第一章 果てしない冬
三十五歳になった朝、高橋由実は、目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。
窓の向こうはまだ暗い。札幌の二月は、朝が来ることさえためらっているように見える。夜のうちに降った雪がベランダの手すりに積もり、向かいのマンションの屋根を青白く縁取っていた。暖房の低い音と、冷蔵庫の作動音。その二つだけが、ワンルームより少し広い部屋の静けさを測っている。
枕元のスマートフォンに、母から短いメッセージが届いていた。
「誕生日おめでとう。風邪ひかないでね。日曜、電話します」
由実は「ありがとう」と返し、最後に笑顔の絵文字を一つ添えた。日曜の電話で何を聞かれるかは分かっている。仕事は忙しいの。体調はどう。いい人はいないの。母に悪意はない。娘の暮らしを案じる言葉が、いつからか一つの順番に並ぶようになっただけだ。
起き上がり、カーテンを開けた。除雪車が通ったあとの道路には、硬く押し固められた雪の壁ができている。信号待ちの人々は肩をすぼめ、誰もが足元を確かめながら歩いていた。
由実はトーストを焼き、インスタントコーヒーをいれた。誕生日だからといって朝食が変わるわけではない。シンク脇の小さなカレンダーには、今日の日付の下に青いペンで「契約更新一覧・最終確認」と書いてある。札幌駅近くの不動産管理会社で働いて十二年目。賃貸物件の契約更新や入居者対応を担当し、三年前からは五人のチームをまとめている。
仕事は嫌いではなかった。誰かが見落とした数字に気づくこと、複雑になった問い合わせを順序立ててほどくこと、困っている入居者に必要な情報を渡すこと。自分の判断で一日が滞りなく進むと、確かな手応えがあった。
ただ、手応えは会社の自動ドアを出るところで途切れた。
身支度を済ませ、由実は鏡の前で髪を整えた。目尻に、以前はなかった細い線がある。見つめれば気になるし、離れれば分からない程度のものだった。けれど数年前に使ったマッチングアプリでは、相手の男性が何気なく言った。
「写真より落ち着いて見えますね」
褒めたつもりだったのかもしれない。その日の帰り、地下鉄の窓に映った自分の顔を、由実は何度も確かめてしまった。
鏡から目をそらし、厚手のコートを着た。祝い事のない誕生日も、これが初めてではない。昼には同僚が何か言ってくれるだろう。それだけで十分だと思うことにした。
円山公園駅へ向かう歩道では、冬靴の底が締まった雪をきゅっ、きゅっと鳴らした。吐く息が白くほどけ、マフラーの端に触れて消える。地下鉄の車内は湿ったコートと暖房の匂いが混じっていた。座席に腰を下ろすと、向かいに幼い女の子と母親が座っていた。女の子は片方の手袋を外し、曇った窓に指で丸を描いている。母親が小声で注意すると、女の子は笑い、また丸を描いた。
由実はその光景を見てから、膝の上のバッグに視線を落とした。
子どもが欲しいのかと尋ねられれば、うまく答えられない。欲しくないわけではない。強く望んでいるとも言い切れない。結婚したいのかという問いも同じだった。誰かと暮らすことを思い描く夜もあれば、自分の静かな部屋を手放したくないと思う朝もある。
けれど世間の問いは、そんな曖昧さを待ってくれなかった。三十五歳になった瞬間、選択肢が音を立てて狭まるように感じる。その感覚が事実なのか、周囲の言葉を自分の中で育ててしまっただけなのか、由実にはもう分からなかった。
会社に着くと、後輩の小川菜摘が紙袋を抱えて待っていた。
「高橋さん、お誕生日ですよね。おめでとうございます」
「覚えてたの?」
「去年、高橋さんが私の誕生日にプリンくれたじゃないですか。あれ、すごく嬉しかったので」
袋の中には、駅ビルの菓子店のフィナンシェが三つ入っていた。菜摘は二十七歳で、仕事の質問をするとき、申し訳なさそうに眉を寄せる癖がある。由実はその表情を見るたび、質問できるうちにしておいた方がいい、と繰り返してきた。
「ありがとう。大事に食べるね」
「賞味期限、明後日までですから、大事にしすぎないでください」
二人で笑った。祝ってもらうのは素直に嬉しい。そう感じられたことに、由実は安心した。
