零れた珈琲
扉を閉めると、風の音が遠のいた。
店内には焙煎した豆の香りと、古い木が暖められた匂いが満ちていた。梁を残した天井から乳白色の照明が下がり、壁際の棚には文庫本や写真集が隙間なく並んでいる。スピーカーから流れるピアノは、会話を邪魔しない音量に抑えられていた。
カウンターの中にいた白髪交じりの女性が顔を上げた。
「お一人ですか」
「はい」
「お好きな席へどうぞ。濡れたコートは、そちらのハンガーを使ってください」
由実は窓際の二人掛けを選んだ。隣のテーブルには男性が一人で座り、厚い本を読んでいた。四十代くらいだろうか。紺色のセーターの上にシャツの襟が見え、椅子の背には茶色のツイードコートが掛けられている。伏せた横顔には疲れが残っていたが、ページをめくる指の動きはゆっくりしていた。
メニューの最初に「森の雫」というブレンドがあった。深煎りで、黒糖のような甘みがあると説明されている。由実はそれと、リンゴのタルトを注文した。
店主らしい女性がコーヒーを運んできた。
「外、ひどくなってきましたね」
「さっきまで、ここまで降っていなかったんですけど」
「札幌の空は気まぐれですから。急がず、止むまでいてください」
由実は礼を言い、カップに口をつけた。苦みのあとに、わずかな甘さが残った。家で飲むインスタントコーヒーとは違う。味の違いを説明できるほど詳しくはないが、もう一口飲みたいと思わせる余韻があった。
真帆にもらったブックカバーをバッグから出し、読みかけの小説を開いた。ところが文字を追っても、同じ行を何度も読み直してしまう。窓の外では雪が斜めに流れ、道の向こう側が白く霞んでいた。
しばらくして、店の奥から焦げた甘い匂いが漂った。店主が「あら」と声を上げ、オーブンの方へ急ぐ。由実は何となく顔を上げた。その拍子に、バッグの脇に落としていた手袋が床へ滑った。
拾おうとして立ち上がったとき、ブーツの踵が椅子の脚に引っかかった。
体が傾き、右手がテーブルの縁に当たる。カップが跳ねた。
「あっ」
褐色の液体が弧を描き、隣の椅子に掛けられていたツイードコートの袖へ落ちた。
由実は息を止めた。男性も本を置き、濡れた袖を見た。
「申し訳ありません。本当にすみません」
バッグからハンカチを出そうとして、ファスナーが布を噛んだ。焦って引くほど動かない。男性は立ち上がり、カウンターにあった紙ナプキンを数枚取った。
「手にかかりませんでしたか」
「私は大丈夫です。でも、コートが」
「先にテーブルを拭きましょう。カップの破片はないですか」
落ち着いた声だった。由実が床を確かめると、カップは割れず、椅子の下で横になっていた。店主が布巾を持って駆けつける。
「お怪我はありませんか」
「大丈夫です。私がぶつかってしまって」
由実は何度も頭を下げた。男性のコートの袖には手のひらほどの染みが広がっている。
「クリーニング代を払わせてください」
「水ですすげば落ちますよ」
「でも、そんなわけには」
男性は紙ナプキンで袖を押さえながら、眉を寄せた。困っているようにも、何かを言いかけてやめたようにも見えた。
「では、名刺をお渡しします。もし落ちなかったら、こちらへ連絡してください」
財布から一枚取り出し、由実へ差し出した。
――北斗設計室 建築士 佐伯健司。
由実は名刺を両手で受け取った。
「高橋由実と申します。必ずご連絡ください」
「分かりました」
健司はそう答えたが、連絡するつもりがあるようには聞こえなかった。
店主が新しいコーヒーを用意しようとしたが、由実は断った。これ以上この場にいることに耐えられなかった。代金を支払い、コートを着る。
「高橋さん」
呼ばれて振り返ると、健司が手袋を持っていた。先ほど床へ落としたものだった。
「忘れ物です」
「ありがとうございます。何から何まで、すみません」
「今日は雪が深いので、足元に気をつけて」
笑顔というほどではない。けれど責める色もなかった。
店を出ると、冷気が頬を刺した。由実は名刺をコートのポケットへ入れ、今度こそ足元を見て歩いた。
