黒幕系女子が無様に負ける日(そんな日は来ない)
十年分の俺が、棚に並んでいた。
町外れの、蔭裏家の敷地の隅。あいつが「開かずの倉庫」と呼んでいた古い物置。
その戸は、開けっ放しだった。
俺、鵺森統は、中に踏み込んだ。
埃の匂いがした。裸電球が一つ、天井からぶら下がって点いていた。
そこは、俺の博物館だった。
壁という壁に、スチールの棚。天井まである。棚板は端から端までノートで埋まっていて、指が入る隙間もない。背表紙には年号と通し番号。左端の一番上が、いちばん古い。十年前だ。
俺は一冊抜いて、開いた。
几帳面な字だった。日付があって、その下に、俺のことが書いてあった。
『統、卵焼きを残す。甘いのが苦手になった? 要観察』
『統、風邪。三日で治る見込み。今週の当番は代わってもらう』
好物の変遷。体調の周期。癖。誰と何回話したか。全部、日付つきで並んでいた。
俺は、壁三面分の自分を、端から端まで見た。目眩がした。
奥の棚には、物が置いてあった。
小学生の頃になくした野球帽。俺が捨てたはずの、ガラスの割れた目覚まし時計。片方だけの手袋。文化祭のパンフレット。
どれにも、小さな札が付いていた。日付と、拾った場所。
俺は帽子を手に取った。埃を払った跡があった。定期的に手入れされている。十年、ずっとだ。
一つだけ、意味のわからないものがあった。
いちばん奥。ガラスの箱に入って、一枚だけ置いてある。
しわを伸ばして、丁寧に四角く畳んだ、コンビニの包み紙。
札には、日付だけが書いてあった。年号は、棚のどのノートよりも古かった。
そして、机の上。
クリアファイルが一冊、置いてあった。中身は紙の束だった。全部、同じ書式だった。
『鵺森統には、今後近づきません』
その下に、日付と、署名。
俺はファイルをめくった。知らない名前。知ってる名前。中学の同級生。バイト先にいた女の子。
紙は、ざっと見て二百枚はあった。ファイルも一冊じゃない。机の下に、同じものがあと三冊積んであった。
書式が同じということは、用紙を作った人間がいるということだ。文面の下には、細かい字でこう添えてあった。
『本書の存在を第三者に告げないこと』
告げないこと。
だから誰も、俺に何も言わなかったのか。
そして、いちばん新しいページ。
部活の後輩の名前があった。
日付は、あいつが俺を体育館裏に呼び出した、その前日だった。
俺は、ファイルを閉じられなかった。
――ここに辿り着くまでの話をする。二週間前まで戻る。
*****
俺の人生は、平穏だ。
教室では誰にも絡まれない。廊下でぶつかられることもない。バイト先の店長は妙に俺に甘くて、シフトの融通がやたら利く。購買に行けば、売り切れがちな焼きそばパンが、なぜかいつも一個だけ残っている。
できすぎている。逆に薄気味悪い。そう思ったことは、正直ある。
思ったけど、深く考えなかった。考えなくても困らなかったからだ。
そして俺の隣には、いつも蔭裏纏がいた。
家が隣同士の腐れ縁。成績優秀、人当たり良好。笑顔の完成度が高すぎて、逆に何を考えてるのか読めない女。
言っておくが、別に好きとかじゃない。物心ついた時から隣にいて、隣にいるのが当たり前になってるだけだ。
「統、購買行くの? 焼きそばパン、今日も残ってるといいね」
「おう。......お前、なんで残ってるって知ってんの」
「ふふ。日頃の行いじゃない?」
こういう台詞を、俺は十年間、聞き流してきた。
聞き流してきたツケを、まとめて払う日が来るとも知らずに。
思い返せば、変な場面はいくらでもあった。
傘を持っていない日に、纏が二本持っている。「今日は降るって言ってたよ」と言うが、天気予報は晴れだった日もある。
