唐突な発想は成り立つ…?
翌る日。
昼放課になると、海斗は昨日と同じように大学図書館へ向かった。
昼下がりの館内は静かで、窓から差し込む柔らかな日差しが木製の机を照らしている。
数学書を開き、昨日の続きを読もうとした、その時だった。
「海斗君!」
聞き慣れた明るい声が響く。
振り返ると、玲が笑顔で手を振りながら駆け寄ってきた。
「また来てたのか。」
「もちろん!」
玲は向かいの席へ座ると、机に肘をついて身を乗り出した。
「今日は昨日の続き、教えて!」
「続き?」
「数学!」
海斗は苦笑した。
「そんなに面白いか?」
「うん! 昨日聞いてたら気になっちゃって。」
純粋な瞳だった。
点数のためでも、受験のためでもない。
ただ「知りたい」という気持ちだけで数学に興味を持っている。
その姿は、幼い頃の自分を見ているようだった。
海斗は本を閉じる。
「君は、『完全数』って知ってる?」
「むむ、私は君じゃないよ」
「私には浜辺玲っていう名前がちゃんとあるんだよ」
確かに名前は大事だ、一見他人からすればただの記号だが本人からするととても重要だ。
それを5つほど離れている少女から海斗は再認識した。
「すまなかった。」
「じゃあ、玲ちゃんで」
「子供扱いだなー!」
玲は不服そうにはしてたが、切り替えてくれてよかったと海斗は安打する。
「それでかんぜんすう?」
「知らない?」
玲は小さく首を傾げた。
「ううん。初めて聞いた。」
「じゃあ、一番有名な例を見てみよう。」
海斗は近くにあったメモ用紙を手に取り、さらさらと文字を書いていく。
『6の約数(6自身を除く)』
1、2、3
「約数って分かる?」
「割り切れる数だよね?」
「そう。」
海斗はうなずいた。
「この三つを全部足すと……」
玲は指を折りながら数え始める。
「1足す2で3。」
「うん。」
「3足す3で……6!」
玲は思わず声を上げた。
「元に戻った!」
「そういう数を完全数という。」
「へぇ~!」
玲は目を輝かせる。
「すごい! 本当にぴったり戻るんだ!」
「全部の数がこうなるわけじゃない。」
海斗は続ける。
「例えば7なら、約数は1だけだから1になる。」
「全然違う。」
「8なら1、2、4で7。」
「惜しい!」
「12なら1、2、3、4、6で16。」
玲は何度もうなずきながら聞いていた。
「つまり、完全数ってすごく珍しいんだ。」
「ああ。」
海斗は数学書を開きながら言った。
「人類は二千年以上、この数を研究し続けている。」
「二千年!?」
「古代ギリシャの時代から知られている。」
玲は感心したようにため息をついた。
「たった一つの数なのに、そんなに長く研究されてるんだ。」
「数論は、そういう世界なんだ。」
しばらく沈黙が流れる。
玲はメモ用紙に書かれた「6」をじっと見つめていた。
そして、不意に口を開く。
「だけどさ。」
「ん?」
「完全数って、単純だよね。」
海斗は本から顔を上げた。
「単純?」
「うん。」
玲はペンで『1、2、3』を指しながら言う。
「約数を全部足して元の数になるだけでしょ?」
「まあ、定義だけ見ればそうだ。」
「だったら。」
玲は少し考え込むように机を指で軽く叩く。
「約数が偶数ならプラスで、奇数ならマイナスにして足したらどうなるんだろう?」
その場に静寂が流れた。
海斗は一瞬だけ目を瞬かせる。
あまりにも突飛な発想だった。
「偶数を足して、奇数を引く?」
「うん!」
玲は無邪気に笑う。
「なんとなく面白そうじゃない?」
海斗は苦笑した。
「発想としては面白い。」
「でしょ?」
「でも、面白いことと数学として意味があることは別なんだ。」
「えー。」
玲は頬を膨らませる。
「冷たいなぁ。」
「数学は思いつきから始まる。」
海斗は静かに言った。
「だけど、その思いつきが本当に意味を持つかどうかは、証明しないと分からない。」
玲は腕を組み、にやりと笑う。
「じゃあ証明してみればいいじゃん。」
