274.高等部三年 バレンタインデー 3
きっと八坂くん自身もわかってる。これがどんなに不毛なことか。誰も幸せになれない。八坂くんも私も、巻き込まれる人たちも。だから、声が小さくなる。
「八坂くんの気持ちはすごくうれしい。でも、そんなの悲しいわ。そんなことしたら、私、八坂くんのこと、ずっと傷つけ続けることになる。そんなの自分で自分が許せないわ」
「気にすることない。僕が許すよ」
「気にするわよ! だって、私、八坂くんが大切だもの! いっそ嫌いな人だったら、利用できたかもしれないけど……」
鼻声になりながら答えれば、八坂くんが泣きそうな顔で唇をゆがめて笑った。
「嫌いな奴、利用できるほど器用じゃないでしょ?」
「……よく知ってるのね」
その言葉に苦く笑う。そう、嫌いな人など顔も見たくない私だ。利用するためにかかわるなんてとんでもない。そんなことまで八坂くんにはバレバレなのだ。
「やっぱり、僕、姫奈ちゃんが好きだなぁ。姫奈ちゃん、アイツ捨てて僕にしなよ」
「それは無理よ」
スンと鼻をすすり上げる。伊達メガネで表情が少しでも隠れていたらいいのに。
何度もあきらめようと思ったのだ。たぶん、八坂くんの言うように、お母様の言うように、私の選択は「正しく」はないのかもしれない。
私がわがままを言わなければ、綱だって日本を離れることはなかったかもしれない。今日だって学校にこれたかもしれない。良い家柄のお嬢様と付き合って、学生生活を楽しんで、国内の大学へ行って、安定した企業に就職できたかもしれない。綱だって、もっと平たんな道を歩めたかもしれないのだ。
綱に無理を強いているとわかっていても、綱を手放せないのは完全に私のわがままでしかない。
生駒に頭を下げさせて、両親を悩ませて、彰仁を困らせて。そこまでして私一人のわがままを通すことに罪悪感がないわけではない。それでも綱が諦めないでいてくれるから、私も絶対あきらめたくない。
「だよね」
八坂くんはそういうと、髪をかき上げ、シマッタというように顔をゆがめた。
「髪の毛崩れちゃいましたね」
「うっかり油断した」
「八坂くんでもそんなことあるのね」
「そんなことあるよ」
そういうとちょっと気まずそうにして、グシャグシャと髪をかき混ぜる。
「ちょっと髪、洗ってくるね」
そういうと髪をかき上げたポーズのまま席を立つ。それがなんとも様になっていて、周りの人はまさか髪が崩れているとは気が付かないだろう。
八坂くんの背中を見送って窓に目を向ける。
キラキラと光るイルミネーション。今夜はピンクや赤のハートがたくさん光っている。ふいに光がジワリとにじんで、ハッとして窓ガラスに映る自分を見た。
八坂くんとおそろいの伊達メガネ。か細い赤いリボン。体にフィットする女性的なスリーピース。美しいハイヒール。
すべてが八坂くんの手によるもので、初めての場所でも私に自信を持たせ堂々と立たせてくれた。美しさと気安さが絶妙のバランスをとっている。この服装は、武器であり防具でもあったのだ。
ブワリと胸の中に熱いものが広がってくる。
友達同士のおしゃべりの中の、たった一言。単なる思い付きのアンチプロム。それも、紫ちゃんのために「しない」ことになったのに。
それをここまで想像して、ここまで形にしてくれた。
八坂くんは何を思ってこれを用意してくれたのか。今日の予定は突然決まったのに。アンチプロムはしないのに。
何のために? 無駄になるかもしれないのに? 無駄になってもいいと、そう思って?
