281.開かれた籠の中で
体育館を出て、校舎へ向かう。
息が白い。
綱は当たり前のようにジャケットを脱いで、私の肩にかける。ジャケットに残った体温が私を包み込んで、申し訳ないと思いつつ返すとはいえない。もっとこの暖かさに抱かれていたいから。
「校舎なんて入れるの?」
「最後に校舎の壁にプロジェクションマッピングをする関係で、鍵を預かっています」
綱は悪戯っぽく笑った。
非常灯だけが薄暗く光る階段を登る。
息を切らして屋上のドアを押す。
冷たい三月の夜空。学校の鐘がそびえ立つ。
重い音が響いて、背中のドアが閉じられた。
正面には、学院の中央にそびえたつ、登校時間と下校時間を鳴らす鐘。いやなことがあったとき、逃げ込んでしまった籠のような場所。
二人で入って腰を下ろす。狭いそこでは二人でくっつくことになる。触れあった場所が熱い。
今夜は鍵をかける心配も、ドアを閉める必要もない。
「渡したいものがあるんです。当分会えないとおもうので」
綱の声が耳の奥で痛い。
突き出されたのは小さな紙袋だ。おずおずと手を伸ばす。
「なに?」
「スマホです。こんな時に気が利いてなくてすいません」
驚いて落としそうになる。それを綱が慌ててキャッチして、私の手に握らせた。
「な? どうして」
「私は十八歳ですし、免許も持ってます。契約するのなんて簡単なんです」
綱はうつむきがちに、はにかんだ様子で私の目を見ない。
「私とだけ繋がってください」
綱の言葉にギュウと心臓が痛くなる。うれしくてうれしくて、これ以上なくうれしくて。
でも、その奥の罪悪感が素直にスマホを受け取らせない。
「……ねぇ、綱。聞いていい?」
私の声に綱が不安そうな顔を向ける。
「桝頭取の出身校のこと、いつ知ったの? いつから留学を考えてたの?」
私の問いに綱は少し困った様子で笑った。
「姫奈が桝さんと友達になりたいと言い出したときに、経歴を拝見したんです。それで出身校のことは知りました。芙蓉から留学という進路があるんだと気がつきました。さすがに、その頃は具体的には考えていませんでしたが、だんだん目標になっていって……。ある意味、姫奈のおかげです」
その答えにおなかの底が重くなるような気がした。
「綱、私がいなかったら違う未来、選んでたんじゃない? 綱、私のせいで、留学するの? 秘書になるの?」
ずっと疑問に思っていた。そうだとしたら、うれしい。でも、それ以上に心苦しい。もし、綱がいつか私を選んだことを後悔したとき、違う未来を捨てたことさえ後悔してしまうのではないか。綱の未来を曲げてしまったのではないか。私に出会わなかったら綱は、もっと自分の好きな人生を歩んでいたかもしれないのだ。
綱は私を見て肩をすくめて笑った。
「あなたのために秘書になるわけではないですよ。ただ、姫奈が気がつかせてくれたんです。私は、あなたが目指そうとするものを手伝うことが楽しかった。白山茶房にしても、島津様の件に関しても、姫奈の思いつきをよりよい形にすることに充実感を感じました。目的を攻略するのは楽しいのですが、その目的を探すのが苦手です。だから、私は誰かのサポートをすることが向いていると思いました。そして、なるならばその道の一流になりたいと思いました」
綱はそう言って私を見た。まっすぐな目だ。嘘なんかついていない。真摯すぎる黒い瞳。
「もし仮に、今日ここで私はあなたに捨てられても、留学をやめたりはしません」
ほっとしてため息がこぼれる。
「捨てたりなんか、しないもん」
ぎゅっと紙袋を握る。
「知ってます」
綱が笑う。
「だから、持っていてください。これは私のわがままなんです。何でもいいから、姫奈と繋がっている証拠がほしい」
「……うん……」
「旦那様にも奥様にも、父にも内緒です」
「うん」
「連絡を強要したりしません、持っていてくれればそれでいいから」
「うん」
最後の「うん」は鼻声で、顔を見られたくなくてうつむいた。
「ねぇ、姫奈、顔を上げて」
壊れ物のように私の顎に触れる指。
綱の指に導かれるように、私は静かに顔を上げた。
目が合って、綱の視線が一瞬揺れて、頬が熱くなるのがわかる。
予感がして息が苦しい。
そっと顎のラインを控えめになぞる綱。その手は凍えたように冷たい。ジャケットを私に貸してくれているからだ。当たり前のようにその優しさにずっと甘えきってきた。
「姫奈、……いい?」
ささやきなのか、ため息なのか。
