9 歴史と記憶と人柱
その花畑で、何を忘れましたか?
芯が殴られた様な衝撃を受けて意識を取り戻す。
実際にはその様な衝撃を受けてはいないのだろう。
それは紅茶の味が俺の脳髄を揺さぶっただけに過ぎない。
「情動は初期化出来ましたかな?」
身形の良い老人が話し掛けて来た。
誰だこいつは……そうだ、俺と共に花畑へと至った奇術師、古鞄の川流れだ。
俺の隣では王女が寝息を立てている。憎たらしい程穏やかな寝顔で。
「ああ……俺は?」
「丸一日程眠っていましたよ。まあ、無理からぬ事ですが」
……思い出した。強行軍でこの地点まで突き進んだ俺は、花畑によって歪んだ感覚を戻すために休息を取ったのだった。
花畑は危険な場所だ。
聖国が俺と共に古鞄の川流れを送り込まなければ、気付かぬ内に土に還っていただろう。
そして今は、今は?
「……すまないが、少し記憶が混乱している様だ。状況の確認をしたい」
「まあ、そうなるでしょうね。……色々な事が一気に流れ込みますから」
古鞄の川流れは優雅に紅茶を飲みながら、穏やかにそう言った。
紅茶の匂いが花畑の匂いを覆い隠す。
違う。強い紅茶の匂いが花畑の匂いを引き摺り出している。
花畑の匂いは花畑自身に呑まれている。
それだけでは無い、花畑以外の全てもまた花畑に呑まれる。
ある意味で花畑に最も抗っているのが花畑だ。
とまあ、これは花畑に踏み込む前に古鞄の川流れから聞いた話の受け売りだが。
「妖腕の花売りの死体を回収するのが聖国から受けた依頼で、今はまだその道中。不測の要素としてはそこで眠る王女の存在でしょうかね。まああとは、概ね予定通りですよ。概ね、ね」
「ああ、そうだった。しかし、この王女は何なんだ? カミノの名を冠する王女にしては印象が薄かったが」
確かあそこの王女に奇術被れが一人いた……何番目の王女だったかは忘れたが。
そうでなくとも王国の王族は揃いも揃って印象的で奇抜な奴等だったと思うが、この王女に関しては妙に印象が無い。
「ああ、それはこの王女が少し前の王女だからですよ」
「少し前?」
「まあ、そこは些事ですよ」
些事……そうか些事か。ならどうでもいいか。
「印象が薄いのは色々と混ざっているからですが……まあ、それは覚えていなくても良いです」
……。
「この王女は連れて行きましょう。この花畑に存在している時点で見逃す事も出来ませんしね」
古鞄の川流れはそう言って紅茶を飲み干した。
空のティーカップは何処かへと消え去り、椅子から立ち上がるとその椅子が消え去った。
机と傘もまたいつの間にか消え去っている。
「それに、花畑は何かを呑み込んでいる最中は比較的安全です。理論的には億の人柱を捧げれば、或いはより長い人生を歩んだ者や歴史ある物を捧げれば、それらは花畑に長く残留します」
例えばこの王女の様に、と言って古鞄の川流れは微笑んだ。
歴史のある……例えば王国か。
そして或いは聖国と封国か。
帝国は駄目だろう。あそこは先代の皇帝が築き上げた歴史の浅い国だ。
自治領連はどうだろうか? あそこの領群は興隆と衰亡が激しいが、不思議な事に衰亡した領は必ずどこかに取り込まれる。
結果的に歴史と言う観点では非常に複雑で長いそれを有しているとも言える。
「ならば、この王女が呑まれる時、この花畑は比較的安全になると言う事か」
「気を抜けば呑まれますよ? この花畑は貪欲で底無しですから」
古鞄の川流れは比較的安全と評したが、それは俺からすれば変わらず危険であると言う事だ。
今は信用出来るが、古鞄の川流れは本来信用出来ない相手だ。
俺は花畑で眠る王女へと視線を向ける。
この王女が何故この花畑にいるのか。それは本人すら知らない事だ。
そして、古鞄の川流れに見つかってしまった事は幸か不幸か。
どちらにせよ俺にとっては幸運なのだろう。
この王女がいる分だけ、俺が呑まれる未来が遠ざかるのだから。
しかし、歴史か……そうなると一つの疑問が残る。
何故妖腕の花売りは花畑に呑まれたのだろうか?
大陸を花で支配した程の奇術師だ。この花畑に無策で踏み入ったとは思えない。
そう言えば、妖腕の花売りの奇術はどの系統に属するのだろうか?
