第18話 転がる玉は止まらず
温泉といえば卓球だ。
言い出したのは当然お気楽な豊穣神である。
個人が経営するような温泉に卓球設備があるとは思えなかったが、意外にもお気楽神と同じ考えの人間は多いようで、卓球もしっかりと用意されていた。
温泉を経営する老夫婦に風呂上がりの冷たい麦茶をもらい、一同は手にラケットを装備する。
もっとも、やる気があるのは一部だけで、邪神一家――次男を除く――と始はどうでもよさげ。悠斗に至っては面倒くさいの一言である。
「風呂で汗を流した後に運動するなんてバカか?」
「そこ、場を冷ますような一言は慎め」
盛り上がる実達には聞こえなかっただろうが、この遥かに年上の弟の協調性のなさはなんとかならないかと始はため息を吐く。北欧神達が嫌うのも何となくわかるというものだ。
一方のお子様組――お子様じゃないのも混ざっているが――はさっそく順番を決めるジャンケンを始める。二対二でやればいいのではと助言するが、まずは一対一でやるのが王道だと言われてしまう。そんな王道あっただろうか……。
根拠のない王道に基づいて、まずはジャンケンに勝った桜とミドガルズオルムが対戦を始める。
ところで――、
「お前の所の次男はルールを知っているんだろうな」
「おそらく―――――知らんな」
そう悠斗が答えると同時に卓球には似つかわしい派手な音が響いた。オレンジ色の物体が部屋中をパチンコのように駆け巡り、試合をそばで見ていた実の頭に当たり、減速したところをフェンリルによって捕らえられた。
フェンリルの手の中にあったのはオレンジ色のピンポン球だった。
だいたいの状況を推測すると、ルールも知らないミドガルズオルムがラケットでピンポン球を思い切り叩く。球は部屋中を飛び回り、今現在フェンリルの手の中にある。以上。
そして球はミドガルズオルムの頭の上に返される。フェンリルの手に包まれたまま。
その後の効果音は説明するまでもない。
「お前は注意しなくて良いのか?」
「フェンリルが代わりにしているからいい。二倍も三倍も説教を食らうのはオルムが気の毒だろう」
どうやらこの父親は次男の教育を長男に任せているらしい。悠斗が言うには、自分が口を出す前に長男が教育的指導を行ってくれたらしい。なのでもう一任することにしたという。それでいいのかと始は内心思ったが、他人の家の教育方針に口出ししても仕方がないかと考え、結局口にはしなかった。
一時中断した卓球を再開する一同。つきあいが悪いと非難され、悠斗達も無理矢理参加させられることになる。ジャンケンで順番を決め治し、トーナメント式に試合を始める。
一回戦はルールを覚えたミドガルズオルムとフェンリル。あまりにも気の毒すぎて、周囲は同情の目で試合を見守る。
ミドガルズオルムは積年の恨みを晴らさんとばかりに意気込んでいるが、フェンリルはそれをあざ笑うかのような顔をしていた。
そして試合は始まる。本人以外の人間はほぼ間違いなく訪れるであろう未来を予測していたが、あえて口には出さなかった。
結果は十数分後。
一時間も経てばトーナメントは決勝に辿り着いている。試合の場に立っているのは悠斗とフェンリル。親子対決となっている。
この二人、やり方がとにかくいやらしい。
一回戦のミドガルズオルムとフェンリルの試合。最初はミドガルズオルムが圧倒した。フェンリルはそこそこ動くが、ミドガルズオルムの素早さとパワーに圧倒されていた、ように見えた。これは観戦者達も驚き、このまま終わってしまうのかと思った。
しかしミドガルズオルムがあと一点入れれば終わるという時に、予想もしない反撃が始まる。一見本気にもなっていないような涼しい顔と動きでフェンリルは一点二点と点を確実に入れていく。最初は一点や二点入ったところで変わりはしないと高をくくっていたミドガルズオルムだったが、三点四点と来たところで妙だと思う。先ほどから自分は一点も入れられていない。連続で五点六点と入れられようやくここで自分が遊ばれていたことに気付いた。
ふと対峙する兄の顔を見ると、馬鹿な弟をあざ笑うかのようなとても良い笑みを浮かべていた。ミドガルズオルムは今すぐにでも逃げ出したくなったが、試合を放棄することはまず許されないだろう。
