序章 世界が終わった日
序章 世界が終わった日
九年前。
世界は、一度だけ終わりかけた。
それは戦争でも、疫病でも、天災でもなかった。
ただ、一枚の扉が開いただけだった。
天星市の上空。
雲を突き破り、空間そのものに突き刺さるように、巨大な両開きの扉が浮かんでいた。
黒く変色した金属。
生き物の骨を思わせる装飾。
幾重にも絡み合う鎖。
扉の表面には、数え切れないほどの顔が刻まれていた。
泣いている顔。
笑っている顔。
怒っている顔。
苦痛に歪む顔。
それらは彫刻のはずだった。
しかし、時折まばたきをした。
ある顔は唇を動かし、ある顔は誰かの名前を呼んでいた。
そして扉の中央には、巨大な赤い眼球が埋め込まれていた。
――ギ、ギギギギギ。
扉が、開いた。
ほんのわずかに。
それだけで、街の窓ガラスが一斉に砕け散った。
空が赤黒く染まる。
地面が軋む。
街路樹が根こそぎ引き抜かれ、車が宙へ浮かび上がった。
人々の悲鳴が、街中に響き渡った。
「逃げろ!!」
「何なんだ、あれは!!」
「誰か! 誰か助けて!!」
扉の隙間から、黒い瘴気が流れ出した。
それに触れた建物の壁が腐り落ちる。
道路がひび割れる。
空を飛んでいた鳥が、次々と地面へ落ちていった。
そして。
扉の向こうから、何かが現れた。
人間のような姿をしたもの。
巨大な角を生やしたもの。
四足歩行の獣に似たもの。
顔のないもの。
幾つもの腕を持つもの。
それらは次々と現世へ降り立った。
あるものは、人々を襲った。
あるものは、建物の陰へ消えた。
そして、あるものは。
まるで最初から人間社会を知っていたかのように、人の姿へ変わり、逃げ惑う群衆へ紛れ込んだ。
誰も、そのことには気づかなかった。
目の前で世界が崩壊しようとしていたからだ。
◇ ◇ ◇
「――舞彩!!」
男の叫び声が響いた。
七歳の少女が、道路の真ん中に立っていた。
立花舞彩。
右目は、澄んだ青色。
左目は、柔らかな茶色。
少女は、空を見上げていた。
巨大な扉が、そこにあった。
「……ぱぱ?」
父親が駆け寄ってきた。
ごく普通の会社員だった。
魔法など使えない。
剣術も知らない。
世界を救う使命を背負っているわけでもない。
ただ、妻と娘を愛する、どこにでもいる父親だった。
「舞彩! 早く逃げるぞ!」
父親は娘を抱き上げた。
しかし、その瞬間。
――ゴォォォォ!!
扉の吸引力が、急激に強まった。
「……っ!」
父親は近くの街灯につかまった。
片腕で舞彩を抱きしめ、もう片方の腕で必死に身体を支える。
「舞彩! しっかりつかまってろ!」
「……こわい……!」
「大丈夫だ!」
父親は叫んだ。
「ぱぱがいる!!」
街灯が軋んだ。
地面に亀裂が走る。
周囲の建物から、壁や屋根が剥がれていった。
このままでは、二人とも吸い込まれる。
父親は、必死に周囲を見回した。
少し先に、崩れた建物の鉄骨があった。
それは巨大な扉の縁に引っかかり、扉の開きをほんのわずかに妨げていた。
父親は舞彩を、崩れた壁の陰へ押し込んだ。
「舞彩、ここにいろ!」
「……ぱぱ?」
「絶対に動くな!」
父親は走った。
風に逆らい、瓦礫を踏み越え、鉄骨へ向かう。
何度も転んだ。
手のひらが裂けた。
膝から血が流れた。
それでも、止まらなかった。
鉄骨にたどり着くと、両手でつかんだ。
「……くそっ!」
全身の力で押す。
びくともしない。
「……頼む……!」
もう一度。
「……閉じろ……!」
さらに力を込める。
「……閉じろよ……!」
鉄骨が軋んだ。
扉の片側が、ほんの少しだけ動いた。
それは、世界を救うにはあまりにも小さな抵抗だった。
魔法でもない。
奇跡でもない。
ただ、一人の父親が必死に抗っているだけだった。
それでも。
扉の開く勢いが、わずかに鈍った。
「……よし……!」
父親は、歯を食いしばった。
「……このまま……!」
だが。
――バキン。
鉄骨が折れた。
父親の身体が、宙に浮いた。
「……あ」
舞彩が、顔を上げた。
父親は、必死に手を伸ばした。
「舞彩!!」
少女も手を伸ばす。
「……ぱぱ?」
父親は叫んだ。
「――生きろ!!」
そして。
父親は、扉の向こうへ飲み込まれた。
「…………」
舞彩は、立ち尽くした。
「……ぱぱ?」
返事はなかった。
「……ぱぱ……?」
もう一度、呼んだ。
何も聞こえない。
大好きな父親が、目の前から消えた。
それだけは、分かった。
「……ぱぱぁ……」
少女の頬を、涙が伝った。
しかし、扉は閉じなかった。
むしろ、さらに大きく開こうとしていた。
街が、崩れていく。
空が、裂けていく。
世界は、まだ終わろうとしていた。
◇ ◇ ◇
そのとき。
「――危ない!!」
少年の声が響いた。
瓦礫の向こうから、一人の男の子が駆けてきた。
少年は、街の異変に気づいて駆けつけたのだった。
何が起きたのかは分からない。
何が原因なのかも知らない。
ただ、尋常ではない魔力の奔流を感じた。
そして、その中心に巨大な扉があった。
「……何だよ、これ……」
少年は、空を見上げた。
扉は、さらに開こうとしていた。
このままでは街どころか、世界そのものが飲み込まれる。
少年は、近くに小さな少女が倒れていることに気づいた。
「……大丈夫!?」
駆け寄る。
少女は泣いていた。
何かを必死に呼んでいた。
しかし、その言葉は風にかき消されていた。
少年は、少女を崩れた壁の陰へ移した。
