つらら城の花嫁 23
もはや瘴気すら残さず、スノーガルーが消え。
黄金の輝きは、ゆっくりと、萎むように消えていった。
そして、空中で十字架めいたポーズで固定されていたダンが、白を取り戻した雪原に降りてくる。
ざ、と足元の雪を踏み締めたその男は、力強く右拳を虚空に掲げた。
「正義は……勝つ!」
張りのある、良い声だった。肌面積九割の男の口から出たものでなければ、もっといいセリフだったに違いない。
太悟はダンに駆け寄った。
「すごかったよ今の技! いろんな意味で! できれば鎧着てる時に見たかったな……」
「わはは、これぞ女神様の威光よ」
褒められて気を良くしたダンが、その分厚い胸を張る。後半は聞こえなかったらしい。
何にしてもスノーガルーは斃れ、ひとまずの危機は脱した。新手が現れない内に、街に戻りたいところだが。
と、ダンがすいと平原の向こうへ手を伸ばす。
「浮かんでいる時に見えたが、あちらにブランマスの街並みが見えたぞ。そう遠くはないようだ」
「本当? なら、急がないと」
装備を取り戻さなければならない。ファルケたちの居場所も確かめなければならない。
この地で何が起きているのか、全部ひっくるめて決着をつける必要がある。
そのためには、まず―――太悟は、ここからでは見えないブランマスを睨みつけた。
正確には、そこにいるはずの男を。
「わかってるよなあ、スルロフ」
太悟は吐き捨てるように言った。ぱき、と拳を鳴らす。
聞きたいことは、山ほどあるのだ。
そして、優しく口を開かさせてやる段階は、とっくの昔に過ぎている。
「うむ、その意気だぞ太悟!」
ダンがにかりと笑う。が、その瞳には獰猛な気配が宿っていた。
彼は誰もが認める善男であり心優しいゴリラだが、何もかもを許すというわけではない。
特に、すでに大勢の犠牲者が出ている状況では。
太悟とダンは振り返る。
今や倒れた木の根本。そこに散らばる、無数の骨。
味方に騙され、戦うことすらできずに殺された勇士たち。
ダンが黙祷を捧げる。太悟もそれに習った。
できれば、後でしっかり弔ってやりたい。それが、彼らに残った最後の権利であろう。
腹の中で、新たな怒りが込み上がってくるのを、太悟は感じていた。
直接の犯人であるスノーガルーは死んだ。では、共犯者にして裏切り者はどうすべきか。
(せいぜい、言い訳を考えておけよ)
それで、自分たちを同情させてみるがいい。
しかたがなかったと、思わせてみるがいい。
さもなくば。
太悟とダンは、ブランマスに向かって歩き出す。
審判の時が迫っていた。
# # #
ブランマス。
空になった酒瓶を、スルロフはテーブルの上に置いた。
ごん、と鈍い音が鳴る。静まり返った食堂には、その音がやけに大きく響いた。
駆動するストーブの温もりは、この場にいる誰の胸の内側も温めてはいなかった。
強い酒だった。強くなければ、もうほろ酔いにすらなれない。
口元を手の甲で拭いながら、スルロフはキオに声をかける。
「キオ、新しいのを持ってきてくれないか」
「兄さん……そんなに飲んだら……」
キオの声は小さい。叱るというより、縋るような響きだった。
スルロフの顔が、くしゃりと歪む。笑おうとして、失敗した。
作り笑いも、陽気なふりも、ずいぶん慣れたはずなのに。
「飲まずに済む方法があるなら、知りたいよ」
声は、掠れていた。
酒で焼けたのかもしれない。気持ちの問題かもしれない。
酔いが足りなかった。
だから、思い出してしまう。青白い氷の輝きを。
何もかもが変わってしまった時のことを。
あの日。
出現したつらら城に、スルロフ、クリマル、リザンの三人で乗り込んだのだ。