結局半泣き状態で試合を続けることとなった。結果は言わずもがな、である。
未だに膝を抱えて落ち込んだ状態のミドガルズオルムは放っておくとして、一方の悠斗も嫌な試合をする。
一見やる気がなさそうで、適当に打ち返しているように見える。しかしその打ってくるところが取りにくい場所だったり、ネットに引っかけて落としたり、相手を右に左に揺さぶるなど、実に嫌なプレイをする。何度もコートの端に当てて明後日の方向に球を飛ばすのを見ていると、こいつ狙っているのか!? と誰もが驚愕した。
なるべく体力を使わず、相手の精神を削るという嫌〜な戦法で悠斗は勝利する。
さて、トーナメントは決勝戦を迎える。賞品はなし、だったのだが。
「父上、試合を始める前に、お願いがあるのですが」
「お前がお願いとは珍しいな。何だ?」
「勝った方に賞品を付けていただきたい」
「ほう? 欲しいものがあるのか。何だ?」
「それは試合に勝った場合に」
それではメリットもデメリットもわからないのではないかと誰もが思ったが、この父親はおもしろく思ったらしい。
「思えばお前と勝負というのも初めてだ。いいぞ、お前が勝ったら好きなものをやるよ。俺がやれるものならな」
「ものと言うよりも…いえ、それは勝ってからにしましょう。ところで父上が勝った場合はどうするのですか?」
「俺か? そうだな、勝ってから考えるとするか」
それでいいのかと誰もが思ったが、口にする者はいなかった。
「フェンリル兄様、いつもと違う」
それまでほとんど口を開かなかったヘルが一人つぶやいた。
「変って言うのは?」
始がそのつぶやきを聞き逃さず訪ねる。思えば彼女と会話するのは初めてかもしれない。しかしヘルは質問されたことに驚き、慌てて自分よりも小さな兄にすがりつく。少し傷つく。
その兄もようやく気力を取り戻したらしい。妹に代わって質問に答えた。
「フェン兄はいつも父さんの意思を最優先にしてきた。必ず父さんを自分の上に持ってくる。だから、そんなフェン兄が父さんに勝つ気でいることがすごく珍しい」
「そんなに?」
すぐそばにいた実や桜も会話に加わってきた。
「うん、初めてのことだと思う。いつものフェン兄ならわざと負けるか、最初から勝負しないかだよ」
この次男坊は兄や妹と違って人間との会話を嫌ってはいないらしい。
確かに普段のフェンリルとは違うことが、短期間しか付き合っていない始達にもわかった。何よりも父を第一とする彼にしては、今回の行動は奇妙だ。
「変化が訪れているんだよ。きっと誰よりも早く、そして明確に」
突然口を挟んできたのはそれまで正面を見ていたフレイだった。
「変化は確実に起こっている。君たち人間にも、そして僕たち神々にも。ロキも昔とは違う。それは僕より君たちの方がよくわかっているんじゃないかな?」
そう言った視線の先には血の繋がる子ども達があった。血の繋がりよりも、さらに太い絆で繋がった彼らが気付かないはずがない。
「一人の変化は二人目三人目の変化をもたらす。小さな変化がやがて大きな変化へと発展していく。彼の場合それが見えやすかっただけじゃないかな」
そう言った彼の視線は、今まさに初めての勝負を始めようとしている親子、その息子の方へ向けられている。
「ただし、変化は良いものばかりではない。時に傷となりさらに裂ければ血が噴き出すだろう。変化に一番気付かなければならないのは本人だよ。そして自分の変化とは本人が一番わからないものだ」
その視線に込められている感情は何だろう。哀れみか、同情か。
「つまり、他人が言っても自分で気付かなければ意味がないということですか?」
律儀に丁寧語で訊く桜に、フレイは微笑みかける。
「君は頭が良いね。その通りだよ。気付くのは彼自身でなければならない。気付かなければその先へは進めない。自分がどうありたいかがわからなければ、変化は中途半端となるか、本人にとっても予想外の方向へ進んでしまうか」
その顔が今までになく深刻だったので、フェンリルの変化が悪い方向へ行ってしまうのではないかと不安になってしまう。
「まあ、その当たりは彼らの問題だろう。親子川いらずって言うしね」
……?