帰宅してすぐ、ツイード素材の手入れ方法を調べた。コーヒーの染みは時間がたつと落ちにくくなると書いてある。名刺に記された会社名を検索すると、札幌市内の小さな設計事務所が表示された。公共施設や古い建物の改修を多く手がけているらしい。スタッフ紹介に健司の写真はなかった。
会社の番号へ電話するのは大げさだろうか。個人の番号は名刺に書かれていない。由実は迷った末、会社の問い合わせ用メールアドレスに短い文を送った。
「本日、カフェでコートを汚してしまった高橋です。クリーニング代を負担させてください。お手数ですが、必要な金額と送金方法をお知らせいただければ幸いです」
送信してから十分後、返信が届いた。
「佐伯です。帰宅後すぐに処置でき、染みは残っていません。お気遣いは不要です。お怪我がなくて何よりでした」
それだけだった。由実は礼を返し、やり取りを終えた。
翌朝、コートのポケットから名刺を出した。捨てる理由も残す理由も見つからず、机の引き出しへ入れた。
月曜、会社では新規物件の入居案内をめぐって問題が起きた。営業部が作った案内文に、実際には利用できない宅配設備の説明が入っていたのだ。すでに四十世帯へ発送されている。
山岸は青ざめていた。
「前の仕様書を見て作ってしまいました」
「責任の確認は後にしましょう。まず訂正文と、問い合わせが来たときの回答を作ります」
由実は菜摘に発送先の一覧を頼み、自分は営業部と設備担当へ事実を確認した。昼を過ぎるころには訂正文の案ができたが、部長の佐々木は表現を弱めるよう求めた。
「まだ苦情は来ていないんだ。設備の変更とだけ書けばいいだろう」
「こちらの誤記です。変更では、入居者の誤解を招きます」
「正直に書いて騒ぎを大きくする必要もない」
会議室の空気が固くなった。由実は以前なら、上司の意向に合わせながら、あとで自分だけが納得できないまま残業していただろう。
「設備を前提に契約を決めた方がいるかもしれません。誤記だったことと、代替策を明記すべきです。問い合わせは私たちが受けます」
佐々木は黙り、机の上の案内文を指で二度たたいた。
「分かった。高橋さんの案で出そう」
会議室を出ると、山岸が追いかけてきた。
「すみませんでした。僕の確認不足で」
「次から仕様書の日付まで確認してください。それから、私に謝るより、訂正文の封入を手伝ってください」
言葉は厳しくなったが、山岸は「はい」と答えた。
その日の帰り、由実はふとカフェの前まで来ていた。会社からの道順は遠回りになる。自分でも、なぜそこへ向かったのか説明できなかった。落ち着ける店を見つけたから。それだけだと思おうとした。
緑の扉を開けると、店主が覚えていた。
「この前は大変でしたね」
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんて。佐伯さんも、あのあと普通に本を読んでいましたよ」
「よく来られる方なんですか」
尋ねてから、あまりに分かりやすい質問だったと気づいた。
店主は口元を緩めた。
「土曜の午後に来ることが多いですね。あの方のお父さまが、昔この店の改修を手伝ってくださったんです」
由実は窓際の席を見た。今日は空いている。
「私、別に待っているわけでは」
「何も言っていませんよ」
店主は穏やかに笑い、メニューを差し出した。
由実は森の雫を注文した。前回はほとんど味わえなかった。カップを両手で包み、ゆっくり飲む。苦みの輪郭が前より分かる気がした。
店主の名は島崎澄江といった。夫と二人で店を始め、夫が亡くなってからは一人で続けているという。週に二度、姪が手伝いに来るらしい。
「一人で大変ではありませんか」
「大変ですよ。だから、できない日は休みます」
澄江は簡単に言った。
「前は、店を開けることが夫との約束だと思って、熱があっても立っていたんです。でも倒れて三週間休んだら、常連さんに叱られました。店を残したいなら、まず店主が残らなきゃ駄目だって」
