佐竹攻め⑤
時を少し遡り、茂木城下で千葉親胤率いる本隊が絶望的な包囲網に呑み込まれつつあった、まさにその直前のこと。
―――本佐倉城の奥御殿
静まり返った部屋で、明は、燭台の明かりのもとで帳面を開いていた。
しかし、その手は完全に止まっている。
いま彼女の瞳には、重い不安の色が宿っていた。
(……おかしい。何かが胸に引っかかる。茂木の城などはすぐに落ちるでしょうけれど……どうしてこんなに胸騒ぎがするの?)
令和の世で明らかにされている「史実」をよく知る彼女にとっても、この時代の北関東の勢力図はあまりにも不確定要素に満ちていた。
しかも親胤という「異物」の登場によって、歴史の歯車はすでに大きく狂っているのだ。
その時だった。
明は気配を感じて天井の方を見つめた。
カサリ、と音もなく部屋の隅の影が揺れた。
「・・・!小太郎?遠慮せずこちらに来なさい。」
廊下の警備を潜り抜け、畳の上に突如として現れたのは、黒襠の衣服に身を包んだ偉丈夫——風間(風魔)出羽守小太郎であった。
小太郎は深々と頭を下げ、低く掠れた声で語り始めた。
その報告内容は、明の顔から血の気を完全に引かせるに十分なものであった。
「明姫様、緊急の報にございます……! 下野の地に潜ませていた手の者が、企みをつかみました。那須資胤が千葉家を裏切りました」
「やはり那須は裏切ったのね・・・」
「それだけに留まりませぬ。陸奥の蘆名盛氏、白河結城氏が密かに手を組み、二万六千の大軍をもって、茂木におわす千葉介様の背後を急襲せんとしております!」
明は立ち上がりかけた。
「御屋形様はご存じなのかしら?」
「いいえ、御存知ではないと思われまする。千葉軍は前面の佐竹軍との戦闘にかかりきりの様子にて」
「な……なぜそんな重大な報せが、御屋形様(親胤)の元へ届いていないの!?葉隠衆は何をしているのです!」
「……叶わなかったのです」
小太郎は辛そうに目を伏せた。
「報せを携えて本陣へ走った葉隠衆の忍びどもは、蘆名が放った暗部の手によって、茂木の手前でことごとく討ち取られました。そのため千葉軍は今、背後から迫る敵に全く気づいておりませぬ!」
「そんな……!」
明の手から扇子が滑り落ち、畳の上に乾いた音を立てた。
前線には親胤がいる。三万五千の千葉軍が、正面の佐竹と背後の連合軍、合わせて四万八千以上に挟み撃ちにされれば、いくら鉄砲隊があろうとも苦戦は免れない。
最悪は撃破される恐れもある
「……小太郎。叔父様(北条綱成)には?」
「上野に駐屯しております左衛門大夫(綱成)様へは、早馬をもってすでに報せを走らせてございます。……されど、上野からの救援だけで十分なものかは、某にも判りかねまする」
小太郎の言葉が、部屋の静寂に重く響く。
明の脳裏に、激しい葛藤が吹き荒れた。
(どうする……? 私は北条から嫁いできた政略結婚の妻。千葉家の軍権を動かす立場にはないわ。それに……ここで親胤様が討ち死にすれば、千葉家は北条の傘下に下り、私の実家である北条家にとっては都合が良いかもしれない……)
一瞬、冷徹な計算が頭をよぎる。
しかし——彼女の脳裏に浮かんだのは、婚礼の夜に見せた親胤の少し困ったような笑顔であり、領民が笑って暮らせる世をつくろうと内政に励んでいた彼の背中だった。
何より、同じ「未来を知る者」として、この過酷な戦国を生き抜こうとしている彼の命を、ここで見捨てることなどできなかった。
「……小太郎、そこに控えていなさい」
明は意を決し、凛とした声で命じた。
「私は……千葉介親胤の正室として動きます!」
明はすぐさま小姓を呼び、千葉家の筆頭重臣である原胤清を奥御殿へと呼び寄せた。
老練な将である原胤清は、明から風間の報告を聞かされると、白髪の眉を凄まじい形相で釣り上げた。
「な……何と!? 那須の裏切りに、蘆名の襲来ですと!?葉隠からはそのような報せは……」
「報せをもたらそうとした葉隠衆が悉く討たれたのです! 敵の暗部によって情報が遮断されています!作左衛門殿にも問い合わせればわかりましょう。下野方面で行方知れずが何人も出ていましょう」
明は胤清の言葉を遮り、強い眼差しで老将を見つめた。
