昔なら考えない事
講演会から数日後。
大学には穏やかな秋風が吹いていた。
キャンパスの並木道では、色づき始めた葉が風に揺れている。
海斗は研究室の窓を開け、深く息を吸った。
昔なら考えられなかったことだ。
以前の自分は、研究室へ来るとすぐに机へ向かい、窓を開けることすら忘れていた。
季節が移り変わることにも気づかないほど、数式だけを見つめていた。
しかし今は違う。
風の匂い。
鳥の声。
学生たちの笑い声。
そんな何気ない日常も、大切な時間だと思えるようになっていた。
「先生、おはようございます。」
研究室の扉が開き、大学院生の一人が顔を出す。
「おはよう。」
「今日も早いですね。」
「昔から朝型だからな。」
学生は笑いながら資料を机へ置いた。
「先生、この前の講演、すごかったです。」
「数学雑誌にも載るらしいですよ。」
海斗は少し困ったように笑う。
「そうらしいな。」
「他大学でも話題になってます。」
「交互完全数や交互友愛数の研究を進めたいっていう先生もいるそうです。」
その言葉に、海斗は静かに目を閉じた。
研究は、自分一人のものではなくなっていた。
新しい数学は、少しずつ世界へ広がり始めている。
もし玲がこの話を聞いたら、きっと両手を叩いて喜んだだろう。
「海斗君、すごい!」
そう言って笑う姿が目に浮かぶ。
「先生?」
学生が不思議そうに顔を覗き込む。
「ああ、すまない。」
「少し昔を思い出していた。」
学生はそれ以上聞かなかった。
海斗にも、誰にも話していない思い出があることを知っていたからだ。
その日の夕方。
海斗は大学を出ると、その足である場所へ向かった。
小さな花屋。
ガラス越しに見える店内は、以前と変わらず色とりどりの花であふれている。
扉を開くと、小さなベルが鳴った。
「あら、いらっしゃい。」
店主は海斗を見ると、穏やかに微笑んだ。
「今日は何になさいますか?」
海斗も微笑み返す。
「タモトユリを一本。」
「はい。」
店主は何も聞かない。
何年も同じ花を買い続ける青年。
その理由を尋ねることは、一度もなかった。
花を包みながら、店主は静かに言う。
「今年もきれいに咲きましたよ。」
「そうですか。」
「きっと喜んでくださっていますね。」
海斗は一瞬だけ驚いた。
店主は詳しい事情を知らない。
それでも、その言葉は胸へ静かに届いた。
「……ありがとうございます。」
花束を抱え、海斗は墓地へ向かう。
夕暮れの空は、淡い茜色だった。
墓石の前へ立つ。
静かにタモトユリを供える。
墓石には、今も変わらず名前が刻まれている。
浜辺玲。
そして、小さく刻まれた数字。
六〇。
一六八↔二四八。
海斗はしゃがみ込み、墓石へ手を添えた。
「玲。」
風が吹く。
木々が優しく揺れる。
「今日な。」
「学生が、お前たちの研究を続けたいって言ってくれた。」
返事はない。
それでも海斗は話し続ける。
「俺たちだけの数学じゃなくなった。」
「世界へ少しずつ広がってる。」
「……お前なら喜ぶだろ。」
風がまた吹く。
タモトユリが小さく揺れた。
その姿は、まるで玲が頷いているようだった。
「それから。」
海斗は少し笑う。
「また新しい性質を見つけた。」
「まだ証明の途中だけど。」
「今度は前より難しい。」
玲が生きていた頃なら、すぐに「教えて!」と身を乗り出しただろう。
難しい話でも、最後まで楽しそうに聞いてくれた。
分からないところは何度も質問し、自分なりの言葉で理解しようとしていた。
数学を心から楽しむ、その姿が好きだった。
「また聞いてほしかったな。」
その言葉だけは、少し震えていた。
空を見上げる。
雲の隙間から、一筋の夕日が差し込む。
「でも。」
海斗は静かに笑う。
「聞いてくれてる気がする。」
その時だった。
墓地へ、一人の小学生くらいの少女がやって来た。
母親と手をつなぎ、近くのお墓へ花を供えている。
少女は帰り際、海斗の持ってきたタモトユリを見て足を止めた。
「お母さん。」
「このお花、きれい。」
母親は優しく微笑む。
「そうね。」
「きっと、大切な人が好きだったお花なんでしょうね。」
少女は海斗を見上げた。
「お兄ちゃん。」
海斗は優しく微笑み返す。
「その人、喜んでる?」
突然の問いだった。
海斗は少し驚いた。
けれど、すぐに空を見上げる。
風が吹く。
花が揺れる。
「……うん。」
「きっと、すごく喜んでる。」
少女は安心したように笑った。
「よかった!」
そう言うと、母親と一緒に歩いて行った。
その後ろ姿を見送りながら、海斗は静かに目を閉じる。
喜んでいる。
そう思えたのは、初めてだった。
失った悲しみは消えない。
これから先も消えることはないだろう。
けれど、その悲しみだけではない。
玲と出会えた喜びも。
笑い合った時間も。
数学を語り合った日々も。
全部、自分の中で生き続けている。
海斗は立ち上がる。
「また来るよ。」
墓石へ軽く頭を下げる。
「次は、新しい定理を持って。」
夕焼けに照らされた道を歩き始める。
その背中は、もう孤独ではなかった。
隣に姿はなくても。
心の中には、いつも玲がいた。
そして、その歩みはこれからも止まらない。
二人で見つけた数学を、未来へつないでいくために。