由実は会社で菜摘に言った言葉を思い出した。自分が休んだら止まるやり方は、早く見えるだけ。
「誰かに頼るの、苦手だったんですね」
「今も得意ではありません。でも、苦手なまま頼むことはできます」
澄江はカウンターへ戻り、洗ったカップを布で磨き始めた。
由実はその言葉を手帳の端に書いた。苦手なまま頼むことはできる。
翌週の土曜も、由実は店へ行った。健司はいなかった。持参した本を一時間ほど読み、澄江と天気の話をして帰った。
三度目に訪れたのは、平日の夕方だった。新規物件の対応が一段落し、いつもより早く会社を出られた日だ。
扉を開けると、窓際の席に健司がいた。
茶色のコートは椅子に掛けられている。染みが残っているかどうか、ここからでは分からない。由実は引き返したくなった。メールで話は終わっている。わざわざ声をかければ、待ち伏せしたと思われるかもしれない。
澄江がカウンターから言った。
「こんばんは。今日は窓際、相席でもいいですか」
健司が本から顔を上げた。由実を見て、一瞬だけ驚いたあと、椅子の向かいへ置いていた鞄をよけた。
「どうぞ」
逃げる理由を失い、由実は向かいに座った。
「先日は、本当に失礼しました」
「もう謝らないでください。コートは無事です」
健司が袖を持ち上げて見せた。確かに染みは見当たらない。
「メールまでいただいて、かえって申し訳なかったです」
「こちらが送ったんですから、謝るのは私です」
「それだと、どちらが先に謝るかで夜が終わりますね」
由実は思わず笑った。健司もわずかに笑った。
澄江がコーヒーを二つ運んできた。
「佐伯さん、今日は私から。高橋さんの分は、佐伯さんにかけなかったご褒美」
「島崎さん、それでは店が損をします」
「話のきっかけ代です」
澄江は二人の返事を待たずに離れた。
しばらく、二人は黙ってカップを見ていた。前回のように液体が飛ぶことはない。由実は慎重に一口飲んだ。
「その本、建築の本ですか」
健司の手元にあるのは、古い市電の写真集だった。
「仕事の資料でもありますが、半分は趣味です。昔の街並みを見るのが好きで」
「設計のお仕事ですよね。名刺に書いてありました」
「古い建物を、今の使い方に合わせて直す仕事が多いです。壊して新しくする方が早いこともありますが、残したいという人がいるなら方法を考える」
「この店も?」
「改修したのは父です。僕は学生のころ、壁を塗るのを手伝っただけです」
健司は壁際の柱を見た。よく見ると、濃い茶色の塗装に細かなむらがある。
「あの柱は僕が塗りました。下手でしょう」
「言われなければ分かりません」
「言われたら分かる程度には下手なんです」
由実は柱を見直した。刷毛の跡は、言われて初めて見える程度に残っていた。
由実も仕事を尋ねられ、賃貸管理のことを話した。給湯器の故障や鍵の紛失、騒音の相談。健司は面白がるのではなく、具体的に質問した。
「建物を作る側は、完成したところで一区切りだと思いがちです。でも、住み始めてからの方が長いんですよね」
「はい。図面どおりでも、暮らしには合わないことがあります」
「耳が痛いです」
「佐伯さんの設計が悪いと言ったわけでは」
「分かっています。すぐ弁解する癖があるので、先に自分で止めました」
健司は笑ったが、その言葉のあとに短い沈黙があった。由実は理由を尋ねなかった。
一時間ほど話し、健司が先に立った。
「今日はこれから事務所に戻ります」
「まだお仕事なんですか」
「提出が近いので。自分で予定を詰めた結果です」
コートを着るとき、健司は迷ってから名刺入れを出した。
「前の名刺には会社の連絡先しかなかったので。今度はこちらを」
渡された名刺の裏に、個人の携帯番号が手書きされていた。
「またコーヒーをかけたときのためですか」
由実が言うと、健司は目を細めた。
「できれば、今度は別の用件で」
扉が閉まり、ベルの音が一度鳴った。
由実は名刺をすぐにはしまわなかった。紙の端を指で押さえ、手書きの数字を見つめた。
雪に覆われた川の下で、水が動き始めたようだった。