午前中は更新契約の確認で終わった。昼前、管理物件の一つで給湯器が止まったという連絡が入り、業者の手配と入居者への説明に追われた。電話の相手は乳児のいる家庭で、今日中に直らなければ困ると声を震わせていた。
「こちらで代替の入浴施設も手配します。修理の時間が分かり次第、すぐにご連絡します」
由実が必要事項を確認し、業者に優先対応を頼むと、夕方までには交換できることになった。電話を切ったあと、菜摘が小さく息を吐いた。
「高橋さん、すごいです。私、相手が怒ってると思ったら頭が真っ白になって」
「怒ってるんじゃなくて、不安なんだと思う。赤ちゃんがいるなら、なおさらね」
「そうやって考えればいいんですね」
由実は頷き、菜摘の机に残った付箋を一枚ずつ並べ直した。給湯器なら、業者と時間と代替案がある。自分の胸につかえているものには、問い合わせ先さえなかった。
昼休み、チームの皆が会議室で小さなケーキを出してくれた。ろうそくは一本だけで、菜摘が「三十五本は火災報知器が鳴るので」と言った。由実は笑って火を消した。スマートフォンで撮られた写真には、驚くほど自然な笑顔の自分が写っていた。
その写真をSNSに載せようとして、指が止まった。
画面を閉じ、代わりに母へ写真を送った。
すぐに「よかったね」と返ってきた。そのあとに、「職場にいい人はいないの?」と続いた。
由実は返信しなかった。
午後六時半、仕事を終えて外に出ると、細かな雪が風に巻かれていた。札幌駅前の光は雪面に反射し、街全体が必要以上に明るく見えた。歩く人の多くは足早で、待ち合わせの相手を見つけた人だけが立ち止まる。由実は地下鉄の入口へ向かいかけ、ふと思い直して駅ビルに入った。
誕生日なのだから、自分で自分に何か買ってもいい。
そう考えたのに、アクセサリー売り場では値札ばかりが目についた。化粧品売り場では店員に声をかけられる前に離れた。結局、地下の惣菜店で少し高いローストビーフのサラダと、小さな赤ワインを買った。
部屋に戻り、買ってきたものを皿へ移した。テレビをつけると、旅番組が函館の夜景を紹介していた。司会者たちの明るい声が、誰もいない部屋の壁にぶつかって戻ってくる。
ワインを半分ほど飲んだところで、高校時代からの友人、真帆から電話がかかってきた。
「おめでとう。今、話せる?」
「うん。ありがとう」
「本当はご飯に誘いたかったんだけど、岳が熱を出してさ。保育園で風邪もらってきたみたい」
真帆の後ろで子どもの泣く声がし、誰かが床を走る音がした。
「大丈夫? 電話なんていいのに」
「寝たと思ったんだけどね。ごめん、またかける」
「無理しないで。岳くん、お大事に」
通話は二分も続かなかった。切れた画面に自分の顔が映る。由実は飲みかけのグラスを持ったまま、しばらく動けなかった。
受話口の向こうでは、真帆が岳をあやす低い声が続いていた。由実は切れた画面に親指を置いたまま、自分のグラスだけが載ったテーブルを見た。
ワインを飲み干し、流しにグラスを置いた。窓の外では雪が降り続いていた。
数年前、由実も出会いを求めていた。真帆に勧められてマッチングアプリへ登録し、半年ほどで四人の男性と会った。
一人目は、会うなり写真と印象が違うと言った。二人目は、自分の年収と役職について一時間話し続けた。三人目は感じのよい人だったが、二度目の食事のあと、「子どもが欲しいので、なるべく早く判断したい」と告げた。由実には、相手が悪いとは思えなかった。望む未来がはっきりしている人にとって、時間は重要なのだろう。ただ、自分が一人の人間ではなく、条件を満たすかどうかを測られる欄になったようで、息苦しかった。
四人目の男性とは三か月続いた。名は井上といい、同い年で、会話も穏やかだった。由実は期待していた。けれどある夜、井上は結婚後の住まいや親との同居について、すでに決まったことのように話した。
「高橋さんなら仕事もしっかりしてるし、母とも上手くやれそうだよね」
「私、まだ結婚するって決めたわけじゃないよ」
由実がそう言うと、井上は困ったように笑った。
