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特異点公園

 朝の天気は薄曇りだったが、ベルの散歩にはちょうどいい気温だ。

「行くぞ、ベル」

 声をかけると、ベルはくるりと巻いた尻尾をさらに振り、小さく吠えて玄関へ駆け寄った。

首輪をつけて外へ出ると、マンションの周囲は少し静かで、車の音も穏やかに聞こえる。


 今日は近所の公園で軽く歩かせようと思い、いつもの道をゆっくり進んでいく。

ベルは歩道の脇に植えられた草木の匂いを熱心に嗅ぎ、時々鼻先を上げてあたりを眺めていた。

変わった匂いがないか確認しているのかもしれない。

先日の妙な体験のせいなのか、俺もいつも以上に周囲を注意深く見てしまう。


 公園の入口につくと、なぜか空気が少しだけ歪んで見える気がした。

ベルが鼻をひくつかせ、立ち止まって耳を動かす。

「何かあるのか」

 問いかけると、ベルは短く鳴いて公園の奥へ向かおうとする。

いつもなら人が多い時間帯だが、今日は誰もいないように感じられた。


 中央の広場に近づくと、そこだけ妙な光の揺らぎが見えた。

まるで透明なガラス球が宙に浮いているかのようで、見る角度によって景色が微妙にねじれるように見える。

「ベル、危ないかもしれないから、ゆっくり行こう」

 そう言いながらリードを短く持ち、静かに近づいてみる。

ベルは警戒心があるのか、尻尾を下げずに少し緊張した足取りで歩いていた。


 球体に近づくにつれ、まわりの音が遠のいていくような錯覚に陥る。

広場のベンチや木々が歪んだガラス越しに映っていて、不思議な浮遊感がある。

ベルが気になるのか鼻を突き出してクンクンと嗅ごうとした瞬間、その後ろ脚がすうっと消えかけた。

「ベル!」

 慌ててリードを引き戻すと、後ろ脚は元の位置に戻ったが、ベルは怖かったのか低く唸って尻尾を揺らした。


 どうにか球体をやり過ごそうと少し離れた場所に移動したが、今度は近くにあったベンチが歪んだ空間に吸い込まれるように消えていく。

まるでそこだけ穴が開いたようにベンチが消失し、周囲にはかすかな風のような振動だけが残った。

驚きで立ち尽くしていると、いつの間にか球体自体も消えており、ただ静かな公園が戻ってきた。

「あれは……何なんだ」

 つぶやいてもベルは首をかしげるばかりだ。


 広場に目をやると、ベンチは元通りにそこにあった。

消えたはずなのに、今は何事もなかったかのように元の位置に戻っている。

気味が悪くなり、俺はベルを連れて出口へ向かった。

ベルは落ち着かないのか、ときどき後ろを振り返りながら足早に歩いている。


 公園の外へ出ると、さっきまでの空気の揺らぎも感じられなくなった。

人気のない静かな広場は、いつも通りの公園にしか見えない。

それでも思い返すと、さっきベルの脚がかき消えそうになった瞬間の嫌な感覚が残っている。

「また、ああいう場所に迷い込んだのか」

 そう思いながらリードを少し緩めると、ベルは小走りに先へ進んだ。

俺は胸に引っかかる不安を抱えたまま、ベルを連れてマンションへ戻った。


 家に帰り着くと、ベルはちょっと疲れたのか、玄関で小さく伸びをしてから中へ入る。

俺は鍵を回してドアを閉めようとしたが、どこからか気配を感じて思わず振り返る。

そこには誰もいない。

「気のせいか」

 そう言い聞かせて靴を脱ぎかけたそのとき、足元に奇妙な歪みが走った。

「え……」

 視線を落とすと、床と重なっているはずの俺の右足先が、うっすらと透けかかっていた。

思考が追いつかずに声も出ないまま立ち尽くす。

すぐそばでベルが大きく吠え、一瞬だけ透けた足が元に戻るのをかろうじて感じた。

息をつく間もなく、ベルの吠える声だけが玄関に響いていた。

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