第一章
この作品は、先に投稿した「トワイライト」の基となる作品で
設定が「トワイライト」に非常に似通っています。
けれども、内容は大幅に違っており、全くの別作品になっています。
この作品は、他の作品と違い、私らしいギャグ要素がほとんどなく、苦しみながら書きました。
ラストは自分らしいラストになったかなとは思いますが…。
十年前の十月十九日、僕たちは、通りがかった街の小さな教会で結婚した。
二人だけの結婚式だった。
持てるものは何もなく、そこにあったのは、ほんの少しのお金と希望だけ。
そんなものしかなかったけれど、僕たちは幸せだった。
そんな小さな幸せは永遠に続くと思っていた。
だって、多くを望んだわけじゃないから。
小さな望みだったら、神様は叶えてくれるだろう、そう思っていた。
「おーい、奈々、コーヒーが入ったよ」
「はーい、ちょっと待って。もう少しだから」
「それ、僕が干してあげるから、先に飲みなよ」
奈々子の好きなブルーマウンテンの豆を手動のコーヒーミルでガリガリと引き、丁寧にお湯をそそぎながら淹れたコーヒーだった。
「わー、ほんと? じゃ、先に頂いていい?」
「うん、冷めるから先に飲みなよ」
「亮ちゃんは?」
「いいから、いいから。奈々のために淹れたんだから」
「え、でも……」
「先に飲んでなさい!」
「はい、分かりました!」
僕は家の裏手にある小さな庭の物干し台に向かうと、奈々子が洗濯カゴに残していたシャツを大急ぎで干し、居間に取って返した。奈々子は、昨日自分で作ったチョコチップ入りクッキーが入ったブリキ缶を出してきていて、クッキーを三枚小さな皿に載せると「はい、どうぞ」と僕に渡してくれた。
「ねぇ、亮ちゃん、無花果って好きじゃなかったっけ?」
「なに? 突然」
「昨日ね、お隣の佐々木さんがいっぱいくださったの」
「ふーん。残念ながら無花果は、あんまり好きじゃないな」
「群馬のご実家の庭にいっぱい成ってるんだって」
「そうなんだ」
「珍しいよね。果物好きの亮ちゃんが嫌いだなんて……」
「どうしてなんだろうな。水分がないからかな。あのネットリ感があんまり好きじゃないのかも……」
「じゃ、無花果クッキー作るの、やめようかな」
「あ、無花果クッキーは好きだよ。生で食べるのが苦手なだけで」
「そうなの?」
「うん。無花果ジャムも大好物」
「めんどくさいヤツ!」
そう言って奈々子は笑った。
奈々子の作るクッキーはどれも美味しい。僕は彼女と過ごすコーヒータイムが何よりも好きだった。
僕が奈々子に初めて出逢ったのは、僕が勤めるジュエリー工房に彼女が客として来たときのことだった。あのときは五月でまだ梅雨時には早い時期だったのに、一週間ずっと雨が降り続いていた。雨の日を嫌いな人は多いと思うが、僕は何故だか雨の日が好きだった。雨の日に初めて奈々子に出逢ったからかもしれない。奈々子は水色の地にピンクや白やオレンジの水玉模様をちりばめた傘をさして、工房にやってきた。彼女は傘をたたむと入り口にそっと立て掛け、工房の一角にあるショップのショーケースの前を随分長い間ウロウロと歩き回っていた.。購入する物をなかなか決められないようだった。僕の性分からすると、接客して押し売りするなんてもってのほかで、だから長い時間、彼女を一人で放置していたのだが、あまりにも決めかねているので、「何かお困りで?」と痺れを切らして彼女に声をかけた。彼女が言うには、親友の誕生日にネックレスをプレゼントしたいのだが、オシャレな彼女だからどれにすればいいのか分からない、少し困っているということだった。だから、選ぶのを手伝ってほしいとも言った。奈々子の話をあれこれ聞いていると、親友はいつも小ぶりのものを身につけているらしく、ちょうど今制作中の小さなシルバーの四つ葉のクローバーがいいのではないかと思ったので、その旨と三日後にもう一度来てほしいということを伝えると、大喜びで彼女は帰って行った。帰るころにはすっかり雨も止んで日が差していたので、お決まりのように奈々子は傘を忘れていった。しかし、三日後に彼女は来るはずだから、傘はその時に返せばいいと思っていた。案の定、きっちり三日後に奈々子は工房を訪れ、できたばかりのネックレスを嬉しそうに受け取ると「どうも、ありがとうございました」と丁寧にペコリと頭を下げて帰って行った。ほっとしたのも束の間、奈々子が再び傘を持ち帰るのを忘れていることに気付いた。住所も電話番号も聞いておらず、はて、どうしたものか?と思案していたのだが、そのまた三日後に、彼女は再び工房に現れた。傘を取りに来たのと、手製のクッキーを僕に渡すために……。
