第二章
僕が中目黒のジュエリー工房「believe」で働きはじめたのは十九歳になったばかりのときで、その半年後、近所で起こったネットカフェの火事に巻き込まれて、記憶を喪失してしまったらしい。建物が鉄筋コンクリートだったため、幸い延焼も免れたそうだし、死者も出なかったそうだが、二十人近くの人間が巻き込まれた大きな火事だったそうである。僕はそんなことも露知らず、その火事から、昏々と眠り続け、一年後に突然奇跡的に目覚めたのだった。「believe」の経営者であり、僕の師匠の宮前のおやっさんは、「治療をしても快復は絶望的である」という医師の言葉を信じず、僕の帰還をただひたすら信じて、生命維持装置を外さずに、治療を続けてくれた恩人だった。僕は孤児だったから、おやっさんは僕の親代わりのようなものだった。このジュエリー工房の名前も以前は「ジュエリー・ミヤマエ」だったのを僕が生き返ってから「believe」に変えたのだった。おやっさんは照れくさそうに「今風の横文字に変えたほうがしゃれてるだろ?」と一言僕に言った。おやっさんは本当にいい人だった。生き返ったのは良かったが、火事のおかげで幼い頃からの記憶を僕はすべて無くしてしまっていた。一体僕は何者で、どこで生まれて家族は何人で、どんな子供だったのかも全部忘れてしまっていた。けれども、おやっさんは十九歳の僕を当然覚えていてくれて、「お前は、ちっともしゃべらなかったが、仕事を一生懸命する真面目なヤツだったよ」と教えてくれた。ただ、この工房に来た時から、僕には家族がいなかったと言っていた。だから、僕にとって、おやっさんは師匠であり父親みたいな存在だった。
奈々子と初めて逢ってから、いや本当は十年ぶりに再会してからなのだが、その後、一年半ほど付き合って結婚した。自然な流れと言えばそうなのかもしれない。僕にも奈々子にも身内と呼ぶ人間が一人もいなかった。だから僕たちは磁石のように引かれ合い、いつも二人で一緒に過ごした。いつも二人で過ごしていたから、結婚してもしなくても同じといえば同じなのかもしれないが、二人とも家族がいない分、紙の上でも繋がりが欲しかったのかもしれない。僕は「believe」でジュエリーデザイナー兼ジュエリー職人として働き、奈々子は近所のケーキ屋でアルバイトを続けた。そんな平凡で幸せな日々を坦々と送り続け、気付けばあっという間に十年の歳月が流れていた。
僕は結婚十周年に彼女に贈る指輪を奈々子に内緒で作っていた。婚約指輪も結婚指輪ももちろん自分で作ったが、両方ともプラチナで、彼女は普段使いできるもっとカジュアルなものを欲しがっていた。だから、今度はゴールドかシルバーにしようと思っていた。僕の性格からして、どちらかというと男性向きのようなゴツゴツした感じのアクセサリーを作りがちなのだが、奈々子は少女趣味的なものが好きなので、彼女の趣味に合わせて繊細な感じのデザインのものを作っていた。何せ十月十九日は、結婚十周年という記念すべき日なのだから、この際僕は自分の好みを封印して、彼女のためだけに大奉仕すべきなのである。当然と言えば当然である。だって、愛する妻のためなのだから。
僕は、奈々子と結婚してから、いや、付き合っているときからそうだったのだが、ことあるごとに、昔の自分のことを彼女に訊ねていた。僕は前から、クッキーが好きだったのかとか、いつもどんな格好をしてどんなことをしていたのかとか……。無口だった僕が、奈々子に出会って、自分でもびっくりするくらい饒舌になっていた。勿論、奈々子のことも根掘り葉掘り訊いていた。どんなことが好きで何が趣味だったのかとか、昔から甘いものが好きだったのかとか、あるときは、どんな男と付き合っていたのかとか訊くあり様。いつもは辛抱強く僕の質問につきあってくれるのに、どんな男と付き合っていたのかと訊いたときは、さすがに奈々子も堪忍袋の緒が切れたようで、「そんなことは別に知らなくてもいいんじゃないの?」と怒って、口をきいてくれなくなった。けれども、僕の悲しい顔を見ると、根が優しい彼女はすぐに機嫌を直し、「ごめん、亮ちゃん……」と謝ってくれた。だがしかし、やっぱり昔の彼氏のことは教えてくれないのだった。
第三章に続く