人食い温泉
朝の空気がまだ冷たく感じられる時間に、俺はベルの首輪をつけてマンションを出た。
「よし、行こうか」
そう声をかけると、ベルはくるりと巻いた尻尾を振りながら小さく吠える。
赤柴の毛並みは陽ざしを受けてやわらかく光り、鼻先をひくひくさせている様子が愛らしい。
俺が歩き始めると、足もとを確かめるようにトコトコついてくる。
いつもの河川敷ではなく、今日は少し遠くの山方面を選んでみた。
最近は散歩コースを変えるのが楽しみで、新しい景色を探すたびにわくわくしてしまう。
ベルも新しい場所の匂いには敏感で、草むらの奥をのぞき込んでは興味深そうに鼻を押しつけていた。
途中で細い山道に入り、しばらくすると冷えた空気が肌を刺すようにまとわりついてくる。
ベルがくんくんと地面を嗅ぎ回りながら立ち止まったかと思うと、先へ進むのをためらうように小さく鳴いた。
「どうしたんだ」
声をかけても尻尾はわずかに下がったままだ。
見渡すと、霧がうっすら漂う小さな看板が見える。
手書きの文字で「温泉」と書かれているが、板にはひび割れが入っていて不気味な雰囲気がある。
その先を進むと、期待していた温泉街のにぎわいとは違って、森全体が湿った腐葉土のにおいに包まれていた。
霧は濃く、まるで重たいベールのように視界を奪う。
ベルは鼻を鳴らして落ち着かず、俺のそばを離れようとしない。
ふと見ると、すすけた木造の建物があり、その奥には暗い湯船がちらりと見えた。
近づくと、湯面はまるで黒い泥のように濁っていて、底がまったく見えない。
縁に置かれている木製の湯桶は、汚れと苔に覆われて原型をとどめていない。
苔むした石段には人間の手形のような痕跡が無数に散らばっていて、そこだけが生々しい。
「ベル、行くのやめようか」
そう口にしながらも、不意に湯船の表面がぼこりと泡立った。
驚きで息を詰まらせた瞬間、泡の合間から白い腕のようなものが現れる。
湯煙のなか、かすれた声が聞こえた気がした。
「……助けて」
ベルは尻尾を巻いて情けない声で鳴き、俺の足にしがみついてくる。
冷たい汗が首筋を伝い、胸が強く締めつけられた。
こんな場所からはすぐにでも離れたいのに、体がうまく動かない。
さらに耳元で別の声が囁く。
「入って……ここに来て……」
湿った吐息が髪を撫でるようで、頭がぼんやりしてくる。
ベルは必死に吠えているのに、その音が遠くに聞こえる。
ようやく理性を取り戻すと、見えない力が足首を掴むように絡みついていた。
湿った空気がまとわりつき、まるで俺を湯の中へ引っ張ろうとしているかのようだ。
「やばい」
そう直感した途端、ベルを抱きしめるようにして大きく後ろへ飛んだ。
ズルリという嫌な音がして、湯船の縁にいたはずの腕が闇に溶けていく。
慌てて山道を駆け下りると、あの濃い霧が急に晴れた。
背後を振り返れば、先ほど目にした廃れた温泉どころか、看板すら消えている。
ベルは小刻みに震えながらも、俺に顔をこすりつけて安堵を求めるようだ。
「何だったんだ……」
小声でそう呟いても、答えてくれるものは何もない。
マンションへの帰り道では、ベルの足取りも少しずつ軽くなっていった。
時折こちらを見上げては尻尾を弱く振るしぐさに、俺もほっとする。
あの人を飲み込むような暗い温泉は、幻だったのかもしれない。
けれど、腕と声の感触は今もはっきり胸に残っている。
部屋に入ると、ベルはいつものクッションの上でくるりと丸くなった。
俺はジャケットを脱ぎ、なんだか体にしみついた嫌な冷たさを洗い流したくなった。
シャワーでも浴びようとバスルームに入り、蛇口をひねって湯をため始める。
いつもなら湯気の立つ匂いが心を解きほぐしてくれるが、今日ばかりは少し緊張してしまう。
湯舟にゆっくり浸かると、ようやく体が温まっていく。
嫌な空気を振り払うように目をつぶって肩まで沈めると、かすかな水音が耳をかすめた。
「……助けて……」
わずかだが、先ほどの声に似た響きが湯の底から聞こえた気がして、俺は慌てて目を開ける。
だが、そこには俺しかいない。
神経を尖らせて静まり返った湯舟を見つめると、全身の毛穴が逆立つような感触が戻ってきた。
それでも見慣れた自宅のバスルームだと言い聞かせて、胸の奥で乱れそうな鼓動を抑える。
あの奇妙な温泉がまだどこかに繋がっている気がしてならないが、ベルとここで過ごせば大丈夫なはずだ。
少しだけ深呼吸をして湯に肩まで潜り直すと、湯面からはもう声はしない。
それでも心にこびりついた嫌な感触は、夜が更けるまで抜けそうにない。




