第四十三章
その晩、僕は夢でうなされた。夢は一晩中続いた。いや、夢ではなく幻影だったのだろう。幻影という言い方もおかしいかもしれない。過去の記憶の回想と言ったほうが正しい。
奈々子は由美のところへ行かせた。僕が一人きりになりたいと言ったからだった。奈々子は「いや! 一人にしておけない!」と言ったが、僕は「お願いだからそうしてくれ!」と言ったら、奈々子は黙って家を出た。
奈々子が家を出た後、家中の物を投げて壊した。お揃いのカップや茶碗、旅先で買ったオブジェや二人で笑って写っている写真立てや部屋中に溢れている二人の思い出の品を手当たり次第手に取り投げつけて破壊した。
ひとしきり暴れた後、廃墟のように物が散乱した部屋の真ん中に疲れて座り込んだ。手を伸ばしたら、割れずに転がっていたブランデーの瓶が手に触ったので、そのままブランデーの瓶に口を付けラッパ飲みした。しかし、どれだけ酒を飲んでも酔えない。僕は瓶を放り出し、寝転がって静かに目を閉じた。いろんな光景が脳裏に浮かんでは消えた。それは、時の流れに逆らって出鱈目に現れた。明け方までそんな状態でいたが、気付けばうつらうつらしていて、蝋燭の炎が見えたと思ったら、そこから過去の記憶が一気に滑り出してきた。
幼い頃の奈々子がそこにいた。僕と兄と奈々子と奈々子の弟がいた。四人で神社の裏で犬を飼っていた。僕は家からパンを持って来て、食べさせていた。みんなで二匹の犬のことをペレ、ジーコと呼んでいた。僕は笑っていた。みんなも笑っていた。楽しかった。奈々子とはほとんど毎日一緒に過ごしていた。何故なら、僕が目を離すと奈々子はいつもいじめられていたから。なんだか放っておけない子だったのだ。でも、僕が奈々子と一緒にいる理由はそれだけではなかった。僕は、奈々子のことが好きだった。いじめられているのに、いつもみんなに自分のおやつを分け与えるような子だったから。だから、僕は奈々子が好きだったのだ。
父は工房で指輪を作っている。その横で母が笑っている。母は父が作っている指輪を指にはめて眺め、「まぁ、きれい! これ私にちょうだい」と言ったら、父は「バカ言ってんじゃないよ。それは、絹子さんのだからな。お前にはちゃんと別のがあるだろう?」と言った。
母は僕の手を引いて病院に行き、僕に生まれたての赤ちゃんを見せてくれた。赤ちゃんを産んだその人は母さんに「名前を主人と考えてたんだけど、正樹にしようと思うの」と言った。
今度は父が現れた。父はいつも兄貴分と慕っているおじさんといっしょに、おばちゃんの店で飲むのが日課らしい。僕は母に頼まれて、父を呼びに行かされた。一人で行くのは嫌だから、「にいちゃんと一緒に行きたい」と言ったのだが、部屋へ行ったらもう寝ていたので、僕は一人で店に行くことになった。母は「ごめんね。だって私が行くと、感じ悪いでしょ」と言って笑っていた。店に行くと、二人は盛大に酔っ払っていて、「親分が引退するから、中目黒の工房を継ぐことになった」とそのおじさんが言っていた。お店のおばちゃんは冷蔵庫の中から緑色の寒天ゼリーを出してきて、「これ、うちの子が子供の時に好きでよく作ってたんだけど、口に合うかな。亮ちゃん、おあがんなさい」と言った。僕は出された緑色の寒天ゼリーが、本当に宝石のようにキラキラ光って透き通っていて嬉しくて堪らなかった。店の奥を見ると僕より二つくらい年上の女の子が座っていて、僕に向かってあかんべーをした。僕も彼女に向かって同じようにあかんべーをした。
奈々子は暫くして引っ越していった。僕はなんだか胸にぽっかり穴が開いたような気がしていた。兄も何も言わなかったが、きっと淋しかったんだろうと思う。兄は奈々子が可愛がりに来なくなったペレとジーコを前よりも余計に可愛がっていたから。僕は奈々子に手紙を書いた。奈々子からも返事が来た。でも、暫くすると、学校の友達もたくさんできて、奈々子のことを忘れてしまっていた。奈々子からも手紙が来なくなり、きっと彼女も僕と同じなんだろうと思っていた。
僕が兄と家の前でキャッチボールをしていたら、兄が投げたボールが強すぎて工房の窓ガラスを割って中に入り、おまけにショーケースまで壊してしまっていた。父はカンカンになって怒り、「お前ら二人とも出て行け!」と怒鳴り、外に追い出され、鍵をかけて家の中に入れてくれなかった。仕方がないので僕は兄と二人で公園に向かった。日が暮れかかっている公園には誰もいなかった。兄はポケットから、ライターと蝋燭を取り出し、蝋燭に火を点けた。そのときに僕は左手に火傷を負った。母が迎えに来て僕たち二人を抱きしめた。僕は母に抱きしめられて安心しきっていた。