ちょっとびっくりした。店をやっているから、客にありがとうと言ったり言われたりすることには慣れていたが、クッキーまでもらったのは生まれて初めてのことだった。とくに僕は不愛想だったから、若い女性にそんなことをされたことが一度もなかった。その時、僕は照れくさかったのだが、コーヒーを淹れることにはこだわりがあったので、奈々子にクッキーのお礼にコーヒーを飲んでいかないかと誘ったのだった。その時の彼女が持参したバタークッキーの香ばしい味は今でも忘れられない。
「あのネックレス、友達にすごく喜んでもらえたんですよ」
「へー、それはよかった」
「クローバーもすごく好きだって言ってました。お店の住所を教えてと言われたので、彼女、近々、ここへ来るかもしれませんよ」
「そりゃ、ちょっと困ったな」
「え? どうして?」
「いや、人見知りをするもんで……」
「そうなんですか?」
「ええ」
奈々子は僕の顔を見てクスクス笑っている。
「でもお客さん商売をやってる人がそんなことを言うなんて、ちょっと変わってますね」
「そ、そうかな」
「でも、商売人というより、職人気質というか、芸術家って感じがする……」
「それって、褒め言葉ですか?」
「そうですよ」
そう言って、奈々子は僕の目を真っ直ぐ見据えて微笑んでいた。僕は少し照れた。
「じゃあ、こんな風にコーヒーをお客さんと飲むなんて滅多にないんじゃないですか?」
「滅多にないどころか初めてですよ」
「そうなんですか? それはどうもありがとうございます」
「いえ、どういたしまして。……というか、クッキーまで頂いたんだから、当たり前でしょ」
「そうですか?」
「そうですよ」
その後二人で黙々とクッキーを頬張っていたのだが、奈々子は急に何かに気付いたように大きく目を見開き、僕の顔をじっと見た。そして「加山君ですよね?」と一言言った。良く知りもしない女性に、突然自分の名前を呼ばれるなんて思ってもいなかったので、僕はびっくり仰天した。
「は、はい? そうですけど、僕、自己紹介したかな……」
「ちょっと、左手の甲を見せてもらえますか? さっき、ちらっと見えたんですけど、傷痕がありますよね?」
僕は左手の甲をじっと眺めた。そして、少し躊躇しながらも奈々子に見せた。
「この傷ですか?」
「ええ。ほら、やっぱりそうだ! 火傷の痕があるもの!」
そう言いながら、奈々子は手の甲の十円玉くらいの大きさの傷痕を眺めていた。
「この傷を知ってるんですか?」
「?」
「この傷痕を前にも見たことがあるってことですよね?」
「え、ええ」
「僕はこの傷がどうやってできたのか分からないんです」
「え? そうなんですか?」
「僕はてっきりこの工房で働くようになってから、できたのかと思ってました」
「加山君、私は村上奈々子です。私のことを覚えてないんですか? 私、中学生三年生の時、加山君の家に行ったことがあるんですよ」
僕は奈々子の顔をじっと見つめたが、彼女のことを一向に思い出せなかった。
「……すみません。全く覚えていないみたいです」
「……」
奈々子はがっくりしたのか、僕のことを呆然と見ていた。
「ごめんなさい。実は、僕は僕自身のことも覚えていないんです」
「えっ? ど、どういう意味?」
「ある日、気付いたら僕は全く身動きの取れないまま、病院のベッドの上で寝ていたんです」
あの時の奈々子の口をぽかーんと開けたままの間の抜けた表情は、今思い出してもおかしくてたまらない。あの後、僕の左手の火傷の痕について話したが、奈々子の話によれば、中学生三年生の時には、すでに傷痕はあったそうだ。
なんで奈々子にあんなことをしゃべったんだろう? 三度目とはいえ、初対面に近い、お互いのことをよく知りもしない女性に、いきなり、自分は何も覚えていないんだなんて……。いや、奈々子は中学の頃の僕のことを多少なりとも知ってはいるのだろうから、彼女にしてみたら懐かしさでいっぱいで、初対面だなんて思ってなかったのかもしれない。それにしても普段人見知りする僕が、あんな風にぺらぺらと自分のことをしゃべるなんてあり得ないことだった。二人でこの時のことを今でも話したりするが、奈々子は「きっと私が作ったバタークッキーが美味しすぎたのよ」と言っていつもはぐらかすのだった。
それにしても、この左手にある火傷の痕は、一体いつどんな理由でできたのだろう? いつもはこの傷のことなど気にしたことがなかったが、改めて他人に傷のことを問われると、気にせずにはいられなかった。
第二章に続く




