4 一杯の紅茶
その花畑では、花の香りを感じましたか?
知覚が鈍って来ている事は気が付いていた。
遠くの事は感じ取り難く、代わりに自分の事が鮮明に感じられる。
花を踏み折る音や草木の匂いよりも、自身の体臭や鼓動の音の方がより強く鮮明に感じられる。
先程齧った干芋の僅かな味が唾液に溶け込んで来る様を鮮明に感じる。
胃に落ちた干芋が徐々にふやけて行く様子が手に取る様に分かる。
胃が干芋を消化しようと顫動し、それを助ける為に全身を巡る血液が胃へと向かう。
一方で隣の王女様の声はどこか遠い。
まるで耳に花を詰め込まれた様にくぐもって、手を伸ばせば届くそこが異界の様に遠い。
それでも俺は周囲への警戒を怠っていなかったし、その警戒が意味を成さない可能性も十分に想定していた。
だから突然目の前に人が現れた事も、その人物が優雅に紅茶を楽しんでいた事にも然程驚かなかった。
鈍っていた知覚が唐突に戻った事には一瞬戸惑ったが、順応するのには瞬く程度の時間も必要としなかった。
だが、現れた人物に対しては大きく動揺してしまった。
「これはこれは――美しいお嬢さんと銀芯の獣追いではありませんか」
花畑の中で優雅に紅茶を楽しむその老紳士は、妖腕の花売りと同格とも言われる奇術師、古鞄の川流れだった。
「あら、良い茶葉を使っていらっしゃるのね?」
「これは自治領連産の紅茶ですが、産出元に気を配れば中々良い紅茶を楽しめるのですよ、お嬢さん」
王女様と古鞄の川流れは椅子に腰掛けて紅茶を楽しんでいるが、俺はそこに混ざる気にはなれない。
何で王女様は最初から三脚用意されている椅子に何の躊躇いも無く座れるのだろうか?
そして最初から三杯用意されていた紅茶を、淹れたての様に湯気を立てるその紅茶を、躊躇い無く飲むなんて何を考えているのだろうか?
実際の所は何も考えていないのだろうが。
「銀芯の獣追いもお掛けなさいな、と言っても無理でしょうから適当に楽にしていなさいな」
外見だけ見るのであれば身形の良い老紳士だ。
俺も含めて見てくれを気にしない奴が多い奇術師の中ではそれだけで異質とも言える。
古鞄の川流れは奇術師に見えない奇術師としても有名だ。
「飲みますか? と聞いても飲まないのでしょう?」
もちろん、飲む気にはなれない。
それを飲んだ王女様の状態を見れば。
「これは普通の紅茶ですし薬物の類は入っていませんが、この花畑では少々刺激が強いですからね」
王女様は一口紅茶を飲んだその状態で動きを止めていた。
硬直している訳では無い。その様子から感じる印象としては瞑想が一番近いかも知れない。
「予想しているとは思いますが、この花畑は奇術の様なモノです」
古鞄の川流れは紅茶の香りを楽しみながら鋭い視線で俺を見た。
値踏みする様な、哀れむ様な、俺の芯を見抜く様な、感じの悪い視線だ。
「奇術にはネタがある、と言う事か?」
「ええ、その通りです。この花畑は奇術のネタだけが残留してしまった場所、と言えばしっくりくるのでは?」
成程、腑に落ちる話だ。
通常奇術は奇術師が行使するものだが、その手を離れて尚ネタを失わない奇術がこの花畑と言う事か。
妖腕の花売り程の奇術師ですら成し得なかった、自動的な奇術。
奇術師の命題と言われる難問の一つだが、それに対する回答が遥か昔から泰然と存在していたと言う事か。
「この花畑は虚無を模した奇術の成れの果てと言うのが私の見解ですね」
「虚無? だとしたらここは存在しないと言う事か?」
「あくまで虚無を模した奇術ですよ。本来は有無も言わさぬ花畑だったと予測していますが、時間と共に劣化して大体花畑と言う程度の代物に落ち着いた様ですね」
いわゆる外包系と呼ばれる系統の奇術だろうか。
妖腕の花売りもその系統とされているし、古鞄の川流れもそうだ。
奇術と言う同じ言葉で括られているが、俺の様な接界系とはある意味別の奇術だ。
「それはそうとして、何であんたはここにいるんだ?」
