普通はいらない
数日後。
久々のオフ。
本来なら、身体を休める日だった。
夏の大会が終わってから、毎日のように練習している。
右腕の調整。
左腕の練習。
身体の疲労は確実に溜まっていた。
それでも。
休む気にはなれなかった。
あの日。
最後の一球を打たれた瞬間。
あの悔しさが、まだ胸の奥に残っている。
143km/h。
自分の最高の球。
それでも届かなかった。
だから。
もっと強くなる必要がある。
そのために――
俺は街へ出ていた。
目的は一つ。
両利き用のグローブ。
普通の選手なら必要ないもの。
でも。
俺には必要だった。
右で投げる。
左で投げる。
その両方を武器にするなら。
一つのグローブで戦えるようにしなければならない。
最初のスポーツ用品店。
店員に聞く。
「すみません」
「はい」
「両利き用のグローブってありますか?」
店員は少し困ったような顔をした。
「両利き用……ですか?」
「ああ」
数秒の沈黙。
そして。
「すみません、そういうのは取り扱いがなくて……」
予想通りだった。
次の店。
また次の店。
大型店も回った。
有名メーカーの商品も見た。
だけど。
答えは全部同じだった。
「そういう商品は作られていないですね」
店を出る。
夕方の風が吹く。
俺は空を見る。
やはり普通はいらない。
右も左も投げるやつなんて、ほとんどいない。
そもそも。
そんな無茶なことを考える選手自体が少ない。
俺は歩き続ける。
そして。
最後に辿り着いた場所。
古びた個人店。
大きなチェーン店とは違う。
小さな看板。
少し色あせた文字。
店の前には、長年使われているような木製の看板が置かれている。
正直。
営業しているのかすら分からない。
でも。
なぜか。
足が止まった。
理由は分からない。
ただ。
ここには何かある気がした。
「……ここが最後か」
俺は扉に手をかける。
カラン。
小さなベルの音。
静かな店内。
瞬間。
革の匂いがふわっと広がった。
新品のグローブ。
使い込まれた革。
職人が手を入れた道具。
その全部が混ざったような匂いだった。
店内を見渡す。
並んでいるグローブは、どれも普通の商品とは少し違って見えた。
新品なのに。
最初から手に馴染んでいるような雰囲気。
数十秒。
誰も出てこない。
「……留守か?」
そう思った瞬間。
「あ!!」
突然、奥から声がした。
「キミは!」
「……え?」
奥から顔を出したのは、同い年くらいの少女だった。
明るい表情。
大きな瞳。
そして。
俺を見るなり、目を輝かせる。
「鷹浜中の2年の剛腕!」
「嶋口勝くんだよね!」
「……ああ、まあ」
少女は一気に距離を詰めてくる。
「やっぱり!」
「テレビで見た時から思ってたんだよ!」
「本物だ!」
「……」
少し困る。
こういう反応には慣れていない。
少女は気にせず続ける。
「あ、私の名前は悪石凛!」
「今はこの店のお留守番してるんだ!」
「留守番って……店員なのか?」
凛は少し胸を張った。
「一応、ここの娘!」
「お父さんが店主なんだ」
「今日は仕入れに行っててさ」
「へぇ……」
俺は店内を見る。
凛は俺の視線に気づいた。
「気になる?」
「いや」
「絶対気になってる顔してる」
「……」
図星だった。
並んでいるグローブ。
どれも普通じゃない。
「この前の決勝見たよ」
突然。
凛が言った。
俺の動きが止まる。
「惜しかったね」
「……まあな」
短く返す。
それ以上は言わない。
でも。
頭の中にはまだ残っている。
最後の一球。
陽田蘭のバット。
スタンドへ消えていく白球。
凛はそんな俺を見ていた。
「最後」
「真っすぐだったでしょ」
「……」
「逃げなかったんだね」
俺は少しだけ顔を上げる。
「逃げる理由がなかっただけだ」
凛は少し笑った。
「いいね」
「そういうの」
そして。
少し真剣な表情になる。
「でも」
「だからこそ、次が必要なんだよ」
「次?」
凛はカウンターに肘をついた。
「同じ真っすぐでもさ」
「右の真っすぐと」
「左の真っすぐ」