電車で座れないことがなかった。俺が乗る車両のドアの位置に、纏が先に並んでいたからだ。
「なんでお前、いつも俺より先にホームにいるんだよ」
「早起きだから」
「家、隣だぞ」
「......早起きだから」
答えになっていなかった。答えになっていないことに、俺は十年、突っ込まなかった。
突っ込まないのが、たぶん、いちばん楽だったからだ。
きっかけは、後輩だった。
部活の後輩に、最近やたらと話しかけてくる子がいた。道具の片付けを手伝ってくれたり、ドリンクを買ってきてくれたり。俺は鈍い方だが、さすがに何となくは察していた。
ある日、その子が手紙をくれた。折り目が丁寧だった。
『放課後、体育館裏に来てください』
で、その放課後。
体育館裏に、後輩は来なかった。
俺は三十分待って、帰った。すっぽかされたな、と思った。悪ふざけだったのかもしれない、とも思った。
翌週、廊下ですれ違った。
後輩は俺の顔を見た瞬間、真っ青になった。青ざめて、目を逸らして、小走りに逃げた。
その月のうちに、転校した。
おかしいだろ、どう考えても。
俺は立ち止まって、初めて、ちゃんと考えた。
思い返せば、初めてじゃない。
俺に近づいた奴が、なぜか離れていく。それも、怯えた顔で。
中学で一人。高校に入ってからも二人。一人は部活を辞め、一人は俺の名前を出しただけで話を打ち切るようになった。
全員、順番に、俺の視界から消えた。
俺は鈍いなりに、一つの結論に行き着いた。
――俺の平穏は、天然物じゃない。養殖だ。
だったら、養殖業者を探すまでだ。いや、探すなんて必要もないくらい、あたりはついてるんだけどさ。
誰かに相談するのもやめておいた。その誰かも消える気がした。
一番怪しい奴を、直接つける。それだけでいい。
誰を、って?
......焼きそばパンの残数を、事前に知ってる奴がいるだろ。
放課後、纏のあとをつけた。
あいつは駅と反対方向に歩いた。商店街を抜けて、川沿いに出て、町外れの舗装が切れる道に入った。俺は電柱一本分の距離を保って歩いた。バレなかった。
纏は倉庫に入って、二十分出てこなかった。
俺はその二十分、物陰で言い訳を考えていた。中に入って何もなかったら、俺は腐れ縁の女の家の物置に勝手に入った変質者だ。散歩だ、忘れ物だ、どれも通らない。
通らなくていい、と思った。
後輩の顔が浮かんだ。俺を見た瞬間に青ざめて、逃げた顔だ。あの子は何も悪いことをしていない。手紙を書いて、体育館裏を指定して、それだけだ。
俺は、戸に手をかけた。
*****
「......あーあ。見つかっちゃった」
背後で、声がした。
念書のファイルを持ったまま、俺は振り返った。
纏が立っていた。
焦るでも青ざめるでもなく、いつもの完成された笑顔で、こてんと首をかしげていた。
「どうやってここまで? あ、つけてきたんだ? ふふ、統にしては上出来」
「......これ、全部、お前か」
「うん」
纏は悪びれもせず、むしろ少し誇らしげに、棚を撫でた。
「統の平穏はね、ぜんぶ私の手作りなの」
「手作り」
「バイト先の店長さんには、統が入る前から話を通してある。焼きそばパンは購買のおばちゃんと取り置きの約束をしてる。統の席が窓際なのは、席替えのくじを私が作ったから。中学の頃に統に絡んでた子たちは、家庭の事情を私が把握してから、絡まなくなった」
すらすら出てきた。メモも見ない。全部、頭に入ってるのだ。
「待て。バイト先って、俺が面接受ける前からか」
「うん。落ちないように話を通してから、統に求人を見せたの」
俺はあの日、駅前の掲示板でたまたま求人を見つけたと思っていた。立ち止まったのも、隣にいた纏が「あ、募集してる」と言ったからだった。
「......で、こっちは」