当然だろう。街のためを思えば、放置する選択などありえない。
だが、もしもその時に戻れるならば。当時の自分を殴り倒してでも阻止するだろう。
城の中は、外よりも寒かった。
息を吸えば、そのまま喉も杯も凍り付いてしまいそうだった。
壁も柱も床もすべてが氷で出来ていて、美しささえあるのに。
まるで巨大な獣の喉の奥を歩いているような、不快な静けさがあった。
足音が冷たく反響するたびに、自分たちが歓迎されていないことを思い知らされる。
そのくせ、衛兵も何も出てこない。あまりにも不気味だった。
「いやあ……なんか、すっごい観光地っぽいですねえ。絶対来たくないタイプの!」
リザンは、いつも通りに明るく振舞っていた。
強がりだと、スルロフにはわかっていた。だが、今はそれさえ一つの癒しだ。
「油断するな」
ウォーピックを抱え、ただそれだけを言う。口の中は乾いていた。
「……」
クリマルは、無言で周囲を睨んでいた。警戒の深さは、そのまま彼の緊張を表していた。
そして。
そのまま、何の妨害もないまま、三人は謁見の間に辿り着く。
最奥―――玉座に腰を下ろすドラクスリートが、わざとらしく溜息をついた。
「全員男か。今回は引きが悪かったな」
何を言ってるのかわからなかったが、スルロフは魔物が喋ること自体に息を呑んでいた。
知性がある魔物の危険さは、噂に聞いている。
「先手必勝ってやつです!」
最初にしかけたのはリザンだった。
指先から放たれた光弾が、薄暗い氷の空間で七色に炸裂する。
赤、青、黄、緑。鮮やかな光が氷の壁に反射し、謁見の間を一瞬だけ祝祭の色に染めた。
この目くらましを起点にして展開するのが、三人の戦術だったが。
「くだらん」
ドラクスリートは、その美しさを一顧だにしなかった。
動いたと認識した時には、もう遅かった。
次の瞬間。魔物は、リザンの目の前にいて。
手刀が、少年の胸を貫いた。
「え、っ」
それが、リザンの最後の言葉だった。
きっと、本人も何が起きたか、わかっていなかっただろう。
手刀が引き抜かれ、鮮血が氷の床に散る。
鮮やかな赤は、先ほどの花火よりも派手に、残酷に、冷たい世界の上に広がっていった。
床の上に打ち捨てられたリザンの体は、もう二度と動かなかった。
「――――」
スルロフの喉が凍りつく。
怒鳴るべきなのに、足を踏み込むべきなのに、体が一瞬遅れた。
「リザンッ! ……貴様!!」
その空白を引き裂いたのは、クリマルの声だった。
普段は低く抑えられた男の叫びが、悲鳴のように響く。
忍者の両手が踊る。
見えない糸が幾重にも走り、ドラクスリートの四肢へ、胴へ、首へと絡みつく。
巨岩すら吊るす強靭無比な糸だ。締め上げ、切断し、氷の魔物をバラバラにするはずだった。
だが。
「今度は糸遊びか。しょうもないことよ」
ドラクスリートがそう言うと、糸の上を白い霜が這う。
最初は細く、蜘蛛の巣に朝露が降りたかのようだった。けれど次の瞬間には、それは氷の蛇となって駆けた。
「うっ!?」
クリマルが呻く。糸を切ろうとするが、間に合わない。
氷は指先に追いつき、爪を、皮膚を、関節を、瞬く間に飲み込んでいく。右手が、左手が、肘が、肩が、白く、硬く、命を失ってゆく。
「が、あああ!!!」
生きたまま凍るとは、どれほどの苦痛を生むのか。
スルロフは今まで、クリマルが悲鳴を上げるところなど見たことが無かった。
氷像と化した仲間に手を伸ばす。もう、何もできないのに。
ドラクスリートが、軽く腕を振る。
そして。苦痛の表情のまま凍り付いたクリマルは、無数の破片となって崩れ落ちた。
きらきらと、白と赤が混ざるそれらは、どこか美しくて。
だから、ひどく無惨だった。




