165.雲の峰 4
白山家の車に戻り、大きく息を吐く。緊張した。綱の顔を見てホッとする。
「はぁぁぁぁぁぁ、つ、疲れた……」
制服のまま飛び回って、なんだかとても疲れてしまった。綱だってまだ着替えていない。もう夕食の時間は大分過ぎてしまっていた。
「綱も振り回してごめんなさいね。一緒にいてくれて助かったわ。何とかなったわよ」
「いえ。お力になれたでしょうか?」
「もちろん! 綱がいなかったら無理だったわ」
そう言えば、綱はなんだか寂しげに笑う。
「綱も疲れた?」
「いえ……」
「なんか、変な顔してるわ?」
「そうですか?」
「うん」
なんだか少し変。上手く言えないけれど、放っておけない。なんだかこのまま家に帰るのは少し違うと思った。
「疲れてないなら少し寄り道しない?」
「寄り道、ですか?」
「最近一緒に車に乗ってなかったでしょう?」
「ええ、まぁ、そうですけれど」
やっぱり変。歯切れが悪い。
運転手に声をかける。
「ねぇ、今日沢山走ってもらって悪いんだけど、ちょっと行って欲しいところがあるの。いいかしら? あなた、ドーナツ好き?」
問えば、運転手は微笑んで頷いた。
ドーナツ屋さんでドーナツとコーヒーのセットを三つ買い、一つは運転手に渡した。ニコちゃんたちに教えてもらった、最近流行りのお店だ。少し待っていて欲しいとお願いし、綱と近くの公園に行く。
コーヒーカップの上にドーナツをのせ、一応写真を撮ってみる。暗いから上手く撮れない。
ドーナツをカップに乗せる時に、汚れた指を舐めたら甘かった。
二人でベンチに腰掛け、大きなドーナツを頬張る。無言でモグモグ。手も唇もベタベタだ。甘さが体中に染み渡る。でも、コーヒーは苦い。
「夕食前にチョット罪深いかしら?」
綱に問えば、小さく笑う。もっと笑って欲しいのに。
「たまにならいいでしょう。今日はお嬢様、よく頑張っておいででしたし」
「お嬢様だなんて、へんなの」
「……へんですか?」
「だって、ここは家じゃないもん」
ちょっとした意地悪のつもりで軽く睨めば、綱はヒュッと息を飲む。
「そんなふうに言われたら……」
綱が口ごもる。
「なぁに?」
綱は首を振った。
「……姫奈は、今日、とても立派でした」
「そうでしょう? 褒めてもいいわよ? もっといっぱい褒めてもいいのよ?」
「ええ、本当に素晴らしかったと思います。流石、白山家のお嬢様だと」
「だから、お嬢様?」
綱が頷いた。今日の私の頑張りを見て、褒めるつもりで選んだ言葉だったのか。
「でも私、綱にはお嬢様なんて呼ばれるより、頭でも撫でてもらったほうが嬉しいわ」
茶化すように笑えば、綱は戸惑った顔をする。
「でも、どうして修吾さまにそんなに心を砕かれるのです? 白山茶房は海外展開がない。通販事業もない。今、海外向けに広告を打つメリットはないでしょう」
指摘されて苦笑いだ。やっぱり綱は気が付いていた。多分、修吾くんのスポンサーになることは、お店としては損になる。
「だって、小さい時から知ってるもの。弟みたいに応援してるわ。まぁ、収益も上がってるし、おじい様みたいな谷町にも憧れていたから。自分で才能を見つけて育てるって、ちょっと面白そうじゃない?」
「それだけですか?」
綱はあまり納得していないようだ。綱のことだから、見透かしているのかもしれない。素直に言ってしまおうか。
「……えーっと、こんなこと口にするのは恥ずかしいんだけど、綱だから言うのよ?」
綱は真面目な顔をして頷いた。
