89.中等部二年 バレンタインデー 3
それからは長い長い一日だった。休み時間のたびに、綱に桝さんからの伝言を伝えようとしては、伝えられないのを繰り返した。
呼び出しがあったからだとか、移動教室だったから、だとか、周りに人がいるからだとか、言い訳を積み重ねて、気がつけばホームルームも終わりを告げる。
最後のチャンスになってしまった。
教室から出て行く桝さんは、私の顔を一瞬だけ見つめた。
私はその意図を正確に読み取って、ギュッと拳を握る。そうだ。伝えなきゃいけない。
「……綱」
喉がカラカラだ。
「どうしました?」
不思議そうに私を見つめる綱の顔はいつものものだ。
「あのね、」
口ごもる。
どうして伝えたくないんだろう。綱の下駄箱に詰まったチョコレートは、素直に喜べていたのに。休み時間に呼び出される綱を、嫌だと思ったりしなかった。むしろ誇らしいとすら思っていたのに。
それなのに。どうして、桝さんは、桝さんの言葉は嫌なんだろう。
グチャグチャした自分の心が汚くて嫌いだ。桝さんをすごいと思う一方で、忌々しいと思ってしまう。どうしてそうなのかわからない。綱にとっては良いことだと思うのに、嫌だと思う。
することはわかってる。言わなきゃいけないとわかってる。でもしたくない。伝えないという選択肢はないのに。
なのに。
「……桝さんが、放課後、……いつものところに来て欲しい……って」
俯いてようやく口にして、顔があげられないのはなぜなんだろう。たったこれだけ、ただの伝言。それ以上でも何でもないのに。
「そうですか」
綱の声はいつも通りだ。
「わかりました」
答えを聞いてとっさに顔を上げた。綱は無表情だった。
嘘だと思った。なぜだか私は断ると思ったのだ。理由もなく、断ると思ってた。
でも、綱は断らなかった。
胸の奥に凝り固まっていた黒い鉛は、綱の一言でスッパリと割れた。カラリと音を立てて転がる。何かが終わったと、そう思った。
「私、先に帰っているわね」
こんな気持ちで待たされるなんて嫌だ。
「今年は待っていてくれないんですか?」
綱はジッと私を見た。あの真っ黒な瞳だ。柔らかく円やかなオペラケーキのような黒。泣きたくなって綱を見返す。
だって、どうしたらいいのかわからない。
「だって、」
「だって?」
綱が聞き返す。
だって惨めじゃないか。
惨め? 何が惨めなんだろう。去年だって同じように待っていた。今年だって同じはずなのに。どうして惨めだと思うんだろう。
違う、そうじゃない。そうじゃなくて。
「だって、私がいたらゆっくりできないんじゃない?」
そうだ。去年だって走って帰ってきてくれた。だから。
私が残っていると思えば、桝さんと綱だけが知っているいつもの場所で、バレンタインの特別な時間を過ごすことができない。
そう思ったら、自分がすごくお邪魔虫のように思えた。
「ゆっくりしなくて済む理由が欲しいんですよ」
綱が言う。
「どういうこと?」
「姫奈を待たせていると言って帰るんです」
綱は笑った。
胸に落ちた鉛の塊がユルユルと融けてゆく。綱の一言で解けてゆく。
「綱まで私を弾避けに使うの?」
思わず皮肉が口から飛び出して、それが自分でも可笑しかった。
「私の場合は事実です」
「そうね」
「だから、待っていてください。すぐに戻ります」
「わかったわ」
「フラフラしないでくださいよ」
「わかったわよ」
「教室にいてくださいね?」
「わかってるわよ! さっさと行きなさいよ!」
もう乱暴に追い立てるくらいの元気が戻って来た。
綱は後ろ髪をひかれるようにして、教室の出入り口でもう一度だけ振り返ったから、シッシと追い払ってみる。
綱は肩をすくめて教室を出て行った。
まだザワめきの残る教室。氷川くんはまた女子に呼び出されている。私は大人しく自分の席に座って、その様子を眺めていた。