俺は念書のファイルを持ち上げた。
「統に悪い虫がつきそうになったら」
纏は、俺の手からファイルを取って、机に置いて、とん、と紙の端を揃えた。
「こうやって、ご遠慮いただいてるの」
「後輩に、何をした」
「何も? お話ししただけだよ」
「何を話した」
「彼女の秘密とか、ご家族のこととか、進路のこととか。私がどれだけ詳しく知ってるかを、ちょっとずつ」
「それを脅迫って言うんだよ」
「人聞きが悪いなぁ」
纏は笑った。心底、不思議そうに笑った。
「ぜんぶ、統のためなのに」
俺のため。
その一言で、腹の底が冷えた。
こいつは十年、俺のためという名目で人を脅し、俺に近づく人間を一人ずつ、書面を取って追い払った。
そして俺は、その中で何も知らずにぬくぬく育った。
体育館裏で三十分待った俺は、間抜けだった。あの子は来られなかったんじゃない。来ないと書かされていた。
気持ち悪かった。
こいつの十年も、それに気づかなかった俺自身も、まとめて気持ち悪かった。
「いらない」
気づいたら、言っていた。
「......こんなもん、全部いらない。頼んでない。俺は、お前が裏で人を脅すたびに保たれる平穏なんて、一秒もいらなかった」
「統」
「気持ち悪い」
言い切って、纏の顔を見た。
完成された笑顔に、初めて、ヒビが入っていた。
目が、ほんの少しだけ、見開かれていた。それから、口の端が、上がろうとして、途中で止まった。
「......あ、はは」
纏は、笑った。笑おうと、した。
「ぜ、全然いいよ?」
「......」
「しゅ、しゅ、趣味みたいなものだしぃ? 統のためとか、そんなんじゃ、全然、ないし。ただの、記録? ほら、私、几帳面だからさ。あはは」
「纏」
「捨てるし、こんなの。うん。明日、ぜんぶ、捨てる、から。だから、その、統は、気にしないで」
声が、震えていた。
語尾が上がっていた。上がりきらずに落ちた。
あいつは、それでも笑顔を崩さなかった。崩さないまま、頬だけが引きつっていた。口の端を上げようとして、うまくいかなくて、もう一度上げ直していた。
目に涙が溜まっていくのが、裸電球の下でもわかった。
「あのね、統」
「なんだ」
「べつに、十年もかけてないから。ほんとは。......途中、飛んでる年もあるし」
棚には、抜けた年号なんて一つもなかった。
「あと、その帽子も、たまたま拾っただけだから。ずっと持ってたわけじゃなくて。ほんとは去年くらいに拾って、日付だけ昔にして」
札の字は、ノートと同じインクの褪せ方をしていた。
「......だから、そんな顔しないでよ。重くないでしょ? ね? 軽いでしょ、これくらい」
嘘が下手だった。
十年、俺の周りの人間を一人残らず動かしてきた女が、自分のことになると、こんなに嘘が下手だった。
纏は、右手で左の袖口を握っていた。ずっと握っていた。指の関節が白かった。
「ね。統。......ねえってば。何か言ってよ」
十年分を積み上げた棚の前で、黒幕は、笑ったまま泣くのを我慢していた。
見たこともないくらい、無様だった。
何か言えばよかった。言葉は、喉の奥にいくつも溜まっていた。
でも、言うべきことが言葉になってまとまることはなかった。
俺は、何も言わずに倉庫を出た。
背中の方で、「あはは、あはは、はは」と乾いた笑い声がした。
*****
それからの二週間で俺は思い知った。
俺の平穏が、どれだけの人力で回っていたかを。
焼きそばパンは、二度と俺の番まで残らなかった。三日連続で売り切れを見た日、俺は購買のおばちゃんに聞いた。
「あの、焼きそばパンって」
「あら、鵺森くん。取り置き、もういらないんでしょ? 蔭裏さんから聞いたわよ」
バイトのシフトは、地獄の連勤に変わった。店長は悪びれずに言った。
