47.お田植え 2
早乙女さんは自分の家につくと、娘さんに私を渡した。娘さんは、えらい頑張ったじゃん、なんて笑ってお風呂場に案内してくれる。
「汚れるから農家は外から入れるようになってるさ。だから気にしちょ? ここ入って着替えたら、体育着を外へ投げとけしね。洗っといてやるじゃん」
「でも、汚れちゃいます」
「いいさよぉ、ちゃんと泥用の洗濯機が外にあるだから。おばちゃんのだけど着替えおいとくから、シャワー浴びたらそれ着ときな」
そんな声でお風呂場に押し込まれた。
「早く投げろしー!」
娘さんの声に慌てて体操服を脱いで、外へ投げる。
「好きに使えしよ」
お言葉に甘えて浴室を借りる。固形石鹸とボディシャンプー、シャンプーが二種類。スポンジもいくつか。洗顔フォームもあったから、少しお借りして、体中の泥を落とした。
温かいシャワーが汚れを落としていく。
目をつぶって水の流れに身を任せる。瞳の奥で、田んぼの水面の乱反射がキラキラと残像となって光っている。
泣きそうになって、慌てて乱暴に顔を洗った。考えない。深く考えない。思い出さない。胸の奥を覗いちゃいけない。
笑っていれば大丈夫。冗談で済むから大丈夫。クラスの空気が悪くなったら嫌だ。せっかくの楽しかったイベントを、嫌な思い出にしたくない。
あんなの嫌がらせのうちに入らないし、泣くほどのことじゃない。
それに。
私もしてきた。同罪だもの。いまさらそんなことに傷ついて、泣くような資格なんてない。あんなふうに、イジワルをした。こんなに苦しいなんて思わなかった。いくら私が性悪でも、相手がこんなに嫌な思いをしてるとわかっていたら、こんなことしない。できない。
あの頃の私は、相手の子を同じ心を持つ少女として見ていなかったのだ。
ちょっと汚れるだけでしょう? その時恥ずかしいだけでしょう? あっちの方が悪いんだから。気づいてないことを、わからせてあげるんだから。皆の代わりに、私が代表で教えてあげてるだけだから。感謝して貰いたいくらいだわ、と。
最初のイジワルで伝わらないほど鈍いなら、もっと酷くして教えてあげる。その子のために、みんなのために。
今は曲がっていると思うけれど、あの時の私にすれば、それは正義だったのだ。
でも、だからといって許されることじゃない。罰が当たって当然のこと。やった報いが返って来た。仕方がないじゃないか。因果応報なのだ。
歯を食いしばって、唇を横に引いた。水滴で曇る鏡に、笑顔を作った私が映る。
笑える。大丈夫。
タオルを畳んで外へ出ようとしたら、長靴がなくなっていた。
困ってキョロキョロしていれば、娘さんが慌ててやって来た。
「そこのサンダル使って、こっちこー」
「ありがとうございます。タオルは……」
「いいさ、いいさ、そこおいとけ」
言われたバスケットにタオルを入れて、サンダルに履き替えてから、娘さんの後についていく。家の表の縁側に案内された。急須とお茶菓子が置いてある。
「ここ座って、お友達が終わるの待ってろし」
「いえ、戻ります! 大丈夫です!」
「洗濯まだ終わらんから。先生にも言ってあるから気にしちょしよ」
浮かしかけた腰を制されて、私はおずおずと座った。
ガラガラと洗濯機の回る音が庭に響く。なんの鳥かわからないけれど、鳥の鳴き声が澄んだ空に響く。顔を上げて、空を見た。
大きな鳥が、ピーヒョロロ……と鳴きながら旋回している。
「トンビだね」
「トンビ? 『鳶が鷹を産む』の?」
「そうそう」
こんなに立派な鳥だったのか。知らなかった。別に鷹なんか生まなくてもいいじゃないか。鳶は鳶で十分に格好がいい。
コポコポと急須からお茶が入れられる。
「茶柱、立ってるよ。良かったね」
そう言って娘さんは湯呑を渡してくれた。
薄黄色のお茶の中に立派な茶柱が立っていた。
「ありがとうございます」
「田舎のお菓子だからいいもんないけど、良かったらあがれし」
おじいちゃんの部屋にも置いてあった、オブラートのついたゼリーがセロハンに包まれて、五月の光を受けて輝いている。固そうなお煎餅には、メーカーの名前なんかない。アルファベットの形をしたチョコレートと、なぜか梅干し。動物ビスケットはアイシングされていて、さらにかわいい。
「いただきます」
手を合わせて湯呑に口づけた。温かい緑の香りにホッとする。
「おじさん、恐かったら?」
娘さんがクスクスと笑った。
ハッとする。
「早乙女さん、大丈夫ですか? 先生に何か言われたりとかしたら……」
娘さんはケラケラと快活に笑った。
「言われん言われん! 子供が気にしちょし。ほらおじさん戻って来た」
娘さんが指さす方から、早乙女さんが戻って来た。
「お茶!」
ぶっきらぼうな声に、娘さんが笑ってお茶を出す。
「向こうが片付いたら、クラスのボコが迎えに来ることになった」
「あ、あの、色々すいませんでした」
「ああ」
