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第一話

 ──「ッくは」

 泥濘の底から肺を引きちぎられるようにして息を吐き、私は濁った光の水面へ浮上した。

 脳髄を杭で打ち抜かれるような頭痛。関節を鋸がなぞる軋み。

 思考は砕けた氷片のように散らばり、拾い上げる指先にさえ鈍い痛覚が宿る。


「お目覚めですか、ロキ様」

 

 春光を遮る影――アルニアが枕元へ屈む。

 透きとおる翡翠の瞳が揺れ、私の額を測る手が緊張に波打つ。

 香草と蜜を煮詰めたような淡い匂いが、枕にこもった汗臭さと混じり合った。

 

「アルニア……か」

「はい、アルニアですよ。また無茶をしたようですね。今度は何の実験を?」


 十六歳ほどの、金糸のような髪の侍女。

 まだ幼さを残すが、その声色は穏やかな温風に揺られる鈴のような落ち着きがある。

 

 ……ああ、そうか。


「……あー。地下に籠もっていたから日付の感覚が曖昧みたいだ。いまは、何年何日?」

「まったく、冬眠明けの熊のようですね。今日は699年2月11日ですよ」


 神台歴699年。

 世界終焉の16年前。

 そして――自分がまだ10歳だった頃だ。


「なるほど……少し、一人にしてくれ」

「……? まあ結構です。ロキ様が変なことを仰るのは元気な証拠ですから。

 いつものミルクティーを淹れて参ります。熱いので火傷なさいませんよう」


 翡翠色のスカートが翻り、扉が閉ざされる。

 残響が壁へ染み込み、部屋は真綿の静寂に包まれた。


 絹掛け布団を押しのけると、短い脚が床に届くまでの距離が遠い。

 違和感が凄まじい。


 胸奥に沈む大海のような魔力は、厚い封土で幾重にも鎖されている。

 魔力封印――子供が暴走しないよう、魔術で眠らせた護りの枷だ。

 私自身の知識をもってしても、手荒に触れれば命脈を断ちかねない代物だ。


 少しであれば解けないこともない。だが解けば怪しまれる。


 胸部に大きく刻まれた魔力封印の刻印を撫で、灯芯ほどの魔力を滲ませては凝らし、脈管を研ぎ澄ます。

 しかし魔力回路に流れる魔力はわずかのみで、凍土にほころぶ初春の水脈のよう。

 肌理の粗い繊細華奢な魔力回路をなぞるたび鋭い痛みが弾ける。

 焦燥が胸を叩いたが、急流のごとき魔力は堰を壊すと戒めがある。焦りは禁物だ。


 魔力制御には長きにわたる時間が必要だ。

 前世の記憶がある私にとって魔力を操る経験は十分すぎる程あるが、体はそうではない。

 滴る魔力はやがて小さな川となり、川は年を経て湖へ注ぐ――その緩慢で確実な順応こそ、今の私に必要なものだ。


 魔力封印を段階的に解除し、少しずつ太い流れを迎え入れる。

 1年もすれば、いとも簡単に魔力封印を震えることなく、すべての封印を捻じ開けられるはずだ。


 前世では到達できなかった極地へ魔術を鍛え、悪魔王エンヴィターミナルの降臨を阻止する。

 それが新たな時を授かった自分の、唯一の目標だ。

 

 いつの間にか小卓にはティーカップが置かれていた。

 カップから乳と紅茶葉の蒸気が立ちのぼり、アルニアの手鍋で煮出した懐かしい香りが霧のように漂う。

 だが細い指で持ち上げると、磁器は鉛のように重かった。

 ひと口啜り、温度と甘さを舌で推し量りつつ未来を計算する。

 

 ──回帰の事実は誰にも告げない。

 再び悪魔王が帝都を裂くその日までに、私は“世界最強”を超え魔術の極地へ辿り着き、因果を食い破る。

 

 窓冬芽を撫でる風が梢を揺らし、かつて耳にした終末の呻きより微弱で――しかし確かな開幕の合図を含んでいるように思えた。



 ◆



 養生と呼ばれる薄羽の帳が屋敷を覆った。

 時間は雪解けの水音を静かに刻み、私はその温い流れに身を浸しながら、記憶と現在を交互に吸い込んだ。

 

 背丈より高い天蓋の陰影は小さく、羊毛の毛布が温い海へ変わる頃、私はようやく瞼を割り、枕辺に注がれる声に応える。


 「おはようございます、ロキ様」


 アルニアの声は朝露のように軽いが、そこに潜む湿り気は小枝の隙間を渡る風のようにひそやかだ。

 