「いやぁ、今までが特別待遇すぎたんだよ。誰かさんに頭下げられてたからさ」
なくし物が、返ってこなくなった。
定期入れを落とした。三日待っても返ってこなかった。今までは必ず三日以内に「拾ったよ」と戻ってきていた。誰の手でかは、もう言うまでもない。
極めつけは、傘だった。
夕方から降り出した日、俺は当然のように昇降口で手ぶらだった。今まで、こういう日には必ず二本目があったからだ。
昇降口に、纏がいた。傘を一本だけ持っていた。
目が合った。
纏は、会釈をして、そのまま雨の中に出ていった。
俺はずぶ濡れで帰った。当たり前のことだ。当たり前のことが、こんなに冷たいとは思わなかった。
纏は、宣言どおり「卒業」した。挨拶はする。会話も普通にできる。ただ、それだけになった。
倉庫の話は、どちらからも出さなかった。
そして、二週間目のことだ。
「蔭裏さんってさ、最近ガード緩くない? 俺、いけると思うんだよね」
隣のクラスの伊達が、廊下でそう吹いてるのを聞いた。
纏に近づく虫を払う人間は、もういない。
あいつの情報網は、あいつ自身のためには、一度も使われたことがないからだ。
......で、だ。
放課後、階段の踊り場で、伊達が纏の肩に手を回そうとしていた。
纏は半歩引いた。引いて、そして、愛想笑いをした。
あの完成された笑顔で。俺に向けていたのと、同じ角度で。
俺の腹の底で、何かが煮えた。
は? なんで笑ってやってんだ。
お前の笑顔は、そんな安売りするもんじゃないだろ。
......何様だ、俺は。
十年を「気持ち悪い」と切り捨てた口で、あいつが他の男に笑うのは許せないと?
筋が通ってない。通ってないどころか、最低だ。
別に、好きじゃなかったはずだ。隣にいるのが当たり前だっただけの、腐れ縁のはずだ。
でも、認める。俺は今、猛烈に悔しい。好きかどうかより先に、「取られたくない」が来た。その程度には、俺はクズだった。
クズはクズらしく、正直にいく。
*****
その夜、倉庫に明かりがついていた。
戸を開けると、纏がノートの山をドラム缶に詰めていた。足元に灯油の缶があった。蓋が開いていた。
本気で燃やす気だ。
「待て」
「......統? なんで」
「燃やすな」
俺はドラム缶に手を突っ込んで、ノートを一冊抜き取った。埃を払った。十年前の年号が入っていた。
「なんでよ」
纏の声が、低くなった。
「いらないんでしょ。気持ち悪いんでしょ。だから捨てるの。それとも、燃やすとこまで監視しないと気が済まない? ふふ、ひどいなぁ、統は......」
軽口の途中で、声が裏返った。
限界だったんだろう。この二週間、ずっと。
「......いいじゃん、別に。私の十年なんだから、私が捨てるの。なんの価値もない10年だった資料なんだもん、いらないよ。統には関係な――」
「ある。......今からあることにする」
俺は、纏の正面に立った。
「先に言っとく。俺はクズだ」
「知ってる」
「話は最後まで聞け。俺はお前の10年を気持ち悪いと言った。あれは撤回しない。人を脅して作る平穏は、本当にいらない。後輩への落とし前も、これからお前と二人でつけに行く。転校先まで行く。土下座はお前がしろ。俺も隣で下げる」
「......うん」
「その上で、だ」
俺は、抜き取ったノートを胸の前で持ち直した。
「お前が伊達に愛想笑いしてるのを見て、俺は腹が煮えた。好きかどうかは、正直まだ言葉にならん。ただ、お前が他の誰かのものになるのは、死んでも嫌だ」
纏が、顔を上げた。
「......それ、告白?」
「違う」
俺は、はっきり言った。
「告白ってのは、好きだと言える奴がやるもんだ。俺はまだ言えない。言えないのに言ったら、それは嘘だ。嘘はもうつかないと決めた」