早乙女さんは私も見ないで梅干しを口に運ぶ。まるで何にもなかったみたいだった。
「それで、その、ありがとうございました」
頭を深々と下げる。
あの瞬間、怒ってくれたこと。こうやって私に親切にしてくれること。今日初めて会った知らない子供に、まるで昔からの親戚みたいにしてくれる。
下げた頭を、早乙女さんはポンポンと力強く叩いた。
「米粒一つに七人の神様いるだと」
「……おじい様から聞いたことがあります」
「ほーけ、ほーけ。良いじいちゃんだ。ほんだから、おらんとーは毎日沢山の神様をいただいてるつーこんだ。その神様がおらんとーを作る。だれん見てねーと思っても、自分の中の神様が知ってるだ。ちゃんとやってればお天道様にはわかる」
厚い掌の重み。
そうか。考えたことがなかった。神様は自分の中にもいるのか。
神様なんかいないって、そう思っていた。わかりやすいものしか欲しくなかった。氷川財閥という地位と、御曹司と呼ばれる人から愛される自分が大切で、それを手に入れるために、色々な人を蹴落とした。
でも神様は私の中から、私を見ていたんだ。
そして今は、早乙女さんが私を見ていてくれた。助けてくれた。
瞳の奥が熱くなる。泣きそうになって、唇を噛んだ。こんなところで泣き出して、こんなに優しい人たちを困らせてはいけない。
これは私の罰なんだから。前世の罪の報いだから。
「泥が目に入ってると良くねーだから泣いちまえ。泣けば泣いただけ、目が綺麗になるっつーら?」
そう言って早乙女さんは自分の被っていた麦わら帽子を、私の頭にのせた。
ポロポロと涙があふれてきて、私は麦わら帽子を深くかぶった。日向の乾いた麦の匂いがする。温かい匂いだ。
いっぱい泣いて、泣き終わって、顔を上げたら早乙女さんはもういなかった。娘さんが横に座ってお茶菓子を差し出してくれる。
私は遠慮しつつも、五月晴れを閉じ込めたようなゼリーを口に入れた。
とっても甘い。でも、しっかりとした硬さ。
「そろそろ向こうも終わったのかねぇ」
のんびりとした声だった。
「ほら、お友達が来たじゃん」
指さす方を見れば、紫ちゃんが私のカバンを持ってやってくる。
「これで嫌にならんでまた来てくりょうし? 秋の新米は美味いだよ」
そう言って、ビニール袋に入れた洗濯物を手渡してくれた。
「絶対に来ます! 必ず来ます! ありがとうございました」
借りた着替えは送り返す約束をした。娘さんは、気にしちょし、と言ったけれどそんなわけにはいかなかった。
頭を下げて立ち上がる。丁度紫ちゃんがやって来た。
紫ちゃんと共に連れ立って帰り道を急ぐ。
「姫奈ちゃん、目が赤いわ。私なにもできなくて……」
シュンとした、心配そうな紫ちゃんの声。
「ああ、これ、目をいっぱい洗ったからよ。心配しないで!」
笑って答えれば、紫ちゃんはホッとしたように息をついた。
バスにはエンジンがかかっている。私たちは小走りで自分たちのバスへ向かった。
帰りのバスはクラス別だ。そのことに救われる。微妙な空気のバスの中で、綱が神妙な顔で待っていたから、思わず笑ってしまった。
「綱、変な顔」
「すいません、姫奈、何も知らなくて」
「綱に見られなくてよかったわよ。泥でグチャグチャだったんだから! 絶対綱も笑ったわ!」
笑いをまぶして、少し大きめの声で答える。バスの中の空気を変えたい。皆の思い出を嫌なものにしたくない。
「それに、皆が泥まみれで帰るのに、私だけシャワー浴びられてラッキーよね! 洗濯もしてもらったし。いいでしょう? あとあと、茶柱初めて立ったのよ! しかもお茶菓子も貰っちゃった。可愛い動物のビスケットにね、可愛いアイシングがされててね」
「ハイハイ、楽しかったみたいで何よりです。姫奈は食べ物のことになると話が長いから、とりあえず座ってください」
呆れたように綱が答えると、バスの中に小さな笑いが起こった。
空気が変わったことに安心して、ストンと綱の隣に腰かけた。コツリと綱の手に私の指先が触れた。
拳の中に固く握りこまれた親指。驚いて顔を見れば、唇を固く引き結んで無理に笑顔を作って見せている。
目が、怒っている。
「綱? 怒ってる?」
小さく囁いて尋ねてみる。私の知らないところで何かあったのだろうか。
綱は驚いたように私を見た。そして、固く結んだ唇を開けて小さくため息をつく。
「いえ、不甲斐ない自分に怒っているだけです。姫奈を無理に笑わせた」
綱も囁くように答えた。
「だったら私も同じだわ。綱を無理に笑わせたもの」
肩をすくめて笑う。そんなこと気にしなくていいのに。
綱はそれを聞いて、泣き出しそうに眉をしかめた。
それだけで十分。わかってくれる人がいる。私のためにこんなに心を痛めてくれる人がいる。
「そんな顔しないで。綱が気が付いてくれただけで私はいいの」
綱の硬く握りしめられた拳が開いて、私の小指に綱の小指が触れた。
綱はもうそれ以上何も言わなかった。







