表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

序幕

 ──漆黒の天幕が流星のように裂けた。

 夜空などとうに失われ、そこに穿たれた亀裂からは星の死骸すら零れ落ちない。

 ただ無音の真空が大地へ崩れ、全てを喰む獣を呼び寄せた。


 虚空から這い出たのは、万象の終焉を司る悪魔王――エンヴィターミナル。

 かつて白蓮の尖塔として帝都の中心を貫いていた王城は、いまや砕けた大理石と折れた鉄骨の灰雪となり、その亡骸の頂に、漆黒よりなお濃い巨影が腰を据えている。


 巨躯は墨の片鱗で彫られた神像めいて静まり返り、振り上げた腕だけが不吉な振幅で世界の血潮を脈動させた。

 掌から滲む魂の灯が蒼い燐光となり、夜空へ放たれる。

 ひと粒、またひと粒と。

 帝都に息づいていた鼓動が光へ転じ、天へ昇り、そして──淡々と咀嚼されてゆく。

 

 光は悲鳴を上げず、ただ吸い込まれる。

 そのたびに街路の石畳が胎内のように光り、灯りを失った窓辺では、誰のものとも知れぬ影が砂のように崩れた。


 ロキ・ヘルヴェスタは、ただその光景を瞳の奥へ焼きつけるしかなかった。

 帝国を救った英雄、世界最強の魔術師。

 けれどその称号は灰となり、いまや手のひらからこぼれる塵よりも頼りなかった。


 膝は震え、指の先から熱が失われ、視界は瓦解する世界と同じリズムで揺らいだ。

 ──その瞬間、風のない廃墟に、布擦れだけが落ちる。


 雪面のように白い仮面。

 額から頬へなだれる曲線には人の情が剥ぎ取られ、唯一刻まれた孔だけが、深海の闇を覗かせる。

 

 男とも女ともつかぬ細身。

 襟首を閉ざす外衣は墨色で、飾りも徽章も持たぬ。

 にもかかわらず、その一歩は城壁より重く、歩幅のたびに空気が粘度を増した。

 彼/彼女は魔力の匂いすら纏わない。

 それどころか周囲の魔力を“沈黙”させるかのように吸収し、世界の骨音をも封じるような冷たさ感じる。


 ロキの肩を掴む指は細いが、鉄より揺るぎない。

 氷点の鎖を思わせる冷気が、皮膚を通り抜けて魂へ侵入する。


「……まだ、終わっていない」


 囁きは波長の短い刃となって鼓膜を裂き、胸骨を震源とした余震を残した。

 仮面の人物はゆっくりと視線──あるいは視線に似た無表情の空白──をエンヴィターミナルへ送り、唇のない仮面に微かなヒビを灯す。

 

 それは笑みか、嘲りか、祈りか。

 人ならざる情念が、火花のように光を散らした。


「お前なら神器を――世界を欺く刃を鍛えられる。私は時間を稼ぐ」


 声は細い糸のようだったが、そこに含まれる密度は鋼鉄の梁をも凌駕していた。

 ロキの胸奥で、氷雨のように震えるものがあった。

 神器――神すら欺く魔術の極北。


「……間に合うのか」


 問いはもはや外界へではなく、自らの内奥へ向けた悲鳴だった。

 しかし仮面の者は頷きも否定もしない。

 ただ静かに、約束のような一言を落とす。


「間に合わせろ」


 ロキは喉奥でひび割れた笑いを漏らした。

 胸腔に灯るのは火か氷か判然とせず、心臓が一拍ごと交互に焼かれ、凍る。

 膝の震えは鎖のようで、拳の熱は塵にも似た弱さでしかない。

 期待が肺を膨らませ、絶望が同じ量だけ空気を奪う。

 崩れゆく帝都の残光が、まるで自分の可能性の残骸を示すかのように瓦礫へ散り敷かれていた。


 仮面の者は返答を待たず、無銹の長剣を抜く。

 刃は光をまとわず、闇だけを切り取り、風が悲鳴を上げるより早く白い残光へ溶けた。

 砂塵を蹴り上げることなく、彼/彼女は宙を走る。

 煙も影も追いつけず、エンヴィターミナルの巨影へ流星じみた曲線を描いた。


 ロキは唇を噛み、拳を握りしめる。

 魔を超え、神をも欺く――そのための“逆転の梶”を。

 彼は崩れた地面に両膝を据え、深奥へ潜った。


 瓦礫の上に坐し、深く息を吸う。

 両掌を破片にまみれた大地へ伏せると、血潮は土壌を巡る根のように拡張し、世界と自身の境界が曖昧になる。


 ──聞け。


 遠雷のような魔力の濁流、砕ける石材の悲鳴、蒼い魂灯が弾ける微かな嘆き。

 都市の死音すべてを一拍ごとに心臓へ引き入れ、拍動のリズムへ融かし込む。


 ──視よ。


 胸骨の奥、魔力核へ意識を向ける。

 金糸のような回路が無数に伸び、肉体に絡みつく。

 一本、一本と撚り合わせ、より太い束へ編み上げる。

 そのたびに毛細血管が熱でひび割れ、血雫が喉へ込み上げる。

 痛みは合図――まだ限界ではない。


 魂の記憶が火薬となり、魔力は鮮紅の灯へ変わり、心臓へ滲み込んでゆく。


 やがて血潮は溶鋼となり、鼓動は鍛冶台の撃鉄のように鳴り響いた。

 ロキは両腕を胸に交差し――砕ける覚悟で、その中心を穿つ。


 瞬間、骨が軋み、脈管が裂け、白熱の痛覚が視界を浄化する。

 同時に、凝縮された魔力が結晶化し、胸骨を内側から押し開いた。

 紅い欠片が雫のようにこぼれ、無重力の中心へ吸い寄せられ、掌ほどの透明な刃――天ノ逆櫂――が浮かび上がる。


 それは梶にも刃にも見える小さな光。

 触れれば指が焼け落ちそうなほど鋭く、しかし滲むような温度を宿していた。

 震える手で掴めば、焦げ跡が掌に浮かび、身体と神器が魔力回路を共有し始める。


 ──ひとつ。

 鼓動に合わせ逆櫂が白く脈打ち、瓦礫が持ち上がる。


 ──ふたつ。

 蒼い魂灯が軌道を変え、宙で静止し、エンヴィターミナルの巨掌がわずかに揺らぐ。


 ──みっつ。

 世界そのものが呼吸を忘れ、時間が凍りつく。

 ロキは静かに立ち上がり、胸奥に突き刺さる逆櫂を握りしめた。


 光が──咲く。

 白蓮の花弁が幾千も舞い上がるような光が帝都を覆い、悪魔王の影を塗り潰す。


神器(じんき)天ノ逆櫂(あまのさかかい)


 悪魔の鉤爪が目前へ迫った刹那、ロキの意識はそこで途切れ、世界は純白へ反転した。

 ただ、奔流の奥で微かに耳朶を打ったのは、仮面の人物の細い息づかいだった気がした。

 それが敗北の呻きか、あるいは未来を祝す笑みだったのか、誰にも判らない──ロキ自身にさえ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