「三十四でアプリやってるなら、そのつもりだと思うでしょう」
帰宅してから、由実はアプリを削除した。井上の言葉だけが理由ではなかった。自分もまた、相手の職業や年収、結婚歴を見て、会う前から安心と不安を振り分けていた。値踏みされることに傷つきながら、同じことをしている。その矛盾に疲れたのだ。
翌朝、誕生日の空き瓶を資源ごみの袋へ入れた。日曜に母から電話があり、案の定、結婚の話になった。
「由実が幸せなら、お母さんはいいのよ」
「だったら、毎回聞かなくてもいいでしょう」
思ったより強い声が出た。電話の向こうで母が黙った。
「心配してるだけなのに」
「分かってる。でも、聞かれるたびに、今の私が足りないって言われてる気がする」
「そんなつもりじゃ……」
「ごめん。今日はもう切るね」
通話を終えたあと、由実はすぐに後悔した。母は昔から、心配を質問の形でしか伝えられない人だった。父が亡くなって七年、一人で暮らす母の方こそ、娘の将来だけでなく、自分の老いにも怯えているのかもしれない。
かけ直すことはできなかった。謝れば、また同じ会話に戻る気がした。
それから一週間、由実は仕事に没頭した。春の異動に向け、担当物件の引き継ぎ表を作り、菜摘の対応記録を確認した。残業が続くと、余計なことを考えずに済む。
金曜の夕方、部長の佐々木に呼ばれた。
「高橋さん、駅北口の新規物件、チームで担当してもらえないかな」
百二十戸の賃貸マンションで、入居開始は四月。通常業務に加えて引き受けるには負担が大きい。
「今の人数では、問い合わせが集中したときに回りません。応援を一人つけていただけるなら」
由実はそう答えた。以前なら、期待に応えようとしてその場で引き受けていたかもしれない。佐々木は眉を上げたが、やがて頷いた。
「分かった。営業から一人借りられるよう調整する」
席に戻ると、菜摘が小声で言った。
「高橋さんが条件を言ってくれて助かりました。私たちだけでやることになったら、たぶん潰れてました」
由実は自分の手帳を開きながら、「私も潰れたくないからね」と答えた。
その夜、真帆からあらためてメッセージが届いた。岳の熱が下がったことと、翌週なら夕食に出られそうだという知らせだった。由実は予定表を開き、木曜の欄に丸をつけた。
待ち合わせは、大通の地下街にある小さな洋食店だった。真帆は約束の時刻より十分遅れて現れ、椅子に座るなり両手を合わせた。
「ごめん。保育園のお迎え、夫に説明してたら遅くなった」
「急がなくてよかったのに」
「今日は由実の誕生日をやり直す日だから」
真帆は店員を呼び、由実が何も言わないうちにスパークリングワインを二杯注文した。高校二年のときに同じクラスになってから、二人の関係は長い。進学先も就職先も違い、真帆が結婚して旭川へ移った時期には、年に一度しか会わないこともあった。それでも、久しぶりに向かい合えば、昨日も話していたように言葉が続いた。
「この前は本当にごめんね」
「岳くんが熱を出したんだから仕方ないよ」
「それだけじゃなくて。私、由実なら分かってくれるって甘えてるところがある」
由実はグラスの泡を見つめた。
「正直に言うと、少し寂しかった。でも、寂しかったって言うのも嫌だった。子どもが具合悪いのに、自分の誕生日を優先してほしいみたいで」
「言っていいよ。優先できないことと、寂しくさせたことは別だから」
真帆はそう言って、グラスを軽く持ち上げた。
「三十五歳、おめでとう。由実が生まれた日を、私はけっこう大事に思ってます」
グラスが触れ、小さな音がした。由実は笑ったあと、鼻の奥が熱くなるのを感じた。
料理が運ばれてくると、話題は仕事や家族へ移った。真帆は春から勤務時間を延ばす予定だが、夫との家事分担が決まらず、何度も喧嘩しているという。
「私、結婚したら寂しくなくなると思ってたんだよね」
真帆はオムレツを切りながら、苦笑した。
「実際は、隣に人がいるのに話が通じない夜の方がきつかったりする。岳はかわいいよ。でも、かわいいだけで毎日を回せるわけじゃないし」
「SNSには、楽しそうな写真ばかり載せてるじゃない」
「洗濯物の山なんて誰も見たくないでしょう」