「......じゃあ、なに」
「取られない形にする」
纏の顔から、表情が抜けた。
「......え」
「言葉は後からいくらでも足せる。先に、逃げられなくする。その胎、俺が占有する」
俺はノートを棚に戻して、灯油の缶の蓋を閉めた。
「嫌なら言え。今なら止まる」
「......言わない」
纏は、俺の袖を掴んだ。掴む力が、やたら強かった。
*****
纏は、俺の家に来るようになった。というより、俺が来させた。
俺は相変わらず、好きだとは言わなかった。言えないものを言うのは嘘だから、というのは建前で、本当は、言ったら負けだと思っていた。
何週間か経った、ある夜のことだ。
台所で、纏が立ったまま俺を見ていた。
「統」
「なんだ」
「私さ。まだ一回も、好きって言われてないんだけど」
「......おう」
「コレクションは気持ち悪いって言われて、念書は全部破らされて、家からも出て、それで」
纏は、自分のお腹のあたりに、そっと手を置いた。
「......これだけ、置いていかれたんだけど」
完成された笑顔は、そこになかった。
あるのは、あの夜の倉庫で見たのと同じ顔だ。笑おうとして、失敗している顔。
「全然いいよ?」
......出た。
「趣味みたいなものだし。私、統の役に立ててるし。だから、その、気にしないで。ほんとに、いいの。ぜんぜん、いいの」
声が震えていた。目の縁が赤かった。指は、左の袖口を握っていた。
俺は、そこで何も言わなかった。
言えなかったんじゃない。言わないことを選んだ。言ったら、この関係の手綱がどっちにあるのか、わからなくなる気がしたからだ。
......本当に最低だと思う。異論はない。
その夜、俺は一人で倉庫に行った。
確かめたいことがあった。あいつが10年、一日も欠かさず書いてきたなら、いちばん新しいページに今の俺たちのことが書いてあるはずだ。
棚のいちばん右の、いちばん下。通し番号の最後は、423だった。
抜いて、最後の書き込みのページを開いた。
白紙だと思っていた。
白紙じゃなかった。
几帳面な字で、一行だけ書いてあった。
『統が、私を手放せなくなる日』
その横に、日付があった。
倉庫であいつを止めた、あの夜の日付だった。
インクの褪せ方は、前のページと同じだった。今日書いたものじゃない。ずっと前から、そこにあった。
俺は、手前のページをめくり戻した。
几帳面な字が、並んでいた。
『倉庫の戸は、開けたままにしておく』
『尾行に気づいても、気づかないふりをする』
『「いらない」と言われる。ここがいちばん痛い。耐える』
『二週間、いっさい構わない。統が困るのを、遠くから確認する』
『伊達くんに、私のガードが緩いという話が届くようにする』
『倉庫で燃やす素振りをする。灯油は本当に買っておく。統は、必ず止めに来る』
全部だった。
俺が倉庫を見つけた日から、あの夜あいつを止めるまで。俺のやったことは一つ残らず、この字で先に書いてあった。
背後で、戸が鳴った。
「あ。読んじゃった?」
振り返ると、纏が立っていた。
いつもの、完成された笑顔だった。
「......これはなんだ」
「工程表」
纏は、こてんと首をかしげた。
「言ったでしょ。統の毎日は、ぜんぶ私が作ってるって。......気持ち悪いって言われたあとの毎日も、私が作ったの」
「泣いてただろ。倉庫でも、さっきの台所でも」
「うん。泣いてたよ」
あっさり頷いた。
「気持ち悪いって言われたの、ほんとに痛かった。辛かった。あれは演技じゃない。3日、ごはん食べられなかったもん」
「......じゃあ、なんで」
「辛いのと、そこに書いてあることは、両立するでしょ」
纏は、俺の手からノートを取った。最後のページを、とん、と指で叩いた。
