第八章
奈々子は、調布から五番目の駅にあたる東府中で降りた。僕も慌てて電車を飛び降り、彼女の後を追った。奈々子は北に向かっていた。頭の中にしっかり地図が刻み込まれているのか、それとも慣れた道なのか、甲州街道を横切り、しっかりした足取りでどんどん北へ向かって歩いていく。二百メートルほど行くと、航空自衛隊の基地にぶつかり、奈々子は右に折れた。そしてまた五十メートルほど歩いて、ある小さなマンションの前で立ち止まって上を向き、しばらくそのマンションの上階のベランダを眺めた。この建物の中に入るのに勇気がいるのか、立ちつくした奈々子のその様子は、随分躊躇っているようにも見えた。しかし、数分後には彼女はマンションの玄関ホールのドアを開け中に入って行った。その様子を僕は外からこっそり窺っていた。奈々子はインターフォンの前で立ち止まり、ボタンを押そうか押すまいか迷っているようだった。しかし、やはり勇気がなかったのか、彼女はボタンを押さなかった。奈々子はため息を吐き、鞄から取り出した手紙を二〇五号室の住人の郵便受けの中に入れただけで、玄関を出た。そして、来た道を帰って行った。再び東府中駅に向かったようだった。
僕は奈々子が去った後、二〇五号室の住人の郵便受けを確かめるために、玄関ホールの中に入った。郵便受けの名前は「柏木三郎」とあった。知らない名前だった。奈々子の旧姓は村上だったし、たしか彼女の母の旧姓は白川だったはずだ。だから、この「柏木三郎」という人物は親戚ではないのだろうなと思う。親戚で用事があってここに来たのだったら、躊躇せずにインターフォンのボタンを押すに違いないだろうし……。
腑に落ちないまま、ここを去らなければならないのかと思って、玄関を出ようとしたが、僕は急に踵を変え、インターフォンの前に立って、二〇五のボタンを押した。なんでそんなことをしたのか、今となっても分からない。だけど、その時は、何でもいいから何かをせねばならないと思ったのだ。奈々子が何をしているのか、少しでも手がかりが欲しかったんだろうと思う。
しばらくしてインターフォンに出たのは、年配の男性だった。僕は、振り返って咄嗟に二○四の郵便受けの名前を確認し、思わず「田中さんですか?」と嘯いた。その男性は「いえ、違いますよ。田中さんは隣の二〇四号室です」と丁寧に答えてくれた。僕は「すみません。間違えました」と謝り、その場を後にした。どう考えても、その声質から、柏木三郎という人物は、七十代を超えていると思われた。そういう年代の男性と奈々子は、何故接点があるのだろう? ますます訳が分からなくなった。
その後、僕は電車を二回乗り継ぎ、中目黒の駅に降り立った。そのまますんなり家に帰る気がしなかったので、駅からてくてく歩いて、代官山の本屋へ寄り道することにした。雑誌やら詩集やら立ち読みしたが、全く頭に入ってこない。いつもはここで立ち読みするのが楽しみで仕方ないのに、今はただ退屈な暇つぶしでしかなかった。帰るのが早過ぎると、奈々子と家の玄関でバッティングしそうで、それだけは何故だか避けたかったのである。バッティングしたところで、僕が彼女の後を付けていたことを黙っていれば、別になんてことはないはずなのに……。証拠作りというわけでもないが、本屋でアートジュエリーのデザイナーの作品集を買って帰ることにした。
家に帰り着いた頃にはもう日が暮れかかっていて、玄関扉を開けようとすると、偶然にも家の前の電柱の外灯にぱっと明かりが点った。家の中に入ると、奈々子は鼻歌を歌いながら、キッチンで夕食を作っていた。ニンニクを炒めているのか、台所から食欲をそそる匂いがしてくる。何の変哲もない、いつもの夕方の光景だった。それなのに、昨日とはまるで違った光景に見えた。
「おかえり。遅かったね」
「うん。ただいま。手伝おうか」
「いいよ。今日は私が全部作ってあげる」
「ありがとう」
「もしかして、一回帰って来て、また出かけた?」
「え? どうして?」
「だって、いつもだったら、もっと早く帰ってくるもん」
「今日は六本木の美術館に行ってたんだよ。美術館に行ってから、いつもの博物館の公園を歩き回って、ベンチに座ってぼぉーっとして、その後、本屋へ行った」