震えているのは私なのか綱なのか。
「つな。いやじゃなかったら。……して?」
からからになった胸で、絞り出すささやかな息吹。
目をギュッとつぶって、祈る。
私の初めては綱がいい。
性急に綱の気配が近づいてくる。
緊張した鼻先がぶつかって、思わず笑えば、照れ隠しするように重ねられた唇のせいで歯と歯がぶつかる。
「笑ってないで、ひな」
綱の指先が唇をたどって戒める。
再び触れた唇が、ようやく正しく重なり合って、おかしくてうれしくて、肩が小刻みに揺れてしまう。
「やっぱり上手くいかない」
綱が不貞腐れたように呟いて、それが本当におかしかった。
「初めは上手くいかないなんて、いつものことじゃない。また練習すればいいのよ」
そういつもそうだった。あやとりも、二人での縄跳びも、バドミントンも卓球も。
二人で始めたこと全部、最初は上手くいかなくて二人で練習してできるようになってきたのだ。
「あなたは! もう!」
綱は顔を真っ赤にして、恨むように私を睨むと、両手で頬を挟み込む。強引に上向かせ、かぶさるように唇に唇が乗る。
ずっと長い口づけにクラクラと眩暈がして、綱の背中に両手を回し縋りつく。胸と胸。唇と唇。背中とそれにすがる腕。重なり合った部分から熱帯夜が広がって、熟れすぎた果実のようにグズグズになってしまう身体。
「つな、息が、」
「鼻ですればいいんですよ。練習です」
冷たく綱がそう答え、もう一度唇を塞ぐ。真夏のソフトクリームのように蕩けてしまいそうだ。
こんなの、こんなの、練習なんかじゃないじゃない!
やっと解放されたとき、今度は私が恨むように綱を睨んだ。
「初めてじゃないわね?」
「そんなことないです」
「嘘よ!」
「嘘じゃないですよ。私は姫奈以外好きになった人はいないから」
少し嫌味っぽくそう答え、私はぎくりと体が強張る。
「み、光毅さまは憧れよ!」
「……」
「エレナさまも!」
「……」
「私だって、綱だけよ。こんなふうに好きになったのは綱だけよ!」
前世では氷川くんが好きだった。でも、その想いは綱への思いとは違っていた。
氷川くんからは、ただただ愛されたかった、大事にしてほしかった。婚約者になったなら、最大限の幸せを無条件に与えてくれて当然だと思っていた。
でも、綱は違う。私が綱を大事にしたい。綱となら傷ついてもいい。時間がかかっても、遠回りでも、損をしても、二人で一緒に歩いて行きたい。
ぎゅっと綱が抱きしめてくる。
私も綱の背中を抱き返す。
「好きです」
綱の声が重なり合った胸を伝って、直接私の胸を打つ。
「好きよ」
私の声も同じように綱の胸を震わせていたらいいのに。
花火の音が響く。
それなのに、花火は開かない。
不思議に思って顔を上げれば、綱が小さく笑った。
「プロジェクションマッピングが始まったんです」
ざわざわと校庭からざわめきが屋上まで上がってくる。
「もう、プロムは終わりなの?」
「そうですね」
綱はそう言って私の手を引き立ち上がらせる。
不思議に思う私を綱が笑う。
「最後の大役を三峯くんからいただきました」
そう言って、綱は私に鐘を引くロープを握らせた。その手の上から綱もロープを握る。
「最後に、この鐘を鳴らすんです」
盛大な花火の音が鳴り響く。
カウントダウンが下の方から聞こえてくる。
綱も小さくカウントダウンする。
「三、二、一」
ゼロ、のタイミングで私たちは盛大に鐘の中央にぶら下がるロープを振った。
カランカランと大きな鐘が鳴り響く。
下校を告げる鐘は、一度。卒業を告げる鐘は三度鳴らす。
カランカラン、二度目の鐘を揺らして鳴らす。
鐘には芙蓉の蕾と花の絵がぐるりと一周彫られている。
カランカラン、最後の鐘の音が三月の澄んだ夜空に響き渡る。校庭から拍手と歓声が沸き起こる。まるで私たちが祝福されているみたいだ。
泥中之蓮と文字の彫られた鐘の下、私と綱は見つめ合った。鐘の下では残響が残り、空気がかすかに震えている。
確かに、ここは澄んだきれいな真水ではなかった。汚れた泥だったかもしれない。でも、一見汚く見える泥には、真水にはない養分がある。
泥の中でこそ美しい花を咲かせる芙蓉のように、私はなれるのだろうか。
綱の冷たい手が頬に触れる。
そっと私も顔を上げる。
綱が少しだけかがみ込んで、目元が前髪の陰で隠れる。
私たちはもう一度だけ。
木の実をついばむ小鳥のように、小さな小さなキスをした。