ある日、台風になり、父と母は家中の雨戸を閉めてしまった。昼間なのに雨戸を閉めているせいで家の中は真っ暗になり、電気を点けた。そのうち停電になり、母は蝋燭を灯した。外はびゅーびゅーと恐ろしい風の音がしているのに、なんだか楽しかった。そんなことがあってから、兄は父と母が家にいないとき、雨戸を閉めて、蝋燭を点けて遊ぶようになった。母は、工房のバーナーと台所のガスレンジを絶対に触ってはいけないといつも僕たちに言っていた。蝋燭だって同じことだろう、火を使ってはいけないということなのだから。でも、どんどん溶けていく蝋燭を見ているのは楽しかった。雨戸を閉めて真っ暗にして、蝋燭だけ点けていると特別な気分になった。けれども、ある日、大変なことが起こった。蝋燭の火がカーテンに燃え移ったのである。二人で一生懸命火を消そうとしたけれど、火はどんどん燃え広がった。外から帰ってきた父と母は僕たち二人を助けに来てくれた。僕は父に抱きかかえられて無事に助けられたが、倒れている兄を助け起こそうとした母も家の中で倒れ、それをまた助けに戻った父も帰らぬ人となった。僕は、この世にたった一人、取り残されてしまった。
孤児院へ行くことになっていたが、いつも僕たち兄弟を可愛がってくれていた近所の一人暮らしのおばちゃんが、「うちの子になればいい」と言ってくれたので甘えることにした。おばちゃんの優しさが胸に沁みた。おばちゃんはいつも優しく、本当の孫のように可愛がってくれた。おばちゃんには一生感謝してもし足りないと思っていた。父や母の分まで大切にしようと思った。奈々子が一人ぼっちになったことは、火事があって暫くして、おばちゃんから聞かされた。おばちゃんは「きっと奈々ちゃんも頑張っているよ」と言っていた。僕は奈々子に無性に会いたくなった。
中学生になり、隣のクラスに奈々子がいることに気付き、僕は驚いた。けれども、何故だか二人ともお互いに声を掛けられなかった。あんなに奈々子のことが気になっていたのに……。でも、一年のときも二年のときも靴箱に入っていたバレンタインデーのチョコの中に、奈々子のものが混じっていることに気付いていた。ホワイトデーのお返しを渡そうと思えば渡せたのに、僕は無視していた。僕に関わって彼女にとばっちりが行くのを恐れていたから。杉下をはじめとする不良グループと僕のグループはいつも敵対していた。僕は陸上部だったし走るのが早かったから、あいつらとは喧嘩にもならなかったが、一発殴って逃げたことはあった。杉下が奈々子のことを好きだということも知っていたし、僕が奈々子と一緒にいるところを見られでもしたら、とんでもないことになりそうだった。だから、僕は奈々子と接触することを極力避けていた。でも、卒業間際のバレンタインデーに奈々子から直接チョコを手渡されて、僕は嬉しくなって、彼女に家に来てもらうことにした。おばちゃんにも奈々子を会わせたかったのである。おばちゃんも酷く喜んでいた。これから、こんな幸せな日々は続くのだと思っていた。でも、それは幻想に過ぎなかった。
晴れ渡った日曜の朝、玄関のドアをドンドン叩く音で起こされた。「今日からここはお前らの家じゃない、出て行け!」とその男は言った。この男には半年くらい前から、いつも嫌がらせをされていた。今まで、居留守を使ったり、どうにかこうにか嫌がらせから逃れてきたけれど、今日はそういう訳にはいかなかった。玄関を開けずにいたら、玄関ドアを蹴破って侵入してきた。そして土足で部屋に上がり、一枚の紙切れをおばちゃんに渡した。そこには債権者の名前が書かれていた。その昔、おばちゃんが店を開くときに金を貸してくれた六人の男性の名前だった。おばちゃんは「待ってくれると言っていたのに! 月末にまとまったお金が入るのよ!」そう叫んだ。でも、その男は「明日の朝まで待ってやるから、ちゃんと出て行けよ」と捨て台詞を吐いて帰ってしまった。それから僕はおばちゃんと泣きながら荷造りをしたけど、その夜、彼女は台所で首を吊って自殺した。僕は、物置に置いてあった灯油缶を自転車の荷台に載せ、債権者の家に行き、一軒一軒火を点けて回った。迷うことなく火を点けていた。全部燃えてなくなってしまえばいいと思っていた。燃えてしまえば憎しみだってなくなるだろうと思っていた。炎はすべてを無にすることを僕は知っていたから。
そこまで思い出して、次に思い出したのは、少年院の無機質な部屋の壁だった。僕は毎日毎日死ぬことばかりを考えていた。生きていたっていいことなんかない、自分は人殺しで生きる資格もない、そう思って毎日を過ごしていた。僕はいろんなことを試した。トイレでズボンを脱いで、それをドアにはさんで縄の代わりにして首を吊ろうとした。針金をこっそり持ち帰っては、自分の首に突き立てた。あるときは栄養失調になって倒れた。その度に、僕は隔離されたり病院送りにされたりした。ベッドに紐で手足を括りつけられたこともあった。それでも死ねなかった。誰も死なせてくれなかった。少年院での無気力な三年の日々を過ごして、塀の外に出たら、父の兄貴分であり親友でもあったおやっさんが迎えに来てくれていた。おやっさんはやせ細った僕を見て涙を流した。僕はおやっさんのところで再生しようと試みた。この人の下で働けば、何かが変わるかもしれないと期待していた。けれども、頑張ろうと思えば思うほど、空回りして心が病んでくる。心が病んでくると体が動かなくなる。体が動かなくなると心がもっと病んでくる。そのデススパイラルは僕が死ぬまで永遠に続くと思われた。僕は毎日、死ぬしかないとそればかり考えていた。
そこから先は何があったのか思い出せない。僕はネットカフェの火事で死にかけて、記憶を失ったとおやっさんは言っていた。多分、僕が火を点けたんだろう。
最終章に続く