「またネックレスのデザインのことを考えてたの?」
「うん」
「亮ちゃん、考え事をしだすと際限ないものね」
「そうだね」
「もう紅葉してた?」
「まだだったよ」
「じゃ、もう少ししたら、今度、お弁当を作って行ってみようか?」
「いいね」
「いいでしょ」
夕食を終えると、奈々子はコーヒーを淹れ、ニヤニヤしながらトレイの上に山盛りのクッキーを載せて運んできた。
「また作ったの?」
「うん」
「昨日?」
「うん」
「このクッキー、なんだかいつもより赤いね」
「うん」
「さっきから『うん』しか言わないね」
「うん」
「ほら、また言った」
そう僕が言うと、奈々子はけクスクス笑いだした。
「何がおかしいの?」
「まぁ、食べてみて」
僕は奈々子にすすめられるままに、クッキーを一口頬張った。彼女は僕の顔を注意深く見ながら、なんだか不安そうな顔をしていた。それで「どう?」と聞いてきた。
「どうって、別にいつもと変わらない美味しいバタークッキーだけど?」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、大成功だね!」
「大成功だと思うけど、でもいつもと色が違うのが気になる……」
「亮ちゃんは気にしなくていいんだよ」
「なんで?」
「だって、味は美味しいんでしょ?」
「うん。あ、でも何か入れたんだろ?」
「入れたに決まってるでしょ。色が違うんだから」
「あーっ、もしかして……」
「うん、そのもしかして」
「まさか、人参?」
「大当たり!」
奈々子はそう言いながらクスクス笑っていた。
「うえーっ、食べるんじゃなかった……」
「うわー、ひどーい。亮ちゃんは好き嫌いが多すぎだから、工夫してあげただけじゃん。自分だって直したいっていつも言ってるでしょ? 今度はほうれん草を入れてあげるね」
「え……」
僕はそれを聞いて落胆した。楽しみにしているせっかくのコーヒータイムが台無しになるじゃないか……。でも、奈々子の言う通り、味はいつもと大して変わらなかった。こうやって、世の旦那さんは奥さんに調教されていくんだろうなと思った。
「それとね、お店を辞めた美和ちゃんからもらったんだけど、点けていい?」
見ると、奈々子は直径が五センチくらいの丸いピンクの蝋燭を手にしていた。僕はそれを見て、昼間、喫茶店で起こった出来事を思い出して少し嫌な気分になったが、「いいよ」と言った。
僕は奈々子がライターで蝋燭に火を点けるのをぼんやり眺めていた。蝋燭の炎を眺めていて、またあの男の子の顔が浮かぶのだろうかと思ったが、炎の向こう側には、男の子の顔ではなく、別の光景が浮かんだ。
僕は女の人に手を繋がれて、病院に向かっていた。多分、僕は子供なんだろう。目線が随分低い位置にあるから。その病院は産婦人科なのか、沢山の赤ちゃんがガラスのすぐ向こう側の細長いベッドに一列に並べられて眠っていた。僕も可愛いなと思って、赤ちゃんを眺めていた。すると、その女の人は、再び僕の手を取り病室に入って行き、ベッドに横たわっている女性に「おめでとう!」と言った。その女性のベッドの横に小さな生まれたての赤ちゃんを乗せたベッドがあって、僕は赤ちゃんを覘こうと思って、顔を近づけた。赤ちゃんの顔を見ようと思った瞬間、奈々子に「綺麗でしょ?」と声を掛けられ、ふと我に返った。
「え?」
「え?って、もう、人の話を聞いてなかったでしょ?」
「うん」
「綺麗だけど、私、あんまり蝋燭が好きじゃないの」
「そうなんだ……。実は僕もあんまり好きじゃないんだよ」
「蝋燭というより本当は火が苦手なんだけど……」
「でも、奈々とこんな風に蝋燭を点けて、クッキーを食べるのはいいなと思うよ」
「そう?」
「うん」
「じゃ、これからそうしようか?」
「うん」
「だってね、実はもらった蝋燭がいっぱいあるの。たまっちゃって、どうしようかと思ってたから」
「そうなんだ。じゃあ、これからそうしよう」
さっきまで、奈々子に昼間のことを訊きだそうかと思っていたけれど、蝋燭の炎を見ていると、なんだか訊く気が削がれてしまった。奈々子に別段変わった様子は見られなかった。変わったのは、僕の奈々子に対する印象だけだった。
第九章に続く




