67.合唱練習
ただ今、ホームルーム中である。
文化祭の合唱について話し合いが行われている。曲とパートを決めるのだ。私は合唱に詳しくはないし、別に歌も上手くはないので、他人事のように聞いていた。
決まったことに従うまでである。
私はぼんやりと、前に立つ綱を眺めていた。堂に入った司会進行に惚れ惚れとする。声が良いからとても気持ちがいいのだ。
そういえば、生駒の司会も格好が良かったと思い出す。資質とは遺伝するのだろうか?
綱も生駒のように出来る男になるのかしらね?
合唱曲が決まったようで、後はパート分けだ。
伴奏は氷川くん。指揮は綱だろう。私はアルトがいいな、歌う部分少なそうだし。どうでもいいけどなんか眠い。早く決まらないかな。
欠伸を一つこっそりと手の中に隠そうとした瞬間。
「指揮は白山さんがいいと思う」
突然の氷川くんの声に、開きかけた顎が外れるかと思った。欠伸を見られてた?
「反対します」
即座に綱が答えた。
「なぜ?」
「クラス委員が務めるのが定番だと思います」
「定番だが決まりはない。桝さんは苦手だろう?」
氷川くんが桝さんを見れば、桝さんはコクコクと頷く。周りの目はそんな桝さんに少し冷たい。芙蓉会でクラス委員長である彼女が、当然やるべきだと思っているのだ。
「私がやります」
綱が言う。
「生駒には男声パートのリーダーをやって欲しい。この曲は男声パートが難しいし、変声期の男子も多いから、落ち着いている生駒が適任だと思う」
確かに声が良いもんね。氷川くんも気がついていたか。
「姫奈には無理です」
「なぜ、生駒が断るんだ。何を心配しているのか知らないが、白山さんには前に立つ資質があると思う」
「皆の前で失敗させるのは酷です」
ボソリ、教室の片隅から「氷川くんに逆らうなんてスゲーな」と呟きが聞こえた。「桝さんが断るからいけないんじゃない」と綱を庇うような声もする。
私はヒヤリとした。これは、あまり良くない。直感的にそう思う。
「失敗を前提にするのか? チャンスかもしれない」
「リスクが大きいと思います」
「それに白山さんは、人の口を借りずとも自分で断ることができるだろう?」
口論のような議論。
氷川くんがこちらを見て、心臓が飛び上がった。
桝さん以外の皆が私を見ている。桝さんは小さくなって俯いたままだ。
「白山さんはどうだ」
氷川くんと綱も私を見る。
私は胃をキリキリさせながら、言葉を絞り出した。
「……私は……構いません」
綱が呆れたように私を見た。
せっかくの綱の善意を無下にしたのは悪いと思う。だけど、この状況で断れる神経をあいにくと私は持ち合わせていなかった。
断ったら桝さんが矢面に立つことになるだろう。あんなに気弱な彼女に、すこし酷だ。
「綱の歌も聞きたいし」
「では決まりだ。白山さん、今日の放課後パート練習用の録音に付き合ってくれ。その後指揮の練習だ。芙蓉館の談話室を借りよう」
「……ハイ」
やっぱり文化祭も本気ですか。そうですよね。
放課後は芙蓉館の小さな談話室でパート練習用の録音となった。談話室には、小さなピアノが置いてあるのだ。
氷川くんと綱と三人で芙蓉館へ向かった。芙蓉館のカフェには見知った顔がいて、口々に挨拶をする。
氷川くんはホワイトボードに付いている談話室の札を使用中に変更して、録音中と書き入れた。
「生駒は待っていてくれ」
氷川くんに言われて、綱は渋々カフェに留まる。録音には雑音を入れたくないということで、二人きりだ。
氷川くんと私は、カフェの奥にある談話室の扉を開けた。
「強引な形になってしまったが、大丈夫だったか?」
氷川くんが気まずそうに尋ねてくる。
「大丈夫です。それより綱が失礼しました」
教室の件を謝っておこう。ご不興をかってしまっただろうか。
「いや、生駒が意見を言うのは構わない。だが、なぜ白山さんが謝るんだ?」
シッカリとした視線で見据えられドギマギとする。
「えっ……?」
「不思議に思っていたんだ。今日の件もだが、生駒が白山さんへの依頼を断るのもおかしな話じゃないか?」
「……そう、です、か?」
私にとっては普通だった。私のために綱が何かしてくれるのも、私のせいで謝るのも良くあることだ。私だって、綱のために謝るのは何でもないし、当たり前だと思っていた。
なにかおかしいの?