 私の指を包み、額を測る掌。

 平熱と判断した瞬間、淡い安堵の匂いが室内へ満ちた。


 蜂蜜を溶かした湯が匙を伝って口元に運ばれる。

 甘さは灰色の夢を押し流し、舌の奥に微かな柑橘の酸味だけを残した。

 アルニアはそんな私の表情を見届けてほっと息をつき、呟く。


 「これで三日続けて高熱は出ておりません。あとは体力、と申しますか……魔力の揺れ戻しですね」


 魔力――胸の中の巨大で真っ黒な湖。

 表層は氷結しているが、その下では深海魚のような圧力が脈動し続ける。

 封印の鎖が軋むたび、小さな痛みが肋骨に走った。


 少し顔をしかめて居ると、 アルニアの細い指で額をそっと撫でられる。

 「大丈夫ですよ。今はゆっくりとお休みください」とアルニアは柔らかく微笑む。

 私も微笑で返したが、少し恥ずかしくなり視線を窓へ滑らせた。


 冬の名残を溶かす陽射しが檸檬色に庭木を包む様子が見えた。

 枝先に白い蕾が揺れるのは雪椿――春の狼煙を最初に掲げる花だ。

 春の兆しがそこにはあった。



 *


 眠りと覚醒の境目が滲む夜、私はベッドから降りて屋敷の廊下を歩く。

 子供の足は絨毯に沈んで頼りなく、しかしその下で石造りの屋敷が心臓のように鳴るのを感じる。


 書庫へ足を運ぶ理由はただ一つ、魔術封印について記された《封環術書》をもう一度読むためだ。

 背表紙を撫でるたび、過去の自分が刻んだ記憶――未来の知識――が脳裏に浮く。

 しかし魔術封印について概要は知っているものの、結局は父や師によって制御されていたため、詳細は然程知らなかったのだ。


 書架から本を引き抜こうとした瞬間、細い影が私の前に差した。アルニアだ。

 「お背中が冷えます。湯たんぽを握ったままのほうがよろしいのでは?」

 「そんな重いもの持っていられない」

 「では1冊だけ持ち帰りましょう」


 子守の叱責を受けるように私は頷き、本の代わりにアルニアが差し出した毛布を抱えた。

 毛布を広げると書庫に積もった埃が舞い上がる。


 「ここは埃が多うございます。わたくしが後ほど拭いておきますのでお部屋へ戻りましょう」


 私はそれ以上言わず、毛布に包まれて部屋へ戻った。


 

 ◆

 


 それから数夜後。

 屋敷は灯を落とし、野良猫の爪音さえ遠い頃。

 私は寝台を抜け出し、自室の床に坐した。

 封印の鎖は深紅の刻印となって胸部に刻まれている。

 それを指でなぞり、瞼を閉じる。

 

 呼吸一つで、魔力回路の水面にひびが走る。

 呼吸二つで、ひびの中から針ほどの光が滲む。

 呼吸三つで、それは私の右手人差し指に集まり、小さな魔力珠となった。


 《封環術書》を解析し封印に見つけた極小の綻びから魔力を汲み上げた結果だ。

 珠は心臓の拍動を模し、冷白に揺れた。

 その輝きは、遠い未来で握った白い刃――天ノ逆櫂(あまのさかかい)――の残影を呼び覚ます。


 掌を閉じる。

 珠は霧散し、封印は沈黙へ戻る。

 

 「……やはり1年もあれば掌握できそうだ」


 闇に独白を零しながら、私は胸奥の鎖へ意識を潜らせる。

 《封環術書》を貪り読んで得た知識が脳裡を巡る。

 

 魔力封印は五枚の殻で形成される螺旋状の結界であった。

 外から順に最外殻・外殻・中殻・内殻・最内殻と呼ばれている。

 単なる一重の鈴蘭紋に感じるが、実際は複雑に絡み合い、魔力核を包んでいる。


 理屈の上では、中殻までは今すぐ解いてみせられる。

 だが、それでは雪崩のように奔る魔力が体内を駆け巡り、魔力回路を破壊する危険を伴う。

 解いた封の“再縫合”も自力で可能だ。

 しかし内殻より深層の再封印には数刻では足りぬ精密さが必要となる。


 まずは試金石として、ごく浅い層――最外殻に爪をかけた。

 鍵紋へ呼吸を合わせ、意識で真綿を裂くように外縁の綾をほどく。

 胸郭をひと撫でするほどの所作で結界は静かに解け、潮の満ちるような圧が肺を押し上げた。

 解放された魔力は、一般の魔術師0.5人分ほど。

 だが子供の細い魔力回路には大河も同然だ。

 私は注意深く少量の魔力だけを魔力回路へ流し込む。


 ……灼けた鉄串が全身を貫くような激痛が走る。

 初めて水を通す粘土管が欠けるように、魔力回路は軋み、痛覚は赤黒く瞬いた。

 すぐに魔力の流入を閉じ、呼吸を細めて痛みが去るのを待つ。


 ――拡張が必要だ。

 だからこそ拙速は排し、夜ごと自室で最外殻だけを解き、雫ほどの魔力を魔力回路に馴染ませる。

 炉を割らずに鋼を鍛えるには、長い熾火がいると言う。


 私は結び目を指で撫で、ほどいた綾を逆向きにねじ返した。

 最外殻は再び絡まり、魔力は湖底へと沈静する。


 そこへ部屋の扉がわずかに開き、ランタンの暖光が差した。

 アルニアが無言で灯りを置き、何も訊かずに去る。

 彼女の気配は潮が引くようだった。

 彼女は私の奢った魔の匂いを感じ取りながら、あえて背を向ける。

 信頼と畏れ――双方を掌に載せたままの背中のように見えた。


 