「胤清殿! 今すぐに本佐倉城にて緊急の評定を招集してください! 一刻の猶予もありません。留守居の軍から援軍を、御屋形様の救援へ向かわせるのです!」
「しかし……御屋形様不在の折、御方様(明)のご指示で留守居の軍を動かすなど、前代未聞! 家中の国人どもが納得いたしますかどうか……」
「このような頼みは胤清殿にしかできません、どうか納得させてください!」
明は胤清を見据えて強く迫った。十二歳の少女とは思えぬ圧巻の気迫に、さすがの原胤清も息をのんだ。
「御屋形様に万が一の事あれば、下総もまた火の海となり、心無い敵の狩場となりましょう! 責任は全て、千葉介親胤の正室であるこの私が負います! さあ、早く!」
「……ははっ! 直ちに招集の使いを出しまする!」
一刻後、本佐倉城の大広間には、留守を預かる千葉家の重臣や留守居役の国人たちが青ざめた顔で集まっていた。
壇上に立った明は、乱れる髪も気にせず、堂々と声を張り上げた。
「皆様! 現在、茂木城下の御屋形様は、佐竹・那須・蘆名・白河結城の四包囲網に侵され、絶体絶命の危機にあります! 我らは直ちに後詰(援軍)を繰り出さねばなりません!」
ざわめく家臣たちの中から、家老の大須賀常正が声を上げた。
「しかし御前! 我ら留守居の兵を出せば、下総の守りが手薄になりますぞ! それに、出陣の規模は如何するのです?……」
「方々、今は迷っている暇はないようですぞ」
ここで、胤富が明のほうを見てうなずいてから、家臣が居並ぶ方へ向けて話を始めた、
「湯浅作左衛門殿の証言によると、下野方面の葉隠衆が悉く行方知れずとなっており、尋常ではない何かが起きた事は間違いなし。今、我らが最優先に考えるべきは御屋形様のご無事にござる」
「それでは後詰の出陣に異議があるものは?」
胤清が決を採るが、誰一人として反対は出なかった。
明はホッとした表情で胤富に目礼をした。
「それで、後詰の兵数は如何に?」家老の井田友胤が腕を組んで考え込む様子で質問を投げかける。
「されば援軍の総数は一万五千! 城に眠る予備の新型鉄砲三千挺を全て放出し、さらに騎馬隊五千を編成する事では如何か?」胤清が井田に答えるようにして他の家臣達にも確認をする。
「一万五千に鉄砲三千、騎馬五千!? それほどの軍勢を動かせば、この本佐倉は空同然に……!」
大須賀常正は留守中の本城襲撃を気にしており、胤清の案に懐疑的であった。
「御屋形様に万が一があれば、城などあっても意味がありませぬ!方々、どうかご寛恕のほどをお願い致します」
明の言葉に、原胤貞が前に進み出た。
「御方様の見事なお言葉!感服いたしました! 某は総勢一万五千の繰り出し、異論はございません!」
その発言にその場の空気が一気に「出陣」へと傾いた。
明は胤貞に向き直り、深く礼をした。
そして家老の何人かで顔を突き合わせて何事かを話し合う。
そして、話がついたとばかりに顔を上げて胤清が隅に控えていた菅谷政貞に向かう。
「菅谷殿! 一刻も早く御屋形様のもとへ駆けつけるため、貴殿が騎馬隊五千を率いて先鋒(先行部隊)として出陣して頂きたい! 後続の一万(歩兵・鉄砲隊)はこの原胤清が率いて後を追いまする!」
「ははっ! 先行する騎馬五千を預かりまする。そして下野へ急行いたします! 御屋形様は我らがお救いし申す!」
政貞は深々と頭を下げると、大股で大広間を蹴って出て行った。
「急げ! 馬を飛ばせぇぇぇッ!!」
数刻後、本佐倉城の大門が開き、菅谷政貞率いる五千の精鋭騎馬隊が、盛大に土煙をあげて怒濤の勢いで駆け出していった。
続いて、三千挺の鉄砲隊を含んだ一万の歩兵部隊が、松明の光を連ねて下野街道へと駆け足で続く。
城楼の上に立ち、出陣していく軍勢を見つめる明。
冷たい秋風が彼女の髪を激しく揺らした。
(親胤様……どうかご無事で。あなたがここで倒れたら、この世界の未来はどうなってしまうか……!)
小太郎の報告を受けて上野から怒濤の急行を見せた北条綱成の「地黄八幡」——この援軍が介入する事で、あの茂木城下での絶望的な包囲網は、土壇場で劇的な粉砕を迎えることになるのだった。
お読み下さり有難うございます。
稚拙な個所や至らぬ点が多々あるかと思います。
生暖かい目で見てくださると幸いでございます。