「バナナ姫ー!」
クラスの男子に声をかけられムッとする。
ああん? という勢いで睨めばヘラヘラと笑われた。
「ブロンズが来てるぞー」
呼ばれて廊下に出てみれば、ブロンズカラーの女の子たちが五人一緒になってやってきていた。
「あの! 姫奈子先輩! 受け取ってください!」
一斉に差し出された小袋のお菓子たちが、パステルカラーに華やいでいる。
「まぁ! ありがとう! 嬉しいわ!」
先輩風を吹かせて微笑んで受け取れば、キャーと歓声を上げて駆けて行った。うん、今年の一年生は元気だな。
「人気だな」
氷川くんに笑われる。
「氷川くんほどではないですけど」
答えれば、氷川くんは苦笑いをした。
「白山さんはあげにいかないのか?」
「もうお友達にはあげましたよ?」
「そうではなく……」
氷川くんが目をそらして言いよどむ。この人が言いよどむ時はろくなことがない。まぁ、きっぱり命じる時にもろくなことはないが。
そうか。
「もしかして、氷川くんも友チョコ欲しかったんですか?」
「ちが、そうではない!」
「ですよね。それだけたくさんあればもう十分ですものね」
「……いや、そうでもないけれど……」
「欲張りですね?」
「欲張りか……」
「欲張りです」
きっぱりと言い切れば、氷川くんは噴き出した。
「俺は案外欲張りなのかもしれないな」
愉快そうに笑う氷川くんを私は不思議に思って見た。
廊下の向こうから綱が走ってくるのが見える。氷川くんに別れを告げて、綱のカバンを取りに行く。
今年もまた走らせてしまった。走らなくてもいいよと、そう思うのに、今年は走って帰ってくるのがなぜだかとても嬉しかった。
「お待たせしました」
「大丈夫よ。待っている間に私も貰ったの」
さっきの女の子たちから貰った友チョコを見せる。
綱はそれを見て幸せそうに笑う。
それなのに、綱の持っている桝さんのチョコレートを見て、素直に笑えない自分が汚くて悲しかった。
桝さんのチョコレートは高級ブランドのものだった。一見して本命だとわかる紙袋。小さくなんてないサイズだ。
私が綱に用意したのは、不格好な手作り塩味クラッカー。頑張ってラッピングはしたけれど、どう考えても見劣りする。今年は綱に渡すのを止めてしまおう。本命だってもらったことだし、迷惑に違いない。
思わず紙袋をじっと見つめていれば、綱は袋を小さく上げて笑った。
「当選祝いだそうです」
綱はそう言ったけれど、そうではないのだということぐらい、私にもわかった。聡い綱のことだ。きっと綱だってわかってる。
だけど私は冷やかすことすらできずに、曖昧に笑った。
「姫奈は何を作ってくれたんです?」
「え?」
「シェフに何か教わっていたでしょう?」
貰うことを当然のように聞いてくる優しい綱の瞳は、柔らかなブラックチョコレートだ。
「今年はクラッカーにしたの」
「クラッカー?」
「甘いものばかりだから、しょっぱいのも良いかと思って。チーズを挟んで」
「いいですね。チーズは大好きです」
知ってるわ。綱が好きな物なんてなんだって知ってるわ。
胸に何かがこみあげてきて、鼻の奥が痛くなる。思わず鼻をすすりあげた。
「寒いですね」
綱が笑う。
「寒いわね」
私も笑う。
「早く帰りましょう」
差し出された綱の手を、私は躊躇いながら取った。温かい綱の手に包まれて、自分の手がどれだけ冷たくなっていたかを自覚する。
氷のように冷え切った手だというのに、綱は不平の一つも言わない。
「優しいのね」
思わずこぼせば、聞き取れなかったのか、綱は不思議そうに首を傾げた。
「何ですか?」
「寒いって言ったの!」
「だから早く行きましょう」
グイと手を引かれて、胸までジンワリと温かくなった。