胸を押し広げる熱風が苦しい。肺からせりあがってくる熱い溜息。顔が熱くなる。
--本当に私のことが好きなんだ--
突如、実感して、恥ずかしさがこみ上げてきた。
だって信じられないではないか。八坂くんは、学園どころか、世界クラスの王子様なのだ。血筋や見た目はもちろんだが、それ以上に振る舞いがスマートで気遣いのできる紳士だ。性格ブスが大嫌いだと公言している八坂くんが、私のことを好きだなんて信じられない。
アワアワと動揺する。顔が真っ赤になってくる。
「どうしたの?」
濡髪を軽くふいた八坂くんが現れた。その濡髪が妙に妖艶に輝いて、思わず目をそらした。
八坂くんはさっきのことなどなかったかのように、いつもの軽い感じで私の鼻先を指で狙う。
私は思わず乱暴に払いのけた。パシリと乾いた音が響く。
八坂くんがびっくりしたように目を見開いた。
私はしまったと思う。
さっきの話の流れでこの態度では、あからさまに嫌っていると思われてしまう。傷つけてしまう。
突然どうしたというのだろう。いつもだったら頭に乗られても、肩を抱かれても、「八坂くんだから」と何も思わなかったのに。
「っ、あ、の、ごめんなさい。ちょっと、いろいろ、びっくりで」
ワタワタと言い訳をしようとすれば、八坂くんは意外にも破顔した。
「やーっと、意識した?」
そして、フフフと楽しそうに笑う。
「うん、そっか、うん」
八坂くんは何か一人で納得する。絶対ろくなことは考えていない顔だ。
「今日はそろそろ帰ろうか。家まで送っていくよ」
「いえ、迎えに来てもらいます」
八坂くんは優しいからそう申し出てくれるけど、さすがに心苦しい。
「そう? 姫奈ちゃんのお迎え来るまで僕と一緒にいたいっていう感じなら大歓迎! 事務所の車なら下にあるけど、ね?」
八坂くんははちみつ色の瞳をキラリと光らせて試すような顔で笑った。
「っぅ。あ、の、ではお言葉に甘えて」
「うん、お言葉に甘えて? マイフェアレディ」
八坂くんがきざなセリフとともに、エスコートするように手を差し出してくる。いつもだったら、こんな芝居かかった態度など、軽くあしらっていたけれど、今はなんだか意識してしまう。
「あ、だ、大丈夫。一人で、大丈夫」
口にして変だったかなと思いつつ、だとしたら何と言えばいいのかもわからない。
八坂くんは、プハっとあからさまに噴き出した。
思わず睨む。
「なによ!」
「いいえ? なーんでも? さあ、行きましょうか?」
動揺してガタリと立ち上がれば、不格好に椅子が音を立てた。
さっきまでしゃんと伸びていたはずの膝の裏が、何となく曲がってしまう。ピンヒールがおぼつかなくて思わずふら付いた。
「腕を使ってもいいよ?」
八坂くんがおどけて腕を差し出してくる。
「もう! 馬鹿にして!!」
ふくれっ面で怒ってから、いったん大きく息を吸い込んだ。
さぁ、ちゃんと、しなきゃ。
パフォーミングパートナーから叩き込まれたことを思い出す。心を落ち着けて、息を吐いて、自分をどんな風に見せたら、最大の効果を得られるのか。
息を吐いて背筋を伸ばす。膝を伸ばしてピンと立つ。
ここは新しい商業施設の最上階のレストラン。ふさわしい淑女でありたい。
顎を引いて微笑みを張り付けた。
その瞬間。
「うん。姫奈ちゃん綺麗だよ」
八坂くんが甘い声を投げかけて、ボフンと顔が真っ赤になって、膝がカクリと折れる。
「せ、せっかく切り替えたのに!」
「うんうん、切り替え上手だよ」
ニコニコ笑う八坂くんは相変わらずお爺ちゃんのようだ。その視線に慈愛を感じて、胸がキュンと苦しくなる。
ふう、と息をついてもう一度背筋を伸ばした。
「じゃ、行こうか」
八坂くんはいつでも歩調を合わせてくれる。そんなことにも今気が付いた。
マネージャーさんの運転する車の後部座席に乗り込んで家まで送ってもらう。
後部座席の八坂くんは、それはそれは嬉しそうに「かわいい」「かわいい」を連発し私は居たたまれなくて仕方がない。つま先から髪の先まで真っ赤になってしまいそうだ。
「もう! 八坂くん! マネージャーさんだってあきれてますよ!」
怒って言えば、マネージャーさんまで噴き出した。どうやら八坂くんの周囲の人は沸点が低すぎる。
「だって、今までは『かわいい』って言っても他人事みたいだったのに、ほんと今日の姫奈ちゃんはかわいー」
ニッコニコの八坂晏司である。
「やーっと、意識してくれたんだもん」
八坂くんはそう笑うと、瞳をキラリと輝かせた。甘ったるく蕩けて光るそのはちみつ色の瞳に、バクバクして目をそらす。
「モデルの本気こわい……」
ぼそりとつぶやけば、マネージャさんと八坂くんが楽し気に声を立てて笑った。