「自分が辛い思いをするところまで書いてあるだけ。私、自分にだけ甘くしたことは、一度もないの」
俺は、動けなかった。
あの夜、俺は自分の意思で最低なことをしたつもりだった。逃げ道を潰したつもりだった。
潰されていたのは、俺の方だった。
あいつの情報網は自分のためには一度も使われない、と俺は思っていた。とんでもない。10年分の情報網は、あの一晩のためだけに、全部使われていた。
「......計画通りかよ」
「うん」
纏は、この10年でいちばんきれいに笑った。
「計画通り」
俺は、一冊目のノートを棚から抜いた。いちばん古いやつだ。
最初のページ。日付が一行あって、その下に二行だけ書いてあった。
『はじまりの日』
『肉まん、半分もらった』
まったく心当たりがなかった。
「なあ。これはなんの日だ」
「忘れてていいよ」
纏は、それだけ言った。何を聞いても、それ以上は答えなかった。
......一つだけ、思い出したことがある。
ずっと昔の冬の夜だ。俺は町外れの橋のところで、近所の子が一人で立っているのを見た。何をしているのかは聞かなかった。腹が減っていたから、袋の中の肉まんを半分やって、一緒に帰った。それだけだ。
名前も、顔も、覚えていない。
あいつの10年は、俺のその一晩から始まっていた。ガラスの箱に入っていた包み紙の意味も、これでわかった。
肉まん半分に、423冊。
......割に合わなすぎるだろ。
「合ってるよ」
顔に出ていたらしい。纏は、棚を撫でながら言った。
「あの夜、あそこにいた私を見つけたの、統だけだったもん。だから統の毎日は、私が全部作るの。決めたのは、あの日。......10年、一日も飛ばしてない」
この423冊のどこかに、俺が最低な男になる日まで書いてあったわけだ。
あれから、ノートは一冊も燃やしていない。
一冊目から順番に、俺が読んでいる。読みながら、一件ずつ、二人で落とし前をつけて回った。
転校した後輩には、電車を乗り継いで会いに行った。纏が土下座した。俺も下げた。念書は本人の前で破いた。あの子は最後に、少しだけ笑ってくれた。それでチャラだとは思っていない。
帰りの電車で、纏は窓の外を見たまま言った。
「私、あの子に悪いことしたって、まだ思えてないの」
「知ってる」
「じゃあ意味なくない?」
「ある。お前が思えなくても、あの子は念書が破られるところを見た。それでいい」
あいつが下げたのは、後輩への頭じゃない。俺への頭だ。
わかっていて、俺は連れて行った。次も連れて行く。俺も大概だと思う。
中学の同級生にも、バイト先の子にも、順番に会った。念書に名前があったのは、全部で238人。3年かかった。
購買の取り置きは、やめてもらった。あれはちょっと惜しかった。
......で、これは数年後の話。
黒幕は廃業した。......ということになっている。
うちの居間には、天井まで届く棚を入れた。423冊が並んでいる。424冊目からは二人で書くことになった。表紙には俺の名前も入っていて、俺がいつ開いてもいい。それが廃業の条件だ。
条件を出したのは俺で、飲んだのはあいつだ。
......たぶん、それも書いてあったんだと思う。
玄関には、俺のでも纏のでもない、小さい靴が一足ある。
落とし前をつけたのは、俺のはずだった。つけられたのは、俺の方だった。
好きだとは、いまだに言っていない。言ったら完全に負けだからだ。
......いや、違うな。もうとっくに負けている。認めるのが嫌なだけだ。
あいつはそれも知っていて、今日も何も言わずに、この家でいちばん幸せそうに笑っている。
次のページに、俺が折れる日付まで書いてあるんだろう。
<終わり>