広範囲で花が蔓延っていた事を考えると外包系だろうが、一方で花は実在する。
外包系は古鞄の川流れに代表される様に実体を伴わない奇術を指す系統だ。
俺の様に実在する何かを操作する奇術は接界系と呼ばれる。
花を操ると言う点では接界系だが、一方で花を人に変えるのは接界系の区分からは逸脱している様にも思える。
花が散ったあの日、俺は幾つもの花を見分した。
花弁が人の形に整えられた花では無く、人と見分けが着かない皮を被った花をだ。
最初は本物の人皮を被った花かと思ったが、あれは人皮では無かった。
あれは確かに花弁だった。だが、人皮に似せた花弁で模られた人でも無かった。
花弁の一部、体表を構成する部分だけが人皮に変質していた。
何かを別の何かへと変える奇術は転質系と呼ばれる。
使い手が少なく、奇術師でなければその区分を知る者すら少ない。
あの花は間違い無く転質系の奇術が作用していた。
複数の系統を扱う奇術師は少ない。
少ないと言うより、一人しかいない。
その奇術師は……その奇術師は?
「どうしました? 銀芯の獣追い」
古鞄の川流れの声に、俺は意識を現実に引き戻された。
危ない。どうにもこの花畑の中では外界に対する意識が散漫になる。
「済まない、少し考え込んでいた様だ」
「考え込むなとは言いませんが、少し注意した方がいいでしょう。ある種安全ではあるので立ち止まっても構いませんが」
どうにもいけない、この花畑では花畑に居ると言う事自体を忘れそうになる。
「それでは銀芯の獣追いが目覚めた事ですし、少し移動しましょうか」
そう言って古鞄の川流れが立ち上がると、紅茶も椅子もティーカップも虚空に消えた。
それは古鞄の川流れの奇術による物か、或いは花畑の効果か。
いや? ティーカップと椅子は先程消えていなかったか?
俺の勘違いか?
「移動、と言ってもこの王女は?」
「貴方が背負うのですよ? 銀芯の獣追い。私の体格では少々骨が折れます」
古鞄の川流れ程の奇術師ならその程度造作無いとは思うが、口には出さない。
格上の奇術師は大抵の場合自己中心的で横暴の塊だ。
まあ、古鞄の川流れはまだマシな方だが。
仕方なく俺は王女様を担ぐ。
思いの外軽いその身体はまるで中に花でも詰まっている様だ。
我ながら不謹慎な例えだが。
しかしこの軽い、頭の中まで軽そうなこの王女様の中にはみっしりと歴史が詰まっていると言う事か。
しかし、そうなると……。
「ちょっとした疑問なのだが、古鞄の川流れ」
「なんですか?」
俺は思い付いた疑問を古鞄の川流れに尋ねる。
少なくとも、俺よりは遥かにこの花畑を理解しているであろう古鞄の川流れに。
「歴史のある物は長く残留すると言う事だが、例えばそれが偽物だった場合どうなるのだ?」
偽の歴史を纏った物品はこの世に多く存在する。
美術品には鑑定士をも欺く贋作が多く存在する。
この花畑が奇術を超越した現象なのであれば、花畑は正しい歴史を認識するだろう。
だが、古鞄の川流れはこの花畑は奇術に繋がる現象だと言った。
奇術が人間の認識によって実世界に影響を及ぼす事は広く知られている。
詳しい方法は忘れたが、人格者とも言われる奇術師によって実験証明された。
奇術は、人に認識されなくては成り立たない。
奇術の基本原則と呼ばれるそれは、感覚的に奇術を使っている奇術師達にえも言われぬ得心を齎した。
人格者とも言われるその奇術師……どの様な名前だったか?
「悪くない着眼点ですね」
ぱちぱちと手を叩く音で、埋没しかけていた俺の思考が引き戻された。
まともに何かを考える事すら容易ではないな、この花畑は。
「結論から言えば、花畑は奇術の成れの果てである以上ある程度人の影響を受けます。例えば特定の物品を歴史のある物だと認識する人が花畑の中に居れば、例え贋作であっても長い時間花畑に残留するでしょう」
「なら、それらしい物を大量に持ち込めば」
「無理ですね」
俺の思い付いた花畑攻略法を、古鞄の川流れは最後まで聞く事も無く切り捨てた。
「そう認識する人の方が先に呑まれるでしょうから」
言われてみれば納得出来る理屈だ。
この花畑で長期間滞在出来る者等極一握りだろう。
俺自身、ここまで危険な場所だと知っていればこの依頼を受けなかったと思う程だ。
「なので、さっさと用事を済ませてしまいましょう」
そう言って歩き始める古鞄の川流れの後ろを、王女様を担いで付いて行く。
「早く食い止めないと、どこまでも広がって行きますからねぇ……この花畑は」