「フレイさん、それは親子水入らずのことですか?」
「ああ、そうそうそれそれ」
微妙に間違ってるし、しかも使い方も違うし。
はあっとため息が数人分はき出された。
一方、試合を始める二人の表情はそれまでになく真剣だった。
「始めますよ、父上」
「ああ、いつでも良いぞ」
先鋒はフェンリル。
掌から球が浮かび、ラケットのゴム面がそれを叩く。球はコートを跳ね、悠斗へと向かう。悠斗は鋭い動きでそれを相手コートに返す。コートの端ギリギリを狙った良い球だ。しかしフェンリルはそれを予測したかのように回り込み叩きつける。
コートへと飛び出した球はなかなか止まらない。まるでプロの試合を見ているかのようだ。
一点を取るのに何分かかっているのだろう。何度も傷んだ球を変えた。それまでの試合で汗一つ流さなかった二人が全力疾走をしたかのように息を切らしている。
現在、悠斗があと一点まで迫っている。しかしフェンリルが一点入れれば点差が開くまで試合は続く。
観客は息を呑んで試合を見守る。
球が再び宙に浮く。
ラケットが球を打つ音と球がコートを跳ねる音が数十回と続けられる。汗が飛び散り、髪が乱れる。しかし気を乱すことはない。
その時、悠斗の球がわずかに浮く。致命的なミスだ。フェンリルがこのチャンスを逃すわけもなく、球は容赦なく叩きつけられる。
これで決まったと誰もが思った。しかし球は吸い寄せられるかのように悠斗の持つラケットへ向かう。違う、悠斗がそれを予測していたのだ。
返されると思っていなかったフェンリルは焦り、返された球を今度は自分が浮かせてしまった。そして、再び鋭い球が繰り出される。球はラケットに触れず、そのまま壁に激突しコンコンと音を立てて転がった。
そして試合は終了した。
「俺の勝ちだな」
「…完敗です」
フェンリルは潔く負けを認めた。
「やはり父上にはかないませんか」
「勝ちが決定するまで気を緩めるな。こちらのチャンスが相手の罠であることだってあるんだから」
そう、あの時悠斗の打った球が浮いたのはミスではない。最初から罠だったのだ。相手の気を緩め、その隙を突く。フェンリルはまんまとその罠にはまったのだ。
「そういえば賞品だが…」
「はい、何にしましょう」
「…まあいいや、お前との勝負もおもしろかった。珍しいお前を見られただけでよしとしよう」
「それで良いのですか?」
「ああ、父親が息子にせびるなんてみっともないよ」
額に浮かぶ汗をヘルに渡された手ぬぐいでぬぐう。
「それよりも、俺はお前が欲しがってたものの方が気になるな」
「それは負けたからなしですよ」
「教えてくれるくらい良いじゃないか。別に勝たなくてもやれるものかもしれないのに」
「そこは私のプライドというものが許さないので」
「そうか…まあ、その通りだな」
そこに経営者の老人がやってきて、夕食の準備ができたことを告げてくれた。
皆がおなかが減ったと言って部屋へと戻る。そんな中、悠斗はフェンリルに近づき言った。
「フェンリル、お前は俺の自慢の息子だが、何も完璧である必要はない」
「?」
「お前がたとえそれをみっともないと思っても、それがお前の真実だ。それを受け入れられない方がもっとかっこうわるいことだ」
夕食に向かう一同に続くように部屋を出て行く悠斗が、最後に振り返り言った。
「もしお前がこの先自分ではどうしようもないことに陥ったなら、遠慮なく俺を頼って欲しい。あの時お前を救えなかった俺に八つ当たりしても良い。だから頼むから俺の手の届かないところへは行ってくれるな」
「私はずっと父上と一緒ですよ」
フェンリルはそう返すが、悠斗は悲しそうに笑うだけだった。
二人が出ていった部屋に一つのピンポン球が残されている。球は突然風に揺らされたかのように転がり始め、壁にぶつかって止まった。そしてその瞬間、バチンと音を立ててはじけた。
その音は部屋を出て行った誰の耳にも届かなかった。球は無残にオレンジ色の破片を当たりに飛び散らせ、血もない骸をさらしていた。
――――本当の始まりはこれからだ。
クスクスと笑い声が風と共に舞う。誰の耳にも届かない予告。それは決して遠くない未来。
横たわる黒い獣。その傍らで、彼は何を思うのだろうか。
それは神すらも知らず。




