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二人でいたから  作者: 早瀬 薫
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第七章

 ある晴れた日、僕は京王線に乗り、調布の駅に降り立った。調布に来れば、子供の頃のことを何か思い出すかもしれないと思ったからである。それなのに、何も思い出せなかった。道行く人も誰一人として知った顔がなかった。駅周辺も新しい建物がちらほらあるものの、築三十年くらいの建物もたくさんあったし、僕はその一つ一つを丁寧に見て回ったが、何も思い出せなかった。

 駅前からバスに乗り、奈々子に教えてもらった、かつて彼女と通っていたであろう中学校を訪れてみた。校門の前に立って、辺りを見回したが、やっぱり何も思い出せなかった。周辺を歩き周ってみたが、見慣れた光景はそこにはなかった。仕方がないので、すごすごと調布駅に向かって歩き出した。少し距離はあったが、バスで帰るより歩いたほうが何か思い出せるのではないかと思ったからである。近くには都営空港があり、小型飛行機の発着する轟音が聞こえてきて、その音だけはなんだか懐かしいような気がした。だから、それが唯一の収穫といえば収穫だった。

 寄り道をしたり、周囲を眺めながらゆっくり歩いたおかげで、調布駅までの道のりに一時間もかかってしまった。少し疲れたのでどこかで休みたいと思っていたら、路地裏にレトロな趣のカフェを見つけたので入ってみた。店内は薄暗く、所狭しとたくさんのオブジェが置かれている。ネジまき式掛け時計、足踏み式オルガン、古いステンドグラスのガラス窓。コーヒーカップは比較的新しいもののようだったが、伊万里焼だった。コーヒーも手作りシフォンケーキも美味しかった。どれをとっても、雰囲気が良くて、何度でもここを訪れたいと思わせるような空間がそこには広がっていた。

 無性に、奈々子が恋しくなった。一人で出掛けてくると言って家を出てきたけれど、奈々子も一緒に来ればよかったのにと思った。彼女もこのカフェだったら、きっと気に入ったに違いないだろうから……。奈々子が開きたいと思っているカフェは、きっとカントリー風の可愛い作りのカフェなんだろうが、こんな古風な感じのカフェにもきっと興味を抱くだろうなと思う。奈々子はちりめんの小物が好きらしく、大正ロマン風の着物も集めていたようだし、彼女が着物を着て白いエプロンをつけて接待してくれるところを想像するだけで、なんだか楽しいなと思った。

 店内はいろんなレトロな小物で溢れていて、僕はしばらくそれらの一つ一つに見とれていた。薄暗いせいか各テーブルに火の点った蝋燭を入れた切子の小さなガラスコップが置かれており、僕はふいにその蝋燭の炎に気を取られ、ぼんやりと見つめた。しかし、突然眩暈がし、目の前に男の子の姿が現れた。七、八歳くらいの男の子だと思う。顔ははっきり見えない。なんだか懐かしい気がした。それなのに、誰なのか思い出せない。もしかして、自分なのかと思ったが、違うような気がする。誰なのか思い出そうとすると、頭が割れるように痛み、気分が悪くなってきた。心臓も早鐘を打ち出した。

 なんだろう? 何故こんなに突然気分が重くなるんだろう? もう少し蝋燭の火を眺めていたら、あの男の子が誰なのか思い出せそうな気もするが、胸が苦しいばかりで何も思い出せない。しかし、蝋燭の炎に嫌な気分にさせられるなんて、思いも寄らないことだった。しかし、そう言えば僕は火事に巻き込まれて、意識不明になったんだった……。それと何か関係があるのだろうか? だけど、僕は毎日工房でバーナーの炎を見ている。バーナーの青い炎を見て胸が苦しくなったことなんて一度もない。むしろ心地いいとさえ思っている。それなのに、蝋燭の赤い炎が怖かった。どうして怖いと思ったのだろう?

 僕は慌ててコーヒーを飲み干し、レジで支払いを済ませると外に出た。窒息しそうな気がしたからである。外は相変わらず、爽やかな風が吹き、空は青かった。一息ついたものの、その青さが僕の心を一層不安にさせた。


 今日はもう帰ろうと思い、調布駅に向かった。駅の改札を通り、ふと前方を見ると、そこには意外にも見慣れた姿があり、僕は錯覚でも見ているのかと思って驚いた。そこにあったのは、僕がプレゼントした白いジャケット着た奈々子の姿だった。本当に奈々子なのだろうかと思って、もう一度目を凝らしたが、やっぱり前を歩くその女性の姿は、まぎれもなく奈々子のものだった。彼女が肩から下げている鞄も見覚えのあるものだった。僕は奈々子に声を掛けようと近づこうとして、途中で思いとどまった。彼女があまりにも深刻な顔をしていたからである。初めて見る表情だった。奈々子がこんな表情をすることがあるだなんて思いもしなかった。今まで、喧嘩らしいことも何一つしたことがなかったから。

 でも、どうして奈々子は調布にいるんだろう? 僕を捜しに来たんだろうか? いや、違う。だって僕は近くの公園に散歩に行くと言って出かけてきたんだから。それに、彼女は今日は店に出勤すると言っていた。何故僕にそんな嘘を吐く必要があると言うのだろう? 普通に自分も休みだと言えばいいじゃないか。僕は奈々子を置いて、中目黒の自宅に帰るほうが絶対にいいような気がしていた。だけど、彼女が僕に内緒で、一体何をしているのか知りたい衝動を抑えることができない。だから、僕は腹を括り、このまま彼女を尾行することにした。奈々子は自宅とは反対方向の八王子方面のホームに向かっていた。

 電車の中で距離を取りながら、奈々子の様子を窺いつつ、いろんなことを考えていた。奈々子と再会したときのこと、プロポーズしたときのこと、ドライブに行ったり映画に行ったり温泉旅行に行ったり、十年間いつも一緒にいて、彼女のことで知らないことなんて何もないと思っていた。奈々子には過去の僕のことだけでなく、彼女自身のことも暇さえあればなんでも訊ねていた。その辺のカップルよりも、僕たちはなんでも話し合ってきたと思う。それなのに、彼女のことに思いを巡らせているうちに、全部知ってるなんて僕の傲慢な思い込みで、本当は何も知らなかったんじゃないかと思った。だって、僕は、奈々子が話してくれることは知っていたが、彼女が話してくれないことは知らないのである。彼女も僕と同じように天涯孤独の身だった。僕と再会するまでどんなことを考え、どんなことを苦しいと思い、どんなことを悲しいと思って生きてきたのか、何一つ知らなかった。十年間、毎日あれだけ時間をかけて、話をしてきたというのに……。

 そして今、奈々子が何をしようとしているのか、何一つ分かっていない自分がいた。僕はその事実に愕然とした。


第八章に続く

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