その言葉に、由実は声を上げて笑った。真帆も笑った。
真帆が袖をまくると、手首に薄い油性ペンの線が残っていた。岳が朝、保育園へ持っていく袋に名前を書こうとして暴れたのだという。昨夜SNSに載っていた食卓の写真に、その線は写っていなかった。
「由実は、今も結婚したい?」
不意に尋ねられ、由実はフォークを置いた。
「分からない」
「うん」
「誰かと一緒にいたいとは思う。でも、結婚という形が欲しいのか、その先にある安心が欲しいのか、自分でも分からない。子どものことも、考えないわけじゃない。でも、間に合うとか間に合わないとか、そういう数え方を始めると苦しくなる」
真帆は結論を急かさなかった。
「分からないって、ちゃんとした答えだと思うよ」
由実はグラスの縁についた水滴を指で拭った。「分からない」と口にしたあとも、店の時計は同じ速さで進んでいた。
「アプリ、またやってみようかなって思う日もあるんだけど」
「やりたければやればいいし、嫌ならやらなくていい。私が前に勧めたからって、続ける義理はないからね」
「真帆、今日はずいぶんまともなこと言うね」
「普段はまともじゃないみたいに言わないで」
帰り際、真帆は小さな包みを渡した。中には革張りの文庫本カバーが入っていた。深い緑色で、角に小さく葉の模様が押されている。
「本、まだ読んでる?」
「最近は寝る前に数ページだけ」
「じゃあ、その数ページのために使って」
地下鉄の中で包みを開き直し、由実は指先で革の表面をなぞった。誰かが自分の好みを覚えている。その事実は、恋人がいないこととは別の場所で、由実を支えていた。
翌日、母にも短いメッセージを送った。
「この前はきつく言ってごめん。でも、結婚のことを毎回聞かれるのは苦しい。私から話すまで待ってほしい」
返事は夕方に届いた。
「分かりました。お母さんもごめんなさい。今度は仕事の話を聞かせてください」
丁寧すぎる文面が母らしく、由実は笑った。「今度は仕事の話を」という一文を、もう一度読んでから画面を閉じた。
仕事では、新規物件の応援に営業部の山岸が入ることになった。山岸は物件設備には詳しかったが、入居者への連絡文を作るのが苦手だった。由実は菜摘を含めた三人で手順を分け、問い合わせの内容を共有する表を作った。
「高橋さんが全部やった方が早くないですか」
山岸が冗談半分に言うと、由実は首を振った。
「私が休んだら止まるやり方は、早く見えるだけです」
菜摘が作業を始めると、由実は二度、手を出しかけた。そのたびに手帳へ視線を戻した。予定より二十分遅れたが、菜摘が自分で最後まで終えるのを待った。
金曜の夕方、菜摘が一人で難しい問い合わせを収めた。電話を切った彼女は、椅子の背にもたれて大きく息を吐いた。
「怒ってるんじゃなくて、不安なんだって考えました」
「どうだった?」
「怖いのは怖かったです。でも、何を確認すればいいかは分かりました」
由実は頷いた。
土曜の午後、由実は掃除と洗濯を済ませた。母へ電話しようと思いながら、番号を表示したまま発信できずにいる。外は灰色で、窓ガラスに細かな雪が貼りついていた。
部屋にいれば、昨日の仕事と明日の予定を何度も考えてしまう。由実はコートを着て、行き先を決めないまま外へ出た。
大通まで地下鉄に乗り、地上へ上がった。狸小路商店街は観光客と買い物客で混み合っていた。店先から流れる音楽、キャリーケースの車輪、呼び込みの声。人の多さに疲れ、由実は途中の路地へ曲がった。
風が急に強くなり、粉雪が頬に当たった。マフラーを押さえて歩くうち、古い木造家屋の前で足が止まった。
深い緑色の扉の脇に、小さな真鍮の看板がある。
「カフェ・木漏れ日」
軒下のランプが雪の中で橙色に灯っていた。窓ガラスは湯気で曇り、その向こうに本棚らしき影が見える。
由実は一度通り過ぎ、数歩先で振り返った。
初めての店へ一人で入ることは、彼女にとって大した冒険ではない。けれどその日は、母に電話をかけられないことも、誕生日の夜に感じた寂しさも、仕事以外の予定がない週末も、すべてを部屋に置いてきたかった。
緑の扉に手をかける。
カラン、と澄んだベルの音がした。