「……ここにいて」
そして、空を見上げた。
「……あれを、閉じればいいんだね」
少年の両手に、白い光が集まり始めた。
この世界に、魔法を使える人間はほとんどいない。
生まれつき魔法の素質を持つ者ですら、極めて珍しい。
そして、その素質を覚醒させられる者は、さらに少なかった。
仮に魔法使いだけを集めて六学年制の学校を作ったとしても、全校生徒が一人か二人。
多くても三人。
それほどまでに、魔法使いは希少だった。
しかし、この少年は違った。
生まれながらに魔法を操り、誰に教わることもなく術式を理解し、常識では考えられないほどの魔力を持っていた。
先天性の大天才。
世界そのものに愛されているとしか思えないほどの才能。
だが。
目の前の扉は、その少年にとってさえ、あまりにも巨大だった。
「……やるしかない」
少年は、両手を掲げた。
「――閉じろ!!」
白い光が空へ伸びる。
幾重もの魔法陣が展開された。
巨大な扉を囲むように、光の鎖が現れる。
――ギギギギギ。
扉が、わずかに動いた。
少年は歯を食いしばった。
「……まだ……!」
魔力を注ぎ込む。
扉の片側が、少しずつ閉じていく。
しかし。
――ゴォォォ!!
扉の向こうから、凄まじい抵抗が返ってきた。
少年の身体が震える。
「……っ!」
魔力が、急激に削られていく。
それでも、少年は止めなかった。
「……閉じろ……!」
白い光が強まる。
「……閉じろよ……!」
扉が、少しずつ閉じていく。
しかし、途中で止まった。
少年の魔力が、限界に近づいていた。
「……足りない……!」
そのとき。
少年は、扉の縁に引っかかった鉄骨を見た。
折れた鉄骨。
その残骸が、扉の開く勢いをわずかに妨げていた。
誰かが、そこに抗った痕跡。
少年は、その意味を知らなかった。
ただ。
そこに、ほんのわずかな可能性が残っていることだけは分かった。
「……だったら……!」
少年は、残る魔力をすべて集めた。
身体の奥底から、何かが引き剥がされるような感覚。
指先の感覚が消える。
足が震える。
視界が白く染まる。
それでも。
「――閉じろぉぉぉ!!」
白い光が、爆発した。
扉の中央にある赤い眼球が、大きく見開かれた。
無数の顔が、悲鳴を上げた。
そして。
――ゴォォォン。
巨大な扉が、完全に閉じた。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
扉は、世界から消えた。
空に青色が戻る。
風が吹く。
遠くで、鳥が鳴いた。
まるで、何事もなかったかのように。
少年は、その場に膝をついた。
「……はぁ……はぁ……」
両手を見つめる。
魔力が、感じられなかった。
ほんの少しも。
「……あれ?」
少年は、指先に小さな光を灯そうとした。
何も起きない。
もう一度。
何も起きない。
「…………」
少年は、静かに手を下ろした。
世界に愛された才能は。
たった一度、世界を救った代償として、すべて失われた。
少年は、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
倒れている少女へ歩み寄る。
「……よかった」
少女は、意識を失っていた。
少年は、その小さな手を握った。
「……もう、大丈夫だよ」
そのとき。
胸の奥に、奇妙な痛みが走った。
「……っ!」
一瞬だけ、視界が暗くなる。
耳の奥で、何かが軋む音がした。
――ギギギギ。
まるで。
閉じたはずの扉が、どこかで再び動いているかのような音だった。
少年は、胸を押さえた。
しかし、痛みはすぐに消えた。
「…………」
少年は、しばらく黙っていた。
そして、何事もなかったかのように立ち上がった。
遠くから、救助隊の声が聞こえてくる。
少年は、少女を安全な場所へ寝かせた。
その顔を、もう一度見た。
知らない少女だった。
名前も知らない。
どこから来たのかも分からない。
ただ、無事でよかった。
少年は、小さく笑った。
「……元気でね」
そして、救助隊が到着する前に、その場を離れた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
天星市の地下深く。
崩れた地下通路の奥で、二つの影が向かい合っていた。
一つは、黒い外套をまとった長身の男。
もう一つは、人間の子供ほどの大きさをした、角のある異形。
『……門は閉じた』
異形が、低い声で告げた。
長身の男は、静かに頷いた。
「ええ。残念なことです」
『……どうする』
男は、地上を見上げた。
「何も問題ありません」
『……何?』
「すでに、こちら側へ渡った者は大勢います」
男は、穏やかに笑った。
「扉が閉じたのなら、再び開けばよいだけのこと」
『……可能なのか』
「もちろん」
男は、ゆっくりと手袋をはめた。
「時間は、いくらでもありますから」
そして、地上へ歩き始めた。
人間の街へ。
人間の社会へ。
これから長い時間をかけて、侵食していく世界へ。
男は、最後に一度だけ振り返った。
「それに……」
口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「門を開いた存在は、まだこちら側にいるのですから」
異形は、何も答えなかった。
男は、そのまま闇へ消えた。
九年前。
世界は、確かに救われた。
しかし。
世界を終わらせようとしたものまで、消えたわけではなかった。