「家族や婚約者なら納得だがな」
「……綱は家族みたいなものだからかしら?」
「確かに生駒はまるで白山さんの父親みたいだな。でも違うだろう?」
氷川くんが小さく笑った。
「確かに違いますね」
私も苦笑いする。周りから、保護者保護者と言われていて、不快そうに顔をしかめる綱を思い出した。
「保護者と呼ばれるのは綱も不本意みたいです」
「だとしたら、生駒も『大事大事病』を控えないとな」
「何ですか? 大事大事病って」
「知らないのは白山さんだけだぞ? 生駒は白山さんに対して病的に過保護だと有名だ」
全くもって不本意だ。全然大事になんてされてない。
「そんなことないです! 勉強の時だってポカポカ叩くんですよ?」
憤慨すれば、氷川くんは笑った。
「そうか」
「そうです!」
「さて、そろそろ始めるか」
「はい、録音すれば良いですか?」
「ああ、でもまずは少し練習させてくれ」
氷川くんがピアノの蓋を開けた。赤い布を取れば、白黒の鍵盤が現れる。少し深爪の長い指は節だっていて、好きだったなぁ、なんて思う。
前世では何度か無理矢理に繋いだ手。先を歩く氷川くんを一生懸命追いかけて、その手を取ったっけ。少しでも自分を見て欲しくて。前ばかり見る氷川くんに振り向いて欲しかった。
しかし、思いかえせば、氷川くんからは繋いでくれたことはなかったと気がつく。
曲を弾く前の習慣は前世と同じだ。氷川くんは、ハノンの二番で指をほぐす。
談話室のアップライトピアノの音は、前世ぶりで懐かしかった。昔はここでよく氷川くんに強請ってピアノを弾いてもらったものだ。氷川くんが私の好きな曲を弾いてくれる、幸せな時間だった。
しんみりとそんなことを思い出しながら、氷川くんの音に聞き入る。性格の通り、真面目で正々堂々としたタッチ。楽譜を正確に弾くのだ。それも懐かしい。
でもそれは、もう二度と、私のためには弾かれないピアノだ。
「とってもいい音ですね」
「そうか? ハノンだぞ?」
「ええ、好きです」
「そうか」
氷川くんはパートごとの旋律を演奏し、私がそれを録音する。
全てのパートを取り終える。主旋律だけといえど、これだけ弾けるのだ。素晴らしいと思う。伴奏についてはまだ練習中だ、と氷川くんははにかんで笑った。
曲を聞きながら、楽譜の解釈を書き込み説明してくれる。選んだ曲は、結構難しい曲らしい。ありがちな合唱ソングの歌詞は、いまいちピンと来なくて押しつけがましいけれど、メロディーはとても綺麗だった。
「素敵な曲ですね」
「ああ、ハマればすごく良い曲だと思う。ただ、声の入り方が難しいから、それは指揮者の腕にかかっていると思う」
「……善処いたします」
氷川くんの言葉に身体を固くする。
「指揮についてはまた今度にしよう。遅くなってしまった」
「はい」
一気に詰め込まれても対処しきれないから助かった。
「今日は無理を言ったから、お礼と言うわけではないけれど、何かリクエストがあれば一曲弾かせてくれ」
鍵盤を見つめたまま、氷川くんが言った。
私は驚いて息を飲む。
もう、私のためには弾かれないと思っていた、そのピアノ。それを弾いてくれるというのだ。たった一度きりのチャンスかもしれない。
だとしたら、私が望むのは。
図々しいとわかっているけれど、最初で最後ならば。
「パガニーニによる大練習集 第三曲をお願いします」
「ラ・カンパネラか。また難しい曲だな?」
氷川くんが、真意を問うような眼で私を見る。私は知っている。彼がこの曲を弾けることを知っている。中学生にしては大きな手、その手が無理して紡ぎ出す音。
「弾けませんでしたか?」
伺うように氷川くんを見れば、困った顔をする。
「楽譜はあるか?」
ピアノの横にある本棚から楽譜を探し出す。多分、あったはず。前世でもここの楽譜を使っていたはずだ。
「ありました!」
見つけ出して、嬉々として見せれば氷川くんは呆れたように笑った。
「望みのように弾けるかわからないぞ」
「難しいことは知っていますから。憧れの曲なんです」
「ピアノをやっているのか?」
「いいえ、ヴァイオリンをやっていたんです。いつかはパガニーニをと思っていましたが、もうやめてしまいました」
「そうか」