その一言に、海斗は返事ができなかった。
確かにそうだ。
否定する理由はない。
試してみればいい。
「……案外、面白い研究になるかもしれない。」
玲はぱっと表情を明るくした。
「ほんと?」
「ああ。」
「まずは定義を作る。」
「それから例があるか調べる。」
「例が見つかれば、新しい概念になる可能性がある。」
「じゃあ!」
玲は勢いよく立ち上がった。
周囲の視線が集まり、慌てて座り直す。
小さな声で続けた。
「名前も必要だよね!」
「名前?」
「うん!」
玲は少し考え、笑顔で言った。
「『交互完全数』なんてどう?」
海斗はその言葉を何度も心の中で繰り返した。
交互完全数。
奇数と偶数。
正と負。
交互に現れる符号。
不思議と、その名前は驚くほど自然に感じられた。
彼は白紙のノートを開き、新しいページの一番上へゆっくり書く。
『交互完全数』
その文字を書いた瞬間、不思議な高揚感が胸を満たした。
まるで、新しい研究テーマが自分を待っていたかのように。
その日の昼休みも、終わりを告げるチャイムが鳴る。
「あっ!」
玲は時計を見る。
「もうこんな時間!」
急いで荷物をまとめ、立ち上がる。
「また明日ね、海斗君!」
「ああ。」
玲は笑顔で手を振り、図書館を後にした。
自動ドアが閉まり、館内は再び静寂に包まれる。
海斗はノートに書かれた「交互完全数」の文字を見つめた。
「……本当に意味があるんだろうか。」
その答えは、まだ誰にも分からない。
夕方。
研究室へ戻ると、海斗は荷物を机へ置く間もなくノートを広げた。
窓の外は夕焼けに染まり、研究棟には静けさだけが漂っている。
「交互完全数……。」
昼間の会話が頭から離れない。
完全数は二千年以上研究されてきた。
もし、こんな単純な発想で新しい概念が見つかるなら、とっくの昔に誰かが気付いているはずだ。
だからこそ、半分は笑い話のつもりだった。
それでも数学者には、一つだけ守るべき原則がある。
思い込みで否定しないこと。
「証明するまでは、存在しないとも言えない。」
海斗はペンを握る。
新しい定義を書く。
約数のうち偶数は足し、奇数は引く。
その総和が元の数に等しくなる数を考える。
「まずは小さい数からだ。」
1。
違う。
2。
違う。
3。
違う。
5。
違う。
10。
20。
30。
40。
50。
ノートには「×」が並んでいく。
時計を見る。
もう午後九時を回っていた。
「やっぱり、ないか……。」
苦笑しながらノートを閉じようとした、その時だった。
視線が次の数字で止まる。
60。
「……これだけ確認して終わろう。」
約数を書く。
1、2、3、4、5、6、10、12、15、20、30。
ゆっくり符号を付ける。
−1+2−3+4−5+6+10+12−15+20+30=60
途中まで計算し、海斗の手が止まった。
「……え?」
頭の中で計算をやり直す。
もう一度。
紙に丁寧に書き直す。
さらに三度目。
答えは変わらない。
60。
「そんな……。」
椅子が音を立て、海斗は立ち上がった。
鼓動が速くなる。
何度も約数を確認する。
計算ミスを探す。
しかし、どこにも間違いはない。
玲が何気なく思いついた定義は、空想ではなかった。
たった一つの数によって、「存在する数学」へと変わったのである。
海斗は震える手でノートの表紙を開き、大きく書き込む。
『交互完全数』
その文字を見つめながら、小さくつぶやいた。
「……世界で初めて、見つけたのかもしれない。」
研究室には彼しかいない。
それでも、その夜だけは世界中の数学者が、自分のすぐ隣に立っているような気がした。
そして、その歴史の先へ、一歩だけ踏み出したようにも感じられた。
この一夜が、海斗の人生を変える。
玲の何気ない一言から始まった小さな発想は、やがて新しい数学を生み出し、二人の運命を大きく動かしていくことになる。
まだ誰も、そのことを知らなかった。




