涼宮ハルヒの現実
黄金週間もたけなわな今日、皆様はいかがお過ごしでしょう。
五月五日は端午の節句。
タンゴのリズムで……と、これはかの戯曲『半神』でしたか。まぁいいや。
TOKYOMXにて再放送中の『涼宮ハルヒの憂鬱』を毎週楽しく視聴しています。
さすがに二十年近く前のアニメという事もあり、映像や美術に時代性は感じますが、内容は一周回って目新しくも感じる。というか、押井守の映画に見える。ぶっちゃけ『ビューティフルドリーマー』に見える……。
作品については、超が付くレベルのメジャータイトルなので解説は省くとしても、初見時には感じなかった、この「押井守」風味。別に犬は出てこないし――ネコは出てくるけど――立ち食いそば屋も出ないんですが、とにかく主人公兼語り手であるキョンの、あの持って回った言い回し。長い台詞に青臭い文学趣味がすごく押井節を感じさせてくれます。実際にあんな高校生が居たら、絶対モテないとも思うのですが……(笑。
と、そんな風にみていると、かつてはそんなキョンの「青臭い文学性」に共感を覚えていた自分はとっくに消え去っていて、むしろ「非現実的」ともいえるハルヒのキャラクターにこそ「リアル」を感じるようになってしまいました。
原作やアニメ版を見て、「ああ、キョンは自分だ」と感じる若人は少なくはないと思うのです。一方で、「ああ、ハルヒって過ぎし日の自分だ」と思うようになってしまったのは、これはなんでかなぁ。昨晩放送された『孤島症候群:前編』なんか、今まさしく自分が求めているものをハルヒが代弁してくれたようなものだからかもしれません。
絶海の孤島……
謎の館……
正体不明の客人に主人……
この舞台設定だけで、もうなんか盛り上がりを感じてしまう習性とは、よくよく考えてみれば「ある程度、創作物というジャンルに煮染められていなければ得られない感覚」だとも思うのです。
だってそうでしょう。
上記の項目から「クローズドサークル」を連想し、シチュエーションそのものにワクワクする……
これは、すでに「そういう話形」を知っていなければできない発想ですし、現実にはあり得ないであろう状況を想像するというのも、また同じ根っこがあると思うからです。つまるところ、ハルヒという少女の夢想する世界とは、実は凄く平凡で、かつ俗世間の手垢にまみれたものではないのか。そんな風にも思うようになりました。
夢想家、という言葉で切って捨ててしまうにはあまりにも惜しいこのキャラクター。
ハルヒが俗物で、俗なものを求め続ける事という主題(?)は、確実に何かを物語っているように感じます。本作は、いわゆる「エヴァブーム」の直後に出てきた「セカイ系ジュブナイル小説」の一つとしても有名ですが、実はハルヒというキャラクターそのものは、言動こそぶっ飛んでいるものの、その頭の中身は非常に現実的なところがあるのではないか……。
「エヴァンゲリオン」っぽさがあるのは、あれです。閉鎖空間で出現する謎の『神人』が、第一使徒アダムのビジュアルに似ているとか、そういうレベルの話なんですが、それはともかくも「エヴァ」が「現実へ帰れ」というメッセージを打ち出したことに対する、「じゃあ、そんな現実でどう遊ぼうか?」という、作者なりのアンサーが垣間見えるようにも思います。そこに、宇宙人だの未来人だの超能力者だのという「非現実」をかませているのは、これは本当に本作がジュブナイルでありエンタメだからでしかなく、なにより当のハルヒ本人はそのこと(非現実性の侵食)に全く気づいていない……つまり、作劇上さほど重要な因子ではない、というのが何よりの回答な気がします。
本作が、『ビューティフルドリーマー』に似ていながら、それでもなおオリジナリティを確立しているのは、この「非現実を求めつつも、実はそれを全く認めていない」主人公像にあるではないか、そんな風にも思うんですね。押井守映画であれば、この「認めない」のは周囲のキャラクター達でありますでしょう。事実『ビューティフルドリーマー』では、主人公達は夢セカイ――非現実――を認知した上で歓迎していますし。
そんなふうに見直してゆくと、なんだか本作がアフターエヴァの作品として、大いに受け入れられた理由も分かるのです。ユーザーの大半はとっくに「現実へ帰っていて」、その上で「じゃあ何をしようか?」という思考へシフトしていたと思うからです。先述と同じですよね。
表面だけを見れば、確かに「ハルヒワールド」とは排他的なセカイ系に見えます。
仲の良い、気心の知れた者同士だけで青春の一頁を謳歌したい。高校生ぐらいの年齢にはありがちな夢物語です。でも、それを作るのは現実の自身です。俗な世間をあえて認めるからこそ見ることの出来る夢……。『涼宮ハルヒシリーズ』とは、そういうリアリズムを体現した物語であるのかもしれません――なんてことを思いました。




