので、定義の本質は『魔力を子犬が跳ねるように動かせ』になり、かつ私の魔力に対し私が動かすように命令を下すため、そう難しいことではないのです」
グリフォン像が再び輝き、静かに崩れて土へ還る。
ザハルは手を払い、土塊を風に散らした。
「では座学はここまでとしましょう。
次は肝心のロキ様の≪魔力封印≫についてです。
これは魔力を封じ込める結界のようなもので5重の構造をしています。
これからの訓練ではまず魔力封印の最外殻を私が解除し、魔力制御のお手伝いをします。
察しの良いロキ様ならお分かりかもしれませんがルーン魔術を使用し、ロキ様の魔力を私が制御します。
といっても全て私が制御すると訓練にはならないので危険なときのみ介入させていただきます」
では失礼します。とザハルの掌がそっと私の胸へ重なる。
そこには五重構造の封印陣が刻まれている。
「封印をわずかに緩めます。魔力だけを取り出してください。形にも現象にも変えず、“素のまま”を掌に留めてください」
前世で私は星を穿つ術を振るったが、それは膨大な魔力を一気に射出する力技だった。
微細な制御は実は不得手だった――もっとも、この程度は朝飯前だ。
十歳の未熟な回路と封印の重さが、むしろ精密さを鍛える楔になる。
右掌に意識を凝らす。
すると薄い霧のような魔力が渦を巻き、拳ほどの淡光の珠を結んだ。
輪郭は所々いびつだが、初学者を装うには十分だろう。
「……ッ」
しかしザハルが息をのむようにその様子を見ていた。
もしかしてこれはやりすぎたのだろうか。
「ご、合格です。乱れはありますが凡そ制御されています……。では、その魔力をほんの少し回路に流してみましょう」
問題なく誤魔化せたと思った私は、言われた通りほんの少し魔力回路に魔力を流す。
半月かけて広げた回路が滑らかに魔力を運ぶ。痛みはない。
少しの魔力ならスムーズに全身を駆け巡るほどになっていた。
「……合格です。で、では一休みし、午後からは変換の適正テストを行いましょう……」
どこか腑に落ちない表情のザハルを横目に、私は芝地の端で開かれているアルニアの卓へ歩み寄った。
銀のポットから注がれる紅茶の香りが、胸中の熱をそっと鎮める。
――訓練は始まったばかりだが、東庭の空色はますます澄み、雪椿の白が風にほころぶ。