 ◆

 


 こうして半月ほどが過ぎた。

 魔力回路の拡張は順調で、少なくとも痛みを伴うことはなくなった。

 なかなか快復に向かわなかった小さな身体もアルニアの献身で見る間に快復した。

 食卓に並ぶ食事は濃度を増してゆき、ミルクティーは花蜜の甘さを深めた。

 私にとっては過ぎさりし記憶だけの日であったが、アルニアの振る舞いは心懐かしく、羽毛のように柔らかな彼女との日々は私の未来を巻きなおしていくようだった。


 その朝、玄関の真鍮扉が静かに開いた。

 空気が凍りついたわけではない。

 凍った空気に、扉が吸い寄せられたのだ――そう言いたくなるほどの寒気が、屋敷の廊下を一息に満たした。


 「家主様がお呼びです」


 執事長の報告に、アルニアの睫毛がかすかに震える。

 

 ヘルヴェスタ四星家の家主であり、ロキの父、レキ・ヘルヴェスタ。

 北冬の元帥と呼ばれたその男は、私の記憶の中では、帝国という群れの首綱を握る冬狼の長のような印象だった。

 

 氷原の風を纏った歩みで執務室へ入ると、その威圧が幼い肺を一瞬で凍らせる。


 蒼鋼の軍装は曇り一つなく、肩章の星が冬の北斗を象る。

 瞳は薄い灰色、遠くの戦況図を常に映し、手にした黒檀の指揮杖は、幾度も砲火と血風の舞う前線に立ってきた証だ。

 装いを見るに帰邸後、着替える間もなくロキを呼び出したのだろう。


 父は挨拶を待たず低く言う。

 「一年後、帝立中央魔術学院の入学試験がある。そこへ向け準備をせよ」


 私の胸元、封印の重ね目を杖で示しながら続けた。

 

 「五重の魔力封印――このうち外殻までの2枚、入試までに制御下へ置け。開放ではなく、制御だ。暴れ馬を殺すのではなく鞍を据えると理解せよ」


 「心得ました。お父様」


 声を出すと、肺が小さな鈴のように震えた。

 それでも出せたのは、未来で鍛えた精神があったからだろう。


 父は紹介状を卓に置く。

 

 「ザハル・ヴァンクリフ。〈灰翼の狩人〉の異名をとる男だ。実技指南を任せている。明日、屋敷に着く」


 ザハル・ヴァンクリフ。

 それは前世で師事した師匠の名とは全く違う男の名であった。

 

 封蝋を割らずとも、紙片からは銀砂のような殺気が立ちのぼる。

 未来の私は彼と何度か戦火の中で魔術を交えた。

 彼の魔術の羽ばたきは嵐を孕む鷹を思わせた。

 

 そう、私の記憶ではザハル・ヴァンクリフは帝国を裏切った、敵国の魔術師であったのだ。


 父はそれ以上言葉を費やさず背を向ける。

 

 「帝国へお前の才能を示せ。期待している」


 氷の足音が遠ざかると、部屋の温度が戻った。

 私は縮こまった肩を下ろし、紹介状を取り上げる。

 封蝋に押された紋章は獣の翼――灰色の鷲。


 私は封印の鎖を胸の上から叩き、幼い心臓に聞かせる。

 


 午前と呼ぶにはまだ頼りない光が雲間をさまよっていた頃、前庭を見下ろすバルコニーの欄干に私は身を預けていた。

 遠くで鎖を外す金属音がし――続いて規則的な蹄の衝突が石を打つ。

 音は次第に膨らみ、やがて黒曜石で彫刻したような四輪馬車が視界へ滑り込む。

 車体には余分な装飾も紋章もない。

 ただ、焦茶色の革帯に縫い込まれた灰翼の刺繍が、斑に割れた雲を掻く稲妻のように一瞬のみ眼を射た。


 御者は合図一つで制動をかけ、馬は荒い息を白煙に変える。

 ドアが内側から押し開かれ、長靴が霜を削り取る。

 頬を打つ冷気の変質で、私は彼の名を呼ぶ前に理解した――ザハル・ヴァンクリフ。

 静かに頭巾を外し、灰色の短髪を震わせる仕草は、荒野の風を友とした者の礼儀に満ちている。


 そのとき屋敷全体が目に見えぬ糸で彼へ縫い留められたように感じられた。

 私の胸奥で拡張途中の魔力回路がざわめき、封印が雪解け水の圧を訴える。


 歴史がいま微熱を帯びて書き換えられる――書き損じた未来の余白が、インクを求めて泣き始める――そんな直感が背骨をぞわりと撫で抜けた。

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