「私、動画の件で思ったんだけど、色々な人にすごく助けられてるじゃない? 淡島先輩にしても、私にいろいろ教えたって何の得にもならないのに教えてくれるし、光毅さまにしてもただ彰仁の姉ってだけで当たり前のように助けてくれる。華子様も蝶子様もそうなの。お返しできないくらい恩があるのに、私からの恩返しなんて受け取って頂けないでしょう」
「そうですね」
「だからね、していただいて嬉しかったことを、今度は私が周りの人にできたら、恩返しの代わりになるかなって思ったんだけど、変かしら? 私がそんな人たちの真似なんて、笑っちゃう?」
綱は眩しいものを見るように目を細めた。
「変だなんてとんでもありません。素晴らしいお考えです。とても、……とても大人になられましたね」
「良かった! 生意気かもって笑われるかと思ったの! 綱がそういうなら大丈夫ね!」
そう笑えば、綱は困ったように目を逸らした。
「やっぱり、綱、何か変」
顔を覗き込めば、目が合わないようにそらされた。ムッとして、さらにその顔を追えば、困り果てた視線が返ってくる。
ああ、また私は何かで綱を困らせている。
「綱、困ってる? 私、また振り回し過ぎたかしら?」
「いいえ!」
「駄目な時は言って? 綱は私の使用人じゃないわ」
「姫奈」
「私、綱とは対等でいたいわ。……甘えて我儘言っちゃうし、傷つけるような言い方もするけど。そういう時は、違うよって言って。友達の域を越えてたら、無理だよって言って」
「姫奈」
「ちゃんと、教えて。疲れて、困って、見放したくなる前に、ちゃんと駄目だよって言って?」
「姫奈、そんな」
「見放されたくないの」
「そんなことできるわけないじゃないですか」
綱は小さくため息をついた。へんな、笑い方だ。
「ただ、自分に呆れたんです。今日、私は何もできなくて、情けなかったんです」
「そんなことないわ。私ができないことを綱がやってくれたわ。契約書、作ってくれた。ご飯も食べさせてくれた。私が自由に振る舞えたのは、後ろで全部綱が準備してくれたからだわ。綱がいなくちゃ何もできなかった。だけど、それって裏を返せばすごく綱に迷惑をかけてるのよね」
「そんなことないです! 迷惑なんてないから!」
綱が慌てて顔をあげる。
私はそれが可笑しくて、手を伸ばして綱の頭をポンポンと撫でた。
気の抜けたように綱の顔がクシャリと歪む。
「綱は今日良く頑張りました!」
そう言えば、脱力したように綱が笑った。
「はい、綱も。綱も私を褒めて?」
頭を下げて強請ってみる。
すると綱は私の頭を前頭部から後頭部まで愛しむようにゆっくりと撫で、そして髪に指を通すと毛先まで指先で梳いた。
こんなふうに髪に触れられるのは久々で、なんだか気恥ずかしくなる。この間までは、当然のように綱が髪を結っていたのに、だ。
「姫奈は今日も良く頑張りました。本当に良く頑張りました」
自分で強請っておきながら、褒められるのは無性に恥ずかしい。
思わず、えへへと笑えば、綱もそれを見て笑った。
いつもの綱の顔に安心する。きっとドーナツの糖分で元気になったのだろう。
「そろそろ戻りましょう?」
私が言えば、綱が立ち上がって手を差し伸べてくれた。私は嬉しくてその手を取る。手を繋いで帰ることはできないけれど、その一瞬が嬉しい。そして、そっと手を離す。
「姫奈」
「なぁに」
「もっと頼ってください」
綱が言う。
驚いて顔を見る。はにかむような笑い方。
「姫奈はもっと甘えても大丈夫です。困ったら、私を呼んでください」
言い含めるように綱が言った。
「わかったわ。一番に綱を呼ぶわ」
言葉にして、キュッと胸が締め付けられる。私の一番は綱だ。