大好きな曲。大好きな音。大好きだった人。
「楽譜を捲ってくれ」
「はい!」
大好きだった時間。
スレンダーなアップライトピアノの前に、氷川くんが腰かける。なめらかな白い肌のような鍵盤を撫でるような大きな手。黒い鍵盤は髪のように音に乗って跳ねる。
氷川くんのラ・カンパネラは少しゆっくり目だ。楽譜を捲るタイミングに合わせて少しテンポを落としてくれる。たまにご愛敬のミスタッチ。
真剣な顔で楽譜を見つめる氷川くんを、眺めるのが好きだった。楽譜を捲る瞬間の緊張感と、タイミングよく捲れた時の安堵と達成感。
全部、全部、好きだった。
この時だけは二人っきりで、息を合わせて何かできるって。私はこの人の役に立てるって、そう実感できたのだ。ずっとこうしていけるって、信じてた。
親指のから遠く離れた小指が、澄み切った高音が、薄いクリスタルのグラスを弾いたように切なく泣く。
胸がいっぱいになる。もう好きになってはいけない人。もう二度と好きにはならないと決めた人。
深く力強い低音はのびやかに堂々と空気まで震わす。
低音の鐘が打たれ、余韻が響く。氷川くんは吐息を漏らした。私はそれで我にかえって拍手した。
素晴らしかった。
するとドアの方からも拍手が響いてきた。驚いてそちらを見れば、八坂くんがいた。その奥に綱も見える。詩歌ちゃんも明香ちゃんもいた。
「和親が暗譜してない曲を弾くなんて珍しいね」
八坂くんが笑った。
「そうか?」
氷川くんが楽譜を閉じながら答える。
「うん、学院でなんて、本当に珍しい」
「素晴らしかったです」
詩歌ちゃんが微笑んだ。同意するように明香ちゃんも頷く。
綱は無表情だ。
「二人でどうしたの?」
八坂くんがピアノの側までやって来た。
「今年の合唱コンクールは、白山さんに指揮をお願いした。その練習だ」
「そうなんだ」
八坂くんが私を見て確認するから頷いた。
「初めてなので教えてもらっています」
「姫奈ちゃんが指揮するなら僕もしようかな」
「華やかになっていいと思います! ぜひそうしましょう!」
冗談のような八坂くんの言葉に、思わず力んで勧めれば笑われた。
だって、八坂くんが壇上で指揮棒を振るなんて、きっとみんなが見てみたいに決まってる。
「八坂くんがしてくれるならとても助かるわ」
詩歌ちゃんも同意する。
「制服でなければもっと素敵なのに」
思わず呟けば、明香ちゃんが笑った。
「そうね。燕尾服でタクトを振る八坂くんを見てみたい気もするわ」
「でしょう?」
わが意を得たりと明香ちゃんと盛り上がれば、八坂くんは照れたように笑った。
「そこまで期待されてるなら、本当にやろうかな?」
「「ぜひお願いします!」」
詩歌ちゃんと二人でハモったら、皆に笑われた。
翌日から、合唱の練習が始まった。クラスの皆はわかれてパート練習を行う。私は氷川くんと一緒に指揮の練習だ。氷川くんもピアノの練習をする。音楽室だったり、談話室だったり、場所や楽器の種類が違っても初めのハノンは変わらない。
氷川くんは指揮棒の持ち方から振り方まで、丁寧に教えてくれる。何も知らない私は、言われるがままにタクトを振るう。談話室の練習では、時折八坂くんにも会った。八坂くんと氷川くんは幼馴染らしく、とても気安い。氷川くんは八坂くんのために、他のクラスの合唱曲を伴奏してあげることもあった。
談話室での練習の時は、必ず氷川くんは最後に一曲弾いてくれるようになった。私は決まってラ・カンパネラをお願いする。おかげで、学園内では芙蓉館からすごいピアノが聞こえると噂になっているようだ。
おさすがです、の一言しか出ない。
そして練習が終わったら、カフェでカプチーノを淹れるのが定番となった。周りの人にもフリーポアの練習ついでに淹れる。
最近はリーフ型も作れるようになったので、男子にはリーフを作ることにしたのだ。以前、ハートしか作れなかったときは、氷川くんや八坂くんに微妙な顔をされたので、頑張ってレパートリーを増やした。女子にはチューリップを作る。
何度かそんなふうにカフェに顔を出しているうちに、芙蓉会の一年生とも顔見知りになった。初めは、ものすごく警戒され珍獣のような眼で見ていた一年生たちも、普通に挨拶をしてくれるようになっていた。