「全然違うでしょ?」
その瞬間。
俺の表情が変わった。
「……!」
凛は笑う。
「やっぱり」
「図星なんだ」
「何が」
「左」
言葉が出なかった。
「見たんだよ」
「試合のあと」
「キミが左で投げてるところ」
「……どこで」
「学校の裏の壁」
そして。
少し笑う。
「全然入ってなかったけどね」
「うるせえな」
思わず返す。
凛は楽しそうに笑った。
「でも」
「あれ、ただの遊びじゃなかった」
「……」
「悔しかったんでしょ」
「だから」
「もう一個の答え探してた」
何も言えなかった。
完全に見抜かれていた。
凛はカウンターから離れる。
「こっち」
俺は黙ってついていく。
店の奥。
表には並んでいない棚。
少し埃をかぶった場所。
凛は一つの箱を取り出した。
「普通はね」
「両利き用のグローブなんて存在しないの」
箱を開ける。
中に入っていたのは。
少し変わった形のグローブ。
左右対称に近い。
どちらの手でも扱えるように設計されている。
ポケットは深く。
握り替えやすい構造になっている。
「……これ」
「試作品」
「この前、ウチで作ったやつ」
「売り物か?」
凛は首を横に振る。
「違う」
「挑戦者用」
「なんだそれ」
凛は少し間を置いた。
「キミが投げてるのを見て」
「ここに来る気がした」
「だから、お父さんにお願いした」
「……は?」
凛は肩をすくめる。
「だって」
「そういう顔してたから」
「どういう顔だよ」
「諦めてない顔」
言い返せなかった。
凛は続ける。
「でも」
「これは普通のグローブじゃない」
「ちゃんと使えないと」
「逆に邪魔になる」
「中途半端な人には絶対扱えない」
俺はグローブを手に取る。
思ったより軽い。
でも。
芯はしっかりしていた。
まるで。
覚悟を試されているようだった。
「だから条件」
「条件?」
凛はボールを一つ投げてくる。
パシッ。
自然と右手で受ける。
「ここで投げて」
「右と左」
「両方」
「店の中だぞ」
「奥なら大丈夫」
見ると。
奥の壁は分厚いゴムで覆われていた。
「壁当てできるようにしてある」
なるほど。
ただのグローブ店じゃない。
ここは。
挑戦する人間のための場所なのかもしれない。
「逃げたら」
凛は笑う。
「貸さない」
「誰が逃げるかよ」
俺はボールを握った。
まずは右。
「いくぞ」
振りかぶる。
踏み込む。
腕を振る。
シュッ。
ドンッ!!
いい音。
芯を食った感触。
凛は頷く。
「うん」
「それは知ってる」
「じゃあ次」
俺は無言でグローブを持ち替える。
左。
まだ不安定。
でも。
ここで逃げるわけにはいかない。
嶋口(関係ねえ)
振りかぶる。
踏み込む。
腕を振る。
「……っ!」
シュッ――
ドンッ!!
さっきより強い音。
でも少し高い。
「惜しい」
「分かってる」
もう一球。
低め。
コースを意識。
シュッ。
ドンッ!!
今度は。
狙った場所へ。
凛の表情が変わった。
「……へぇ」
ゆっくり近づいてくる。
「思ったより早いね」
「形になるの」
「どの目線で言ってんだ」
凛はグローブを見る。
「それ」
「使いこなせるかもね」
「貸してくれるのか」
凛は少し考えた。
そして。
ニヤッと笑った。
「まだ」
「……は?」
「もう一個条件」
「めんどくせえな」
凛は真っ直ぐ俺を見る。
そして。
「私を甲子園に連れてって」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「いや」
「急にスケールでかすぎだろ」
でも。
凛は笑わなかった。
さっきまでの明るさが消えていた。
真剣な目。
「冗談じゃないよ」
静かな店内。
時計の音だけが響く。
「私」
「ずっと見たかったんだ」
「誰かが、不可能って言われることに挑戦するところ」
凛はグローブを見る。
「だから」
「キミに使ってほしい」
俺は黙った。
「約束ね」
その言葉が。
不思議と胸に残った。
そして。
俺の新しい挑戦は。
一つのグローブと。
一人の少女との約束から始まった。