「ちょっとした確認ですよ。私の奇術で花畑の中の事を知るには限界がありますのでね。その辺りを勝手な解釈で公言されてしまったので、事実の確認をしに来たのですよ」
まず間違い無く死んでいますけどねと言い加えて、古鞄の川流れは紅茶を口に含んだ。
その瞳がどこか嗜虐的な色を含んでいて、俺はぞぶりと震えた。
古鞄の川流れが妖腕の花売りの死を確認したと、古鞄の川流れよりも先に聖国が公表した時は違和感を覚えた物だが、やはり勝手に公表していたのか。
恐ろしい話だ、聖国は古鞄の川流れから何かしらの報復を受けた事だろう。
いや、本当に恐ろしいのは古鞄の川流れですら見通せないこの花畑か。
「本当に厄介な場所ですからね、この花畑は。それはそうと、銀芯の獣追いは死体屋の様な依頼でしたかな?」
「……」
ああ、迂闊にも忘れかけていた。
そもそも俺も依頼を受けてこの花畑に来たのだった。
「まあ、そう警戒しなくても良いのでは? 同じ国から依頼を受けた身でしょうに」
「……まあ、そうだな」
この場で古鞄の川流れと合流出来たのは幸運だったと言う見方も出来るかも知れない。
奇術師と一括りにされるが、異系統の奇術には総じて疎い。
異系統にも堪能な奇術師と言えば唯一風色の逃げ森がいるだけだ。
奇術師と奇術師が争う際、系統の組み合わせによる優劣が発生するのかは誰も分からない。
何せ奇術師の能力を客観的に数値化する基準が存在しないからだ。
奇術とは個人の資質が大きく寄与する上に、個々の奇術は独自性が高過ぎて単純比較が難しいからだ。
おまけに奇術師になろうと言う人間は総じて性格が破綻している。
それこそ風色の逃げ森が人格者と言う別名で呼ばれる程度には。
現に俺も古鞄の川流れを殺す方法を自然と考えているし、それは古鞄の川流れも同様である事は間違い無い。
それでも、一つはっきりしている事がある。
この状況下で古鞄の川流れと争う選択肢を選ぶのは悪手であろうと言う事だ。
古鞄の川流れはこの花畑の事を俺よりも遥かに理解している。
当然今聞いた情報に虚偽が混じっている事も考慮しなければならないが。
「同じ目的なのですから、同行しませんか? 少なくとも、単独行動するよりも生存率が上がるでしょうし」
どちらの生存率が? と言う質問は呑み込んだ。
「願っても無い事だな」
俺は心にも無い事を言う。
正直な所、古鞄の川流れは排除出来るのなら排除しておきたい。
そもそもが格上の奇術師なのだ。
「ではしばらくは休息しましょう。私の見立てでは大分消耗が激しいようですし、お嬢さんもしばらくは紅茶を堪能するでしょう」
古鞄の川流れはそう言って空いている椅子を手の平で指したが、俺は花畑に腰を下ろした。
古鞄の川流れを十分に警戒しながら、俺は王女様の様子を伺う。
その顔に苦悶や苦痛は見て取れず、あるのは深い安寧だ。
古鞄の川流れから齎された状況と併せて鑑みるに、本当に紅茶の味を楽しんでいるのだろう。
恐らくは外が知覚し難くなった分自分の内部に過敏になったが故の現象。
紅茶の味と香りに没頭しているのだ。
もし、これが別な感覚だったら……。
「この御嬢さんは痛み等を感じる前で幸いでしたね」
古鞄の川流れがしみじみと呟く。
俺はティーカップから湯気を立てる紅茶を凝視する。
飲むべきでないと理性が警告する。
飲むべきであると理性が警告する。
「今の内に感覚を調整しておいた方が無難ですよ? 花には棘のある種もありますし、何より殺す気であればそっと薄皮一枚切り裂くだけで事足りたのですからね?」
恐らくは何か仕込む気なのだろう。
だが、それを受け入れなかった場合の危険性は受け入れた場合のそれをはるかに上回るだろう。
自然と浅く速くなった呼吸を、深く緩やかな物へと移行させる。
心臓が早鐘を鳴らし、呼吸は揺らぎ、芯が震えた。
必要な危険だ。
俺は自身にそう言い聞かせてティーカップを掴むと、一気に煽った。
「全く、気品の欠片も無い飲み方ですね」
古鞄の川流れが吐き出す呆れた声を遠くに聞きながら、俺の意識は紅茶の味と香りに沈んだ。




