1話
口の中に広がるほのかな甘さ。飲みたい気持ちが抑えられないくらいの絶品ってほどではないが、それを啜る口がやめられない。
不思議な感覚だ。
口元から鳴る吸啜音。口まわりの疲れを感じながらも少しだけ見上げると、十数年間よく見た顔。妹の姿がそこにはあった。
そして彼女は、今まで俺に見せたことのない破顔の笑みでこう言ってきたのだった。
「ふふ、ロアンったらこっち見てる。どう? ママのおっぱいはそんなに美味しいの?」
まじでさぁ。
……改めて言うのやめてもろていいですか?
こっちだって吸いたくて吸ってるわけじゃない。
今日を生きるために吸ってんだ。
じゃあ吸わなきゃ死ぬのかって?
あぁ、死ぬね。当然死ぬね。数日で……いや、普通に一日吸わなきゃ死んじゃうんじゃないの、多分。
なぜか。
それは誰に何を言われようと、妹に抱かれたこの小さな赤子の姿を見りゃあ一目瞭然だ。
そう、十八歳にしてローディア騎士団中隊長。西の防衛戦において、敵国バルゼンの侵攻を上級部隊が到着するまでの足止めを成功し、戦死した——俺、ロアン・フェルナーは、
奇しくも、妹の子供に転生してしまったのだ。
本当にワケがわからなすぎて泣きたい。いや、まぁ本能的にはいつでも泣いちゃうんだけど。
まぁこうなった経緯を話すとしたらそれなりに長い話になる。
それは少し遡って、俺がまだ妹の息子ではなく。
ローディア王立騎士団、ロアン・フェルナーだった頃。
生前最期の戦いの日にまで、時は遡る。
……ってな感じで遡りたいのは山々なんだけど、やっぱ自分の死に目ってのは思い返すだけでも結構辛いもんでさ。
左腕はなくなるわ、全身斬られるわ、最後の方なんてもう何発殴られたかも分かんないし。
できれば二度と思い出したくない。
……とはいえ、まったく思い出さないってのも怖いんだよな。
だってほら。
このまま何ヶ月、何年と赤ちゃんをやってるうちに、気づけば前世の記憶が全部なくなってましたとかありそうじゃん?
目が覚めたら、
「あーうー」
しか言えなくなって、ロアン・フェルナーだったことすら忘れてるとか。
いやまぁ、今だって声に出したら似たようなもんなんだけど。
そういうわけで、俺は毎日一回くらい前世のことを頭の中で振り返るようにしている。
名前はロアン・フェルナー。
十八歳。
ローディア王立騎士団所属。
若くして中隊長なんてものを任されていた。
……自分で言うとなんか恥ずかしいな。
まぁでも、騎士としてはそれなりにちゃんとやってたと思う。
そもそもフェルナー家ってのは、ローディアじゃそれなりに名の知れた騎士一家だ。
父も騎士。祖父も騎士。
昔からフェルナー家に生まれた男は騎士になるのが当たり前みたいな家で、俺も幼い頃から剣を握って、王国直下の学院に入って、それから何の疑問もなく騎士になった。
国を守るため、家族を守るため、そのためなら命だって賭ける。
そんなことを当たり前みたいに思って生きてきた。
そして俺が騎士として最後に向かったのが、王国西部のカドゥラ関門。
敵国バルゼンの騎士たちに攻め込まれていて、放っておけばそのまま関門を抜かれてしまうような状況だった。
その先には俺の故郷がある。母さんと、それから当時はまだ妹だった今俺を抱いてるこの人も。
しかもこいつ、ちょうど出産間近だったんだよ。
そんな状況で敵なんか通せるわけないじゃん。
だから死ぬ気で戦った。
当然勝てるとは思ってなかった。だって向こうには、当時の俺より明らかに強いレクト・ハイネって騎士までいたし。
暗い灰褐色の髪色に、無駄のない引き締まった肉体。整った顔に目つきの悪さがよく目立つ、俺と同世代の男。
それなのに二年前の時点で、ローディアの上級騎士を倒したとかいうイカレ性能をしてる。
当時中級騎士だった俺が、そもそも勝てるわけがなかったんだ。
だけどここで俺がやるべきことは、レクトに勝つことじゃない。後から来る上級部隊が到着するまで、その関門を守ること。
それだけだった。
だからまぁ……頑張ったよ。
顔を斬られて。身体中ボロボロになって。途中で左腕までなくなった。
それでも最後は、残った右腕でレクトにしがみついてた。
もう剣で勝てないなら、身体ごと邪魔してやろうと思って。
騎士としてどうなのって戦い方だけど。
あの時はそんなのどうでもよかった。
とにかくここから先へ通すなってのが、頭の中でいっぱいになってたってだけ。
で、なんとか間に合ったんだ。上級部隊が。
これで関門も守れて、家族も無事だった。
だから騎士としての俺は、ちゃんとやるべきことをやって死ねたんだと思う。
そこに後悔はない。
……ないんだけどさ。
いざ本当に死ぬってなったら、やっばり普通に死にたくなかったんだよな。
父さんにも母さんにも、まだちゃんと言えてないことがあった。
妹の子供の顔だって見たかった。
騎士になってからずっと、いつ死んでもいいように生きてるつもりだったのに。
最後の最後になって、
ああ、俺。
もっと生きたかったんだなって。
ようやく気づいた。
まぁ——。
ってな感じで今に至るってわけだが。
そして引き続きチュパチュパと吸啜音を鳴らし、我が妹……じゃなくて現母親から生命の水を分け与えられている俺。
あぁ、まじでなんだろうこの感情。
前世の死に様を思い返しながら、ひたすら乳を吸うってのはさ。
虚無というか……いや、何も考えてないわけじゃないんだよ。
そう。例えるなら、よく眠れた時の朝みたいな。
あースッキリしたぁって感じの。
いやいや、なんかちょっと違うな。もっといい例えがあったらいいんだけど……。
ってそうじゃなくてだな、俺はこの二度目の人生どうするかを考えなきゃいけないわけで……あ、あれ?
なんだ、瞼が重くなってきた。
眠……た、すぎて……何も考え……られ、ない。
まぁとりあえず、今後のことは起きてから。
おやすみ、世界。そういうことで